044 攻勢
リーシェの姿は変わってしまった。
白銀の髪に、私には見慣れた赤い模様。人間よりも精霊に近い雰囲気を纏っている。ただ立っているだけでリーシェは闇のイプスへと干渉していた。
リーシェ自身が変わっていないことはわかっている。
全身を押し潰すような倦怠感を鑑みるに、リーシェが私の魔力を奪ったのだろう。私が闇のイプスを取り込むのと原理は同じに違いない。だから、心が塗り替えられたりはしないと知っている。
それでも、今のリーシェを人間と見なすことはできなかった。
私は気持ちを落ち着けるように、大きく息を吐き出す。同時にまぶたを下ろしていく。脳裏に浮かんだのは、懐かしい友人の姿だった。
『フィーネ!』
思わず叫んだ言葉が恥ずかしくて情けない。三百年前のアルスメリア王国の王女が生きているわけがない。
リーシェとフィーネ。確かに二人の姿は似ている。同じ髪色となった今ならば猶更のことだ。それでも、声を聞いてしまえばリーシェを間違いたりはしなかった。
私はもう戻ることの叶わない過去に、まだ縋っているのだろうか。
未来への希望か、過去への憧憬か。リーシェとフィーネのどちらの姿を見て涙が零れたのかはわからない。ただ――。
私は強く目もとを擦る。二度三度と繰り返してから、顔を上げて前を向く。
開けた視界の先では、お姉さんぶった笑みを浮かべたリーシェが両腕を広げている。おいでおいで、そう私を誘うように両腕を大きく上下させていた。
口もとに浮かび上がる笑みを噛み殺しながら、私はリーシェに近づいていく。そして、リーシェの脇をくぐり抜けて前へと歩き出した。
不満げな「エルティナ!」と咎めるリーシェの声に、私は悪戯っぽく微笑む。
リーシェとの出会いはただの偶然に過ぎないかもしれない。それでも、私の心は確かに満たされていた。
私は両手でパンパンと両頬を強く叩く。緩んだ気持ちをもう一度だけ引き締め、正面を睨みつける。視線の先には、ゲオルグと戦うカーティスの姿があった。
ゲオルグと一進一退の攻防を繰り広げるカーティスは間違いなく強かった。それでも――。
「カーティスが負けるわ」
どちらが有利かで言えば、間違いなくカーティスだ。
ゲオルグの左半身の傷は重く、左手で戦うことは難しい。治療していないところを見るに、私のかけた闇魔法もまだ活きているのだろう。今のゲオルグに光魔法は使えない。
対するカーティスに目立った怪我はなく、死角となったゲオルグの左側を中心に攻めている。その判断は間違いなく正しい。
ただ、カーティスには決定打がない。ゲオルグは風魔法で壁を作っているのか、カーティスの振るうナイフはゲオルグまで届いていなかった。
カーティスを助けるように白い蝶たちが飛び交っているが、ゲオルグの魔弾を防ぐ盾にしかなっていない。その数も残りは十数匹と心もとなく、攻撃に転じれるとは思えない。
長期戦となれば、勝利の天秤はゲオルグへと傾くに違いなかった。
「……エルティナ」
唐突に左手を掴まれた私は顔を横へ向ける。不安げな表情のリーシェが両手で私の左手を包み込んでいた。
「カーティスを助けるわ」
私は体をリーシェへ向け、赤い模様の浮かぶリーシェの右頬に触れる。そして、ムニムニと軽く横に引っ張った。
「遠慮はいらないのよ、リーシェ。どうして欲しいの?」
柔らかなリーシェの頬を強く横に引き、勢いよく手を離す。私は微笑んだ。
「カーティスを助けてよ、エルティナ」
「ええ、任せておきなさい」
微笑み返すリーシェに、私は胸を張って応える。ゲオルグとの戦闘を想い、私の心は高揚していく。
私の昂りに呼応するように、真白の蝶たちが周囲を飛び交っていった。
「……この蝶は何かしら?」
私が右手を前に差し出すと、一匹の蝶が指先に止まる。
「エルティナの蝶だよ! ……違うの?」
「知らないわ。でも、カーティスを守っているし、敵ではないみたいね」
「えっとね、私がカーティスを守るようにお願いしたんだよ」
「リーシェが?」
弾かれたように私は顔を向ける。リーシェは少し得意げに「そうだよ」と答え、両手を組んで祈りを捧げた。
次の瞬間、私とリーシェを中心に蝶たちが円を形作る。等間隔に並ぶ蝶たちを見れば、リーシェの指示に従っているには明白だった。
ぐるりと蝶たちを見渡し、私は「すごいわ」と感嘆の声を漏らしていた。
「エルティナにはできないの?」
祈りを止めたリーシェが何の気なしに訊ねる。
私にも真白の蝶たちを扱えるのだろうか? 小さく息を吐き出した後、私は真白の蝶たちへと干渉していく。
数秒後、私は首を左右に振っていた。
「私には使えないみたいね。これは、リーシェだけの魔法だわ」
「……私の魔法」
自覚がないのか、リーシェは不思議そうにつぶやく。チラリと視線をカーティスに向けると、その側には五匹の蝶しか残っていなかった。
「カーティスを助けに行くわ」
自分の世界に沈んだリーシェの額にデコピンをし、私はキッパリと告げる。
「リーシェ、私とカーティスを守りなさい。その蝶を使えばできるはずよ」
「……私が二人を守る」リーシェはしみじみとつぶやいた。
「そう、貴方が守るのよ。……だって、私はゲオルグに負けているのよ? カーティスもこのままだと負けるわ」
私は冗談めかして言葉を紡ぐ。目をしばたかせるリーシェの頭にポンと手を置き、力一杯に撫でまわした。
「それとも、ここで待っている? 私はどちらでも構わないわ」
戦う力があると知った今も大人しく待てるの?
続く質問は口には出さない。リーシェの答えは訊ねなくとも予想がついていた。
「エルティナもカーティスも、私が守るから任せてよ!」
「ええ、任せたわ」
元気よく答えるリーシェに、私は頬を緩める。
名残惜しさを感じながらも、リーシェに背を向けて歩き出す。一歩二歩と進むにつれ、私を中心に風が巻き上がっていった。
ゲオルグほどではないが、私の状態も万全とは言い難い。
魔力の大半をリーシェに奪われている今、私が使える魔法にも限りがある。加えて、ゲオルグが最後に私へ撃ち込んだ弾丸の影響を無視できなかった。
恐らく薬が仕込まれていたのだろう。ゲオルグへの敵意は削がれ、好意すら寄せそうになる。
私が自らの意思でゲオルグに協力しなくとも構わない――あの言葉は偽りではなかったのだ。
もし私がゲオルグに従えば、リーシェもカーティスも殺されるに違いない。敵対した二人を見逃すとは考えられなかった。
――理性を総動員して薬の影響を抑え込んでいた。
パンパン、気を引き締めるように私は両頬を叩き、ゲオルグへの怒りを滾らせていく。私がゲオルグを見据えた瞬間、突風が吹き荒れる。私の体は一直線にゲオルグへ向けて飛んでいった。
「――伏せなさい、カーティス」
地面すれすれの低空飛行で近づきながら、風に声を乗せる。カーティスの背中がゲオルグから私の姿を隠していた。
漆黒に染まった右手を強く握りしめ、私はカーティスの後頭部へ狙いを定める。カーティスが身を屈めた瞬間、私は両足で地面を蹴り、一気に跳び跳ねた。
カーティスに向けて放たれたゲオルグのこぶしが空を切る。目を大きく開いたゲオルグの顔目掛けて、私はこぶしを振り下ろしていった。
私のこぶしがゲオルグを穿つ直前、ゲオルグと視線が交わる。その瞬間、万力で締め上げられるような痛みが脳内に響いた。
握ったこぶしが緩み、纏った闇魔法が霧散していく。力なく頬を叩いた私を、ゲオルグの獰猛な瞳が捕らえる。恐怖か、それとも歓喜か。私の心は真っ黒に塗り潰されていった。
ゲオルグの裏返したこぶしが私を打ち払わんと迫るが、どこか他人事に思えたのは薬の影響だろうか。時間の流れが遅くなったのか、全てがスローモーションに見えていた。




