004 召喚②
……まだ終わらないのね。
わずかにまぶたを開き、視界一杯に広がる暗闇を確認していく。私は諦め混じりのため息を漏らし、何事もなかったかのように再びまぶたを下ろした。
お前などいなくても変わらない。お前を待っているものなど誰もいない。
体が闇へと溶け込んでいくにつれ、幻聴は大きくなっていく。手足の感覚はもう残っていない。断続的に走る両腕の痛みと、首輪による息苦しさだけが、私に生を実感させていた。
目を閉じ、私は次の眠りを待ち続ける。記憶の中を探り、フィーネと過ごした日々を思い返していく。何度も繰り返して焼き切れてしまったのか、虫食いの記憶はどこか朧で短い。眠りにつくまでの間隔が伸びた気がした。
体の代わりに頭を動かすことしか私にできることは何もないが、考えることすら面倒に感じる。思考力も失うのかもしれない。
「……それも、どうでもいいことね」
私は諦めたようにつぶやく。私自身のことであるはずだが、何の興味も持てなくなっていた。空虚な言葉が響いていった。
暗闇に囚われてからの私の行動は変わらない。過去に縋りつくように、記憶の再生を開始していた。
「――っ」
無為な時間を過ごしていた私は、唐突に目を開いた。慌ててキョロキョロと目を動かすが、暗闇は何も変わっていない。
眠気に代わり、活力が沸いてくる――私の感覚だけがいつもと異なっていた。
これは、どういうこと? 突然の出来事にいくつもの疑問が沸き上がっていく。パニック状態に陥った私に、明瞭な答えが思いつくはずもない。唯一満足に動かせる首を力一杯に後ろに引き、逃げるように体を壁へ押しつける。急激な体調の変化が治まることを、私はきつく目を閉じて必死に祈った。
十数秒後、恐るおそるまぶたを開けた私は、呆然と正面を見つめていた。宙に何らかの文字が浮かんでいる。思わず身じろぎをすると、同様の文字が左右にも存在することに気づく。
ふいに背後が発光しはじめ、私は押し出されるように前へ倒れ込んでいた。
「何が起こっているの!」
首だけで振り返った私は悲鳴をあげる。
背後の壁にも文字が浮かび上がっていた。前後左右に浮かぶ文字の発光が、小部屋に閉じ込められていたことを明らかにしていた。
変化の連続に混乱するさなか、床に倒れている事実を思い出し、私は大きく目を開く。首を絞めつけられる感覚が全くなかった。
慌てて首を左右に振るが、自由に動かせる。息苦しさもなくなっていた。
首輪が外れているのかしら?
その存在を確認するように右腕を動かすが、どうしてか首輪に触れることができない。仕方なしに左腕を動かすが、結果は変わらなかった。
不思議に思いながら、私は顔を右へ向ける。そして、弾かれたように左へと向ける。
私の表情は凍りつく。何度も何度も感じていた両腕の痛み。その原因に気づいていしまった。
――肘から先がない。右も、左も……。
不安に駆られ、慌てて両足を動かす。私は安堵から深く息を吐き出した。
……どうやら、足は残っているようだ。
両肘と両足を使い、不器用に体を起こしていく。たっぷりと十数秒をかけて私が座り込む頃には、小部屋から暗闇は一掃されていた。
突然の光に私の目が眩む。しかし、光に慣れるにつれ、両手を失った現実を直視せざるを得なかった。両腕から感じる痛みが強まっていた。
「ようやく終わったのね……」私は小さくつぶやいた。
ホッとため息をつき、私は顔を俯ける。どうやら失ったのは両肘から先だけらしい。薄汚れたワンピースから覗く両足に違和感はない。音も聞こえるし、目も見えている。鼻も問題ないだろう。
困惑が治まり始め、ようやく私の頭は動き出す。冷静さを取り戻しさえすれば、突発的な出来事の理由は明らかだった。答えは壁に書かれていた。
精霊召喚――見慣れた文字の中に知らない文字が含まれているが、私の解釈は大外れではないだろう。誰かが私を呼び出そうとしていた。
逆さ文字に込められた魔力を鑑みるに、術者は相当の手練れで間違いない。繊細で力強い文字は、思わず見惚れてしまうほどに美しい。……少なくとも、今の私が対抗できる相手とは思えなかった。
何かの生贄にされるのか、それとも隷属を誓わされるのか。どちらにしても不幸でしかない。
審判を待つ罪人のように、私は力なく目を閉じる。訪れる暗い未来を閉め出し、フィーネとの輝かしい過去へと逃げ込んでいく。
浮遊感を覚えたのは一瞬だった。気づけば私は床にへたり込んでいた。
誰かに見られていることはわかっていたが、顔を上げようとは思えなかった。
私を召喚した者たちは、黙り込んだまま何もしてこない。私の薄汚い姿でも観察しているのだろうか? それとも、私の魔力の少なさに失望でもしたのだろうか?
私は顔を俯けたまま、自嘲じみた笑いを零していた。
数十秒後、召喚した者たちが何かを話し始める。声を盗み聞きするかぎりでは、壮年の男性と年若い女性の二人組のようだ。
召喚した者たちが二言三言を交わした後、静寂が場を支配していく。どうやら私の処遇が決まったらしい。小さな足音を響かせながら、誰かが私に向かって歩き出していた。下ろしたまぶたに力を込め、審判を待ち受ける。
恐らく実験材料として使い捨てられるのだろう――力を失った精霊の末路は決まっていた。
召喚者の一人が、私の前で両膝を床につける。また首輪でもつけるのだろうか、私はさらに顔を俯けた。抵抗する気はなかった。
「リーシェと申します。……精霊様と仲良くなれたら、嬉しいです。未熟者ですけど、よろしくお願いいたします」
若干声を震わせながら少女、リーシェが話す。
予想外の言葉に驚き、私は思わずまぶたを開いた。そこには、床に頭がつきそうなほどに深く頭を下げるリーシェの姿があった。
「……どういうつもり?」
十秒ほどして、私は短く訊ねる。頭を下げ続けるリーシェに、かけるべき言葉を見つけられなかった。
弾かれたようにリーシェは勢いよく顔を上げる。私を見つめるリーシェの瞳に、侮蔑する色は浮かんでいない。輝くばかりの金色の髪に、透き通った青色の瞳。どこかフィーネを思い起こさせる容姿に、私の視線は釘づけになっていた。
「私は、精霊様と仲良くなりたくて……。ご、ご挨拶をしました。仲良くなりたいだけなんです……」
リーシェはしどろもどろに答える。私よりも少しばかり大きな体を縮こまらせていた。混乱から表情をくしゃりと歪めるリーシェを見上げ、私は小さく息を吐き出した。
「私と仲良くなりたいの?」
「……はい! 仲良くなりたいです!」
私の言葉の意味を理解した瞬間、リーシェは弾んだ声をあげる。仲良くなれると疑っていないらしく、その瞳が輝いて見えた。
両腕にズキリと痛みが走り、淀んだ炎がチロチロと胸を焦がしていく。
「こんな体の私でも、仲良くしてくれるの?」
自嘲するように笑い、私は両腕を上げる。長い袖がタラリと垂れていき、辛うじて肘先で留まった。リーシェの顔が引きつるのを見て、私は小さな失望を覚えた。所詮は言葉だけに過ぎないのだろう。
銀髪のフィーネと、金髪のリーシェ。フィーネと容姿が似ていたからか、ほんの少しだけ友人になれるのではと期待していた。……勝手にフィーネの面影を重ねて期待していたのだ。
「……リーシェをいじめるのは、止めてくれないか?」
黙り込んだリーシェを見かねたのか、男性が声をかけてきた。胡乱な眼差しを送る私に向かって小さく手を振ると、固まったままのリーシェに近づいていく。
片膝を床につけると、リーシェの頭をポンポンと軽く叩き「彼女の着替えを用意してくれる?」と小さく訊ねていた。
うなずくリーシェは、逃げ出すように工房を出て行く。私と男性の二人きりになった。
「貴方は――」
「グレンだ。君の契約者となるかもしれない、リーシェの父親だよ」
グレンは優しげな口調で話す。片膝をつけたまま擦り寄るように近づき、私を正面から見下ろした。
「腕を見せてもらってもいいかな?」
安心させるように笑うグレンを、私はまじまじと観察する。
数秒後、小さくため息をついた後、私は右腕をグレンに差し出す。袖を捲られ、短くなった両腕が晒される。赤黒く染まった肘先に私は顔をしかめた。腐り落ちているかもしれない。
「……切断面は綺麗なものだし、魔力放出も抑えられている。少しだけ君の体内に魔力を流すけど、かまわないね?」
私の右肘に触れたまま、グレンは訊ねる。真剣な表情で見つめるグレンに、私はうなずくしかなかった。グレンは右手の人差し指に魔力を集中させると、私の二の腕に魔法式を書き込んでいく。
数秒後、書き終えたグレンは「始めるよ」と小さくつぶやいた。
体内にグレンの魔力が流れ込んでいく感覚に、私は眉をひそめる。
魔力が枯渇している私には、グレンに対抗する術はない。診断だとわかっていても、無防備な体内を蹂躙されるのは不愉快だった。
十数秒後、グレンはゆっくりと私に腕から手を離した。
「……だいたい、わかったかな」
グレンは安堵を含んだ声でつぶやく。私は先を促すように、その瞳を覗き込む。
「ただ、診断の結果を伝える前に教えて欲しいのだけど……」
グレンは気遣うように私を見やると、口ごもってしまう。チラリと肘先を見つめている。言い淀んだ理由を察し、私は口を開いた。
「両手を失った理由ならば、私にもわからないわ。……気づいたのも、貴方たちに召喚される直前のことよ」
どれだけの時間を閉じ込められていたかもわからないが、一日二日ではないはずだ。両手を失っていることに全く気づかないのは、愚かとしか言いようがない。
「診断結果はどうだったかしら? 両腕までは失いたくないわ」
……両手を失ったことは確かなのだから、早く結果を教えてくれればいいのに。
私は自嘲的な笑みを浮かべる。グレンは目を見開いた後、優しげな笑みを返してきた。
「両腕を失うことはないよ。それどころか、失った両手を取り戻すことだってできるさ」
「――何を言っているの? 私の両手は、切り落とされたのよ!」
両腕を掲げ、私は声を荒げる。グレンを見つめる視線にも険がこもっっていく。
両手を喪失したのでないならば、接合することもできたのかもしれない。だが、私は切られた両手を持ってはいない。グレンの言葉は気休めにもならない。侮辱と変わらなかった。
私の怒りに気づいていないのか、グレンの笑みは崩れていない。
「君が生きていた時代と、今の時代は違うんだよ。君の失った両手を取り戻す方法は存在している」
「……くだらない嘘を言うな」私は怒りを押し殺してつぶやく。
「本当のことさ。昔と違い、精霊に対しての研究は進んでいるんだ。……リーシェも僕も、君を実験の道具にするつもりはないよ」
グレンの言葉に、私は唇を強く引き結ぶ。グレンは小さく笑うと、リーシェにしたのと同じ様に私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「続きは、少し落ち着いてからにしようか。リーシェにも準備をお願いしているから、家に戻りたいのだけど、立てるかな?」
私は小さく首を左右に振る。グレンは「少しだけ我慢してね」と柔らかく言い、私を横抱きにして立ちあがった。
落ちてしまわないよう慎重に抱きしめるグレンの姿に、私は不満の声を飲み込む。頭をグレンの胸に押しつけた。