041 走駆
リーシェ視点です
エルティナまでの距離は遠くもないが近くもない。決して早くない私の足でも、走れば一分も要らないだろう。降り積もった鱗粉に足をとられながら、必死に両腕を振って距離を詰めていく。
「――エルティナ!」
ゆっくりと私へと体を動かすエルティナへと声を張り上げる。白銀の蝶と化したエルティナが何を考えているのか、その様子からはわからない。それでも、エルティナを守護する真白の蝶たちは何の動きも見せなかった。
瞳に浮かぶ涙を拭い、ペンダントの宝石を握る。エルティナからの魔力を受けて宝石が発熱し始めた瞬間、白銀の蝶は翼を羽ばたかせた。
風で舞い上がった鱗粉が周囲一帯を白銀に染め上げていく。もう近づくなと警告するように風が私を押し戻していた。
ただ前へ前へ、前に進め――エルティナへと向かう足は止まらない。
風を受けて何度も後退るが、その数だけ前へと進んでいく。私とエルティナとの距離が半分に縮まるころには、追い返すような風は吹き止んでいた。
白銀の蝶が優しく羽ばたいて見えるのは私の錯覚だろうか。私を待ち構えるように、少しずつ地上へと下りて来ていた。
「――リーシェ、避けろ!」
唐突にカーティスの叫び声が響く。次の瞬間、耳を劈く衝撃音とともに爆風が横合いから吹き荒れる。何の対応もできずに、押されるままに体が傾いていった。
近づいていく地面に目を見開かせる。救いを求めるように宝石を握りしめ、激突に身を硬くした。
一秒……二秒……三秒……。
痛みは一向に訪れない。呆然と目をしばたかせていると、真白の蝶が視界をよぎった。思わず体を起こし、地面に横たわっていたことに気づく。
顔を上げると、真白の蝶は一匹二匹とその数を増やしていた。数秒も経たない内に、私の周囲は真白の蝶で覆いつくされていた。
「……何が起こっているの?」
呆然とつぶやく私の声に真白の蝶は答えたりはしない。だけど、私を守ってくれたことはすぐにわかった。
二発目三発目と私を狙った魔法を蝶たちが防いでいたのだ。
爆風で靡く髪を押さえながら、私は正面へと顔を向ける。真白の蝶で形作られたドームの合間から、カーティスが血染めの男と戦う姿が見えた。
カーティスに力を貸しているのか、真白の蝶は血染めの男を攻撃していた。
「カーティスを助けてくれて、ありがとう」
ゆっくりと立ち上がり、軽く衣服をはたく。そして、気持ちを落ち着けるように深く息を吐き出す。白銀の蝶を見上げ、私は再び走り始める。
「……エルティナまで、エスコートしてくれるの?」
私の行き先を示すように真白の蝶がアーチを築いていった。真白の蝶に微笑みかけた後、私は一直線に駆け出す。
血染めの男が攻撃しているのか、何度も爆風が襲いかかってくるが立ち止まったりはしない。私の目にはもうエルティナしか見えていなかった。
「エルティナ、お待たせ」
肩で息をしながら、私は声を弾ませる。私の言葉が理解できるのか、白銀の蝶は応えるように一度翼を大きく羽ばたかせた。
舞い上がる鱗粉に思わず目をつむるが、私の頬は緩んでいた。
鱗粉の嵐が収まるのを待ち、私は静かにまぶたを持ち上げる。真白の蝶が、私と白銀の蝶の出会いを喜ぶように踊り飛んでいた。
ペンダントの宝石を握りしめながら、私はゆっくりと白銀の蝶へと近づいていく。一歩二歩と距離が縮まるごとに、宝石から放たれる熱は強くなっていた。宝石を握りしめる私の手にも力が入る。
白銀の蝶にエルティナの面影はどこにもない。戦う術のない私なんて気まぐれで殺せてしまうだろう。それなのに、全く怖いと感じないのが不思議だった。
白銀の蝶の真下まで歩き、私は両膝を地面につける。神へと祈りを捧げるように、宝石を両手で包み込んで目を閉じる。
脳裏によぎるのはエルティナと過ごした一週間。笑ったり泣いたり怒ったり。意地っ張りで気にしがちなエルティナは色々な表情を見せてくれた。
私よりもずっと強いのに、私よりもずっと弱い。
私を庇って戦う姿は頼りがいのあるお姉さん。でも、エルティナ自身のことには不器用ですぐに迷子になるから、素直になれない妹の印象の方が強い。
偉ぶった口調でエルティナは話すけれど、私を見下したりはしない。どちらかと言えば、エルティナ自身を強く見せようとしているとしか思えなかった。
必死に虚勢を張っていると考えたら、もうエルティナをお姉さんとは見れなかった。むしろ、私がエルティナのお姉さんにならないといけないと思ったんだ。
エルティナには何度も助けられた。
今度は、私が――お姉さんが頑張る番だ。
私はそっと手のひらを開き、宝石に一瞬だけ口づけた。唇から感じる熱が心の中の覚悟に火をくべる。
小さく息をひとつ吐き出した後、宝石を強く両の手のひらで閉じ込める。その瞬間、エルティナの魔力が私の体を貫くように流れ込んできた。
体に魔力が満ちていく不思議な感覚。初めてエルティナの魔力が流れ込んできた時と何も変わらない。
満足感? それとも充足感? 上手く言葉では表現できないけれど、幸せな気持ちで包まれていく。
本来の私であれば考えられないほどの魔力を扱うことができる。その事実だけで、物語のヒーローになったような高揚感を覚えずにはいられない。
それが、エルティナを傷つけることになると初めての時は知らなかった。心地よさのままに失敗したのは、私の苦い思い出となるに違いない。あの時は失敗してごめんね、そうエルティナと笑い合えたら嬉しい。そんな未来が欲しいんだ。
――私がエルティナと一緒にいたいだけなんだ。
まだ足りない。もっと欲しい。
貪欲な私の体はエルティナの魔力を吸い込んでいく。苦しげに体を折り曲げたエルティナの姿を忘れたわけではないが、浅ましい本能は止められない。
エルティナを救う上で最善だとわかっていても、自分のことが嫌いになりそうだった。
どれだけの時間を過ごしたのかはもうわからなった。
気持ちいいから、気持ち悪い。
もっと欲しいから、もういらない。
苦悶の表情を浮かべながら、全身から冷や汗を流す。思考する余裕は完全に失われていた。
立っているのか、それとも座っているのかも判然としなかった。乗り物酔いでも起こしたのか、前後左右の感覚もおぼつかない。
両手のひらを焼け爛らす宝石の熱だけがはっきりと知覚できた。
エルティナ、エルティナ、エルティナ――。
必死に名前を呼び続ける。口から声が漏れているのかも、心の中にだけ響いているのかもわからない。何も見えない何も聞こえない世界の中、私は一人ぼっちだった。
だから、蹴り飛ばされた事実にもすぐには気づけなかった。
乱暴に髪を引っ張られ、無理やりに立ち上がらされたと認識したとき、私の世界にようやく色が戻ってくる。私の顔の真ん前で血染めの男――ゲオルグが不気味に笑っていた。
「また会いましたね、小さなお嬢さん」
丁寧な口調に反し、その瞳は獰猛に私を射抜く。恐怖と痛みから逃げ出そうと抵抗する私に向かい、不快げに舌打ちをした。
「殺されたいのか、小娘」
髪から手を離し、ゲオルグは私の首に手をかける。本能的に体を後ろへと引いた私を嘲笑うように、じわりじわりと首を絞めていく。
息苦しさに涙があふれ、口からはうめき声が漏れ出る。ゲオルグの手を何度も殴りつけるが、一向に緩む様子もない。
数秒後、両手がだらりと落ち、意識が薄れていった。
唐突にゲオルグが私を突き飛ばす。私は背中から地面に崩れ落ちていった。
体をくの字に折り曲げたまま、必死に息を吸い込む。涙で滲んだ視界の中、横たわって眠るエルティナを見つけた。
十数匹の真白の蝶がエルティナの周りを飛んでいた。
「……カーティスは、どこ?」
かすれ声でつぶやき、私は涙を拭って体を起こす。顔を伏せたまま、周囲へと視線を巡らせていく。ゲオルグの遥か後方を見やり、私の表情は凍りついた。
白銀の蝶によって染め上げられた白の世界に不似合いな、真っ赤に染まったカーティスが倒れていた。
「あの男の敗北は、お前のおかけだよ」
愉しげな声が降り注いできた。
「ああ、強かった。実に強い男だった。それでも、俺よりは弱かった」
どこか芝居がかった口調で笑い混じりに語る。
「エルティナ様の蝶がいたから、戦えただけの男だった。エルティナ様の力がなければ、何もできない男だった。ああ、何と哀れな男か。エルティナ様の支援を打ち切らせた裏切り者のために、敗北を知ることになるとは……」
片膝を地面につけたゲオルグが私の前髪を乱暴に掴む。強制的に私は顔を上げさせられた。
「本当にありがとう。お前のおかげで助かったよ」
涙を堪えて私はゲオルグを睨みつける。何が可笑しいのか、ゲオルグは笑い声を響かせる。前髪で吊り下げられた私は横に投げ捨てられていた。
「低俗な魔物どもと違い、エルティナ様に薬は効かない。ならば、自分の意思で従うように躾を施すしかない」
私の背中に衝撃が走り、地面に縫いつけるように私の体は押し潰される。グリグリとゲオルグの足がねじ込まれていく。瞳から涙が止めどなく流れていた。
「俺も薄情ではない。生贄の男を潰す手助けをしたお前に、褒美をやろうと思っているんだ」
足に代わり膝を私の背中に突き立てる。私はもうまともに呼吸すらできなくなっていた。
「――俺が手ずから殺してやるよ。光栄だろ?」
首元に感じる熱が一瞬で全身に広がっていく。ジタバタと必死に手足を動かすが、熱は痛みを伴って強くなる。口からは漏れ出した血が、涙で濡れた頬を汚していった。
「あの男のナイフで殺されるんだ。良かったな、小娘」
愉しげに笑い、ゲオルグは立ち上がる。重しがとれても、血だまりに沈んだ体は動かなかった。
「お前とあの男の死体を晒せば、エルティナ様も人間に復讐する気になるだろう。エルティナ様には人間を憎んでもらわなくてはな」
私の体を踏みつけ、ゲオルグはエルティナの元へと歩いて行く。その様子を私は憎々しげに見つめる。噛み切った下唇から血が流れていった。




