045 抱擁
ゲオルグのこぶしが眼前を通り過ぎる。
カーティスが私の足を掴み、力任せに引き下ろしたのだろう。足首に鋭い痛みが走る。その勢いのままに、私は背中から地面に落ちていた。
突然の衝撃に、私の口からくぐもったうめき声が漏れた。
「――邪魔だ」
カーティスは言うや否や、私を遠ざけるようにつま先だけで蹴り上げる。ふわりと私の体が浮かび上がっていった。
「邪魔なのは、お前だろうが」
嘲りに満ちたゲオルグの声が遠ざかっていく。私を逃がすことに意識が向いていたからか、カーティスは無防備だった。
ゲオルグのこぶしが、カーティスの腹部を抉る。
再び私が地面に落ちると同時に、カーティスも膝から崩れ落ちていった。
ゲオルグの足元へとカーティスはうつ伏せに倒れる。嗜虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりとゲオルグの右足が上がっていった。
「――止めて!」
前へと這いつくばりながら、私は右手を伸ばす。カーティスの頭を庇うことは叶わなかった。
堰を切ったようにゲオルグの足が勢いよく落ちていく。
限界まで伸ばした右手を超え、何匹もの蝶たちがカーティスの元へと羽ばたいていった。
「リーシェ!」
先行する一団がカーティスの頭を覆い隠し、ゲオルグの足を押し留める。次の一団は、ゲオルグに向かって突撃していった。
ゲオルグは慌てて飛び退き蝶たちを回避するが、第三の部隊が追撃を行う。一歩二歩とゲオルグは押しのけられるように遠ざかっていった。
攻撃を行った蝶たちは大きく旋回し、大集団を形成する。私とカーティス、ゲオルグの間に蝶たちの防壁が築き上げられていく。
体を起こした私はカーティスの側へと駆け寄ってしゃがみ込む。背中を擦りながらカーティスの顔を覗き込むが、起きる気配はなかった。
ゲオルグは、私の遥か後方を睨みつけている。情けなさと悔しさを紛らわせるように、私は下唇を噛み締める。ぬらりと零れた血が口の中を汚していった。
十数秒後、走り寄ったリーシェが私の隣に並ぶ。私もそっと立ち上がった。
「小娘、まだ邪魔立てする気か?」
「するよ。するに決まっている」
リーシェは間髪を入れずに答える。その瞳はゲオルグだけを捉えていた。
「エルティナも、カーティスも、二人とも大切なんだ。傷つけるなら許さない」
「エルティナ様の力で粋がるな……そう言わなかったか、小娘」
「お前の言うことなんて知らない、聞くわけないよ」
「――痴れ者が!」
ゲオルグの吐き捨てるような叫びに呼応して風が吹き荒れる。思わず一歩後ろへと私は下がっていた。
「小娘、お前は殺す」
低い冷め切った声でゲオルグは断定する。弾かれたように私が顔を向けた瞬間、憎悪に満ちた瞳と視線が交わった。
顔を強張らせる私に反し、ゲオルグは愉しげな笑みを浮かべた。
――小娘を殺せ。
突然、頭を締めつけるような痛みが走る。反射的に蹲ろうと体を動かそうとするが、指先ひとつ動きやしない。
ゲオルグの瞳に魅入られたのか、私は瞳を逸らすことができなかった。
――小娘を殺せ。
――嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
――小娘を殺せ。
――殺さない! 私は、リーシェを殺したりしないわ!
心の中であらん限りに叫ぶが、体は私の意思を無視して動き出す。
後ろへと引かれた左腕が闇を纏っていく。闇魔法が発動される感覚を、私が間違えるわけがない。震える左手が握りこぶしを作っていった。
リーシェとゲオルグが何かを言い合っているが、私の耳には聞こえてこない。瞳に映る世界から、色が抜け落ちていく。
リーシェを殺したくない。でも、殺したい。
ゲオルグを殺したい。でも、殺したくない。
頭が割れるように痛い。幻聴は治まらなかった。
リーシェを殺すならば、後一歩だけ踏み込めばいい。
ゲオルグを殺すならば、後十歩だけ踏み込めばいい。
心の天秤は激しく左右に揺れ動く。リーシェからゲオルグへと、私の殺意を向ける対象が切り替わっていく。
左こぶしを突き出さんと、私は腰を落とした。
――小娘を殺せ。
――リーシェを……殺す。
頭蓋を叩き割られるような激痛に涙が零れていく。
落ち着きなき揺れる左こぶしを強く握りしめるが、震えは治まらない。それでも、今にも飛びかからんと両脚に力がこもる。風魔法で作った小さな竜巻が両脚に絡まっていった。
私の準備が整ったと見たのか、ゲオルグの口元は大きく弧を描いた。
次の瞬間、私の視界は真っ黒に染め上げられた。パリン、と鏡が割れる音が聞こえ、脱力するように体が傾いていった。
「私は、エルティナを信じている!」
「――小娘!」
リーシェとゲオルグ、二人の声が響く。
両脚で踏ん張り、私は無理やりに顔を上げる。頭痛は治まっていた。
即座に竜巻を爆発させ、私はリーシェへと飛びかかる。闇魔法で作り上げられた暗闇の中、ひらりひらりと真白の蝶が羽ばたくのがはっきりと見えた。
――リーシェ、ありがとう。
真白の蝶に狙いを定め、左こぶしを振り下ろす。こぶしが何かにめり込んでいく。私は全体重で押し潰すように地面へと叩きつけた。
こぶしの先から闇魔法を展開し、対象の意識を奪う。掴まれていた左手首から圧迫感がなくなっていった。
私は小さく息を吐き出して座り込む。二度三度と呼吸を整えた後、風を巻き起こして暗闇を払った。
視界の先には、倒れ伏したゲオルグの姿があった。
「……エルティナ」
泣き出しそうな声に従い、私は顔を上げる。リーシェが泣き笑いの表情で私へと手を差し伸べていた。その頬からは赤い模様が消えていた。
リーシェに引かれ、私はゆっくりと立ち上がる。真白の蝶が一匹二匹と闇夜に溶けていく。リーシェの白銀の髪が風に流されていった。
「ありがとう」
「いいんだよ、エルティナ」
リーシェに私は抱き寄せられた。
「終わったんだよね?」
「ええ、終わったわ。……リーシェのおかげよ」
私はリーシェの胸元に額を押し当てる。子供をあやすようにリーシェが私の背中を撫でていった。
その心地よさに身を任せ、私はまぶたを下ろす。体全身から力が抜けていった。
「エルティナが頑張ったんだよ」
「……リーシェも頑張ったわ」
耳元で優しくささやいたリーシェから逃げ出すように私は顔を背ける。抱きしめるリーシェの両腕に力がこもった。
「エルティナも、カーティスも、私も……皆で頑張ったんだ。生きているんだ」
嗚咽を漏らすリーシェが私の肩に頭を押しつける。痛いぐらいに強く私の体を締めつけた。リーシェに対して抵抗するつもりは一切ない。どこか安心感を覚えた私の頬は緩んでいた。
満足するまで付き合ってあげよう、そう考えた私は抱き人形と化していた。
リーシェの肩越しにボンヤリと視線を巡らせていく。左から右へ、右から左へ。何度も何度も繰り返していた。
五往復に達するころ、唐突に私の動きは固まる。うつ伏せで倒れたままのカーティスが小さく手を振っていた。
目をしばたかせる私に向かって、カーティスは悪戯っぽくウィンクを送る。声を出さずに口をパクパクと動かした。
――リーシェの好きにさせてやってくれ。
カーティスはわざとらしくサムズアップする。揶揄うような態度に私は睨みつけるが、カーティスに気にする素振りはない。
楽しげな笑みを浮かべたカーティスは、ごろりと仰向けになる。夜空に向かって真っすぐに右手を伸ばした。そして、手のひらから魔法を放った。
夜を切り裂くように金色の光が天へと向かっていく。遥か上空で爆発し、光の花を咲かせた。
大輪の花に色づくは、エメラルドを思わせる深い緑。それは、リーシェの救出とゲオルグの捕縛をサイラスたちに告げるための、勝利の合図だった。
夜空に咲いた一輪の花を私は見つめる。光が消え落ちた後も、飽きることもなくずっと見上げていた。




