042 再生
リーシェ視点です
怒りで感覚がおかしくなっているのか、痛みが感じられない。
ナイフで刺された事実を聞き、狂いかけた精神はすっかりと安定している。真っ赤に染まっていた視界も開けていった。
死にたくない――その想いは色馳せていた。私の心を支配したのは、ゲオルグへの怒り。どす黒い炎がゆらりと燃えあがっていき、殺意へと変わっていく。
エルティナとカーティス、大切な人たちを傷つけたゲオルグを許すことはできない。絶対に許せない。
睨みつけた視線の先では、ゲオルグがエルティナを守護する真白の蝶たちを追い払っていた。
ゲオルグの言葉通りならば、エルティナの魔力が減った今、真白の蝶が増えることはない。あの十数匹が失われれば、エルティナに身を守る術はない。ゲオルグに捕らわれてしまう。
一匹……二匹……。真白の蝶が姿を消していく。
残り十匹となったとき、一匹の蝶と視線が交わる。翼を傷つけられたのか、上下左右に蛇行しながらエルティナのもとを離れていく。私のもとまで後数歩の距離で、真白の蝶は地面へと叩きつけられた。
折れた片翼を引きずりながら、たどたどしく私へと近づいてくる。目の前にたどり着いたときには、エルティナを守る盾は三匹まで減っていた。
真白の蝶は、私の顔をじっと見つめる。『エルティナを助ける気があるのか』とまるで覚悟を問うような雰囲気にわずかに息を呑む。私は地面に横たえた頭でうなずいて見せた。
その場で翼を二度三度とはためかせた蝶は、真白から漆黒へとその体の色を変えていく。目を見開く私をよそに、飴細工のようにドロリと蝶が溶けていった。
蝶が泥に変わったの? 呆然と眺めてばかりの私を置き去りにして状況は移り変わっていく。
真白の蝶が溶けた場所を起点に、地面が泥へと塗り替えられる。数秒も経たない内に私は泥の海に浮かんでいた。
救いを求めるようにキョロキョロと視線を動かすが、誰も助けに来てはくれない。エルティナを守る蝶は残り二匹となっていた。
私の動揺などお構いなしに泥が乗り上げていく。手足から体、そして頭へと。
生き埋めにされるの? 本能的な恐怖で体が凍りつく。
泥の拘束が無くとも今の私には指先一つ動かすことができない。抵抗の余地はどこにもなく、ただ蹂躙されるのを待つしかなかった。
私の体も溶かされてしまうのでは? 泥に埋もれた体のことを想い、絶望的な未来から目を逸らすようにまぶたを下ろす。時をおかずに、外へと繋がっていた私の頭も泥の中に沈んでいった。
しかし、死の瞬間はなかなか訪れては来なかった。
ナイフの突き刺さった首元に熱がこもっていくが、不快に感じない。むしろ安心感すら与えてくれる。その熱だけが私の体が溶けていないことを知らせてくれていた。
窒息死するかもしれない、そう思いもしたが息苦しさを感じない。ただ真っ暗な空間の中でじっと横たわっているだけだった。
数秒なのか数十秒なのかもわからない。
唐突に光を感じて目を開いたとき、水晶玉の中にエルティナが閉じ込められていた。真白の蝶は一匹も見当たらない。
ゲオルグが二重三重に壁を強化しているのか、水晶は淡く発光していた。
私が慌てて体を起こすと、纏わりついていた泥が剥がれ落ちていく。手足も問題なく動いている。思わず座り込んだ私は両腕を確認していた。
手のひらを何度も開閉するが違和感はない。右腕に赤い紋様が走っていることが気がかりだが、今はどうでもいいと投げ捨てる。
ゲオルグに捕らわれたエルティナを助け出すことの方が重要だった。
心地の良い高揚感に包まれているのは、エルティナの魔力が全身に満ちあふれているからだろうか。体が信じられないほどに軽く、体中に力がみなぎっている。そして、今まで見えなかったものも見えるようになっていた。
白銀の蝶が降り注いでいた鱗粉から真白の蝶が一匹二匹と生まれていく。鱗粉に擬態する蝶たちは命令を待っているように見えた。
私が立ち上がった瞬間、真白の蝶たちは翼を立てる。
「――エルティナを助けて」
ゲオルグに向かって私は指を指し示す。百匹をゆうに超える蝶たちが、一斉に飛びかかっていった。
一匹一匹の能力が劣っていても、百匹を同時に相手取ることは難しい。
エルティナを閉じこめる牢獄を作っていたゲオルグは慌てたように距離をとる。その隙に、私は一目散にエルティナのもとへと走っていた。
私はエルティナを庇って前に出る。真白の蝶たちがゲオルグからの攻撃を防ぐ盾として展開していった。
忌々しげに睨みつけるゲオルグと私の視線が、蝶たちの合間を縫って交わった。
「小娘、邪魔立てする気か」
ゲオルグは低い声で威嚇し、懐から取り出した魔銃を私に向けた。
「エルティナをどうするつもり? 誘拐なんて許すわけないよ」
「誘拐? つまらない冗談だ」ゲオルグが鼻で笑った。
「やってることは同じだよ。最低だ」
「ものの道理も知らない小娘が、一人前の口を利くなよ」
怒りを押し殺したような声でゲオルグはつぶやき、私は思わず一歩後ずさった。
「精霊と人間を救うためには必要なことだ。エルティナ様には人間を憎み、復讐してもらう。お前は死に、その礎になればいい。光栄なことだろ?」
「それ、本気で言っているの? エルティナは復讐を望んでいないんだよ」
この男は狂っている。エルティナを渡したらダメだ。
射抜くようなゲオルグの視線に対し、私は冷めた瞳で答える。わかり合うことは決してない、そう直感した。
「エルティナを魔物にして人間を襲わせるつもりだったの? それで、人間と精霊が救われるわけがない。エルティナが救われない」
「多少の犠牲は当然だろう。エルティナ様も、お前も、俺もだ」
「勝手にしててよ! エルティナと私を巻き込まないで!」
エルティナを利用して殺す――この男は最低だ。
私も死ぬわけにはいかない。エルティナは『精霊の呪い』を気にしている。私が死んだら、エルティナはきっと苦しむし、もう笑ってくれない。そんなこと認められない。
「精霊のまがい物が……指図するな!」
ゲオルグが魔銃の引き金を引く。真白の蝶たちが魔弾を防いだ。
「お前が使っている魔法は、エルティナ様のものだ。決してお前のものではない。魔法は精霊だけのものだ」
二発目三発目も真白の蝶たちに防がれ、私には届かない。
「人間は魔法を使うべきではない。アルスメリア王国こそが、俺たちが理想とすべき世界なんだよ」
アルスメリア王国――エルティナが暮らしていた国だ。精霊と人間が共存していた、今はもう滅んでしまった王国。エルティナが過去のよすがとしている大切な想い出。
私の心の中で沸き上がっていた怒りが、唐突に破裂した。
「バカ、バカ、バカだ」
お前のことだぞ、そう示すように右手の人差し指をゲオルグに向かって伸ばす。
「昔は知らないけど、今は魔法を使えるのが当たり前なんだよ。子供でも知ってる常識を理解できていないの? ……その怪我だって光魔法で治すんだよ。魔法がないと困るのは、貴方も同じなんだ。そんなことも、わからないの?」
「魔法を使えば良い、それがお前の考えか?」
「貴方がどんな考えを持っていても自由だよ。だけど、それをエルティナに押しつけないで!」
私は伸ばしたままの右手を横なぎに振るう。その瞬間、真白の蝶たちがゲオルグへと狙いを定めるように、ジリジリと前へと進んでいった。
ゲオルグは大仰にため息をつくと、今にも射殺さんばかりの眼差しを向けた。
「エルティナ様の力を奪ったまがい物が、精霊になったつもりか!」
「私はエルティナの友達だよ! ――行って」
ゲオルグの怒鳴り声に対し、私も声を張り上げる。エルティナと私を覆い隠すように待機する一団を除き、真白の蝶たちが一斉に翼をはためかせていった。




