039 脱出
ここからしばらくリーシェ視点です
「リーシェ、まだ頑張れるな」
私の右手を引いて前を行くカーティスが振り返る。血で汚れた口元を右手で軽く拭う。右手に握り締めたままの折れた剣が月夜に照らされ、濁った輝きを放った。
軽く息をつきながら、私は大きくうなずいた。
「大丈夫だよ、まだまだ頑張れるから」
「……守ってやるから、無理はするなよ」
カーティスは繋いだ手を握り直し、私の手を安心させるように包み込んでいく。優しげなカーティスの笑みに何となく顔を背けてしまうのは、私が子供だからだろうか。助けに来てくれたことが嬉しい反面、対等に見てもらえないことが悔しくて仕方がない。不満を表すように、繋いだ手を強く握り返した。
そっぽを向く視界の先に、空いたままの左手が見える。何となく開いては閉じるを繰り返すが、寂しさばかりが募っていく。右手が優しさに包まれているからか、左手が一人ぼっちなのが悲しい。
――エルティナに握って欲しいな。
ふいに、強がりな癖に泣き虫な精霊の姿が思い浮かび、手のひらが宙を掴んでいた。カーティスに連れられて歩き続けるが、前を向く気にはならない。何も掴めないまま伸ばされた左手を呆然と見つめていた。
眠らされる直前にエルティナがささやいた『ごめんね』の言葉を思い出すと、瞳から涙が零れそうになる。もう会わないと突き放すような冷たい声が、私の心を凍てつかせていた。
エルティナが迎えに来てくれていることは、カーティスから聞いている。
私のことが嫌いだから、一緒に闘いたいと言った私のことを否定したのではないこともわかっている。
それなのに、信じきれないのは……私が弱いから……エルティナに拒絶されることが怖いから。
エルティナにどんな言葉をかければいいのか、私にはわからなかった。
傷だらけのカーティスを見れば、エルティナが無傷でいられないことにも予想がつく。
ありがとう? ごめんなさい? ……嫌いにならないで?
疑問符が頭の中を駆け巡るばかりで、正解が見えてこない。何を言っても、エルティナが笑顔を見せてくれるとは思えなかった。
周囲を警戒しながら、カーティスは慎重に進んでいく。伏兵が潜んでいないか、足場が崩れたりしないか。確かめながらの歩みは遅々としていた。
三階から二階へと迷路のような城内を進んでいく。休みなく歩き続けたためか、私は肩で息をしていた。
「――リーシェ!」
唐突に響いた轟音に負けない声でカーティスが叫ぶ。次の瞬間、私の腕を力任せに引き、無理やりに私の体を抱きかかえていた。私の悲鳴などお構いなしにカーティスは駆け出していった。
カーティスが踏み出すと同時に、廃城全体が揺れ始める。折れた剣を投げ捨て私の頭を胸元に押しつけるように固定した。
「しがみついていろ」
一方的に言い切り、風を纏ったカーティスが疾駆する。私は慌ててカーティスの背中に両腕をまわした。
大地を揺らす轟音が響いていく。今すぐ脱出しなければ死ぬのではないか、そう本能が告げていた。
死の恐怖で全身が粟立ち、現実逃避をするようにまぶたを強く閉め切った。
数秒後、遠くから聞こえた轟音に代わり、壁と壁が強引に引き剥がされていく。恐怖を煽り立てるような断末魔の叫びが聞こえ始めた。
私を抱きかかえるカーティスの両腕にも力がこもっていた。
「もう少しだけもってくれよ」
ふいにカーティスから不安に満ちた声が漏れる。私には祈ることしかできない。心臓を氷漬けにされたのか、呼吸すら乱れていた。
壁から聞こえる甲高い音が大きくなっていく。轟音へと変わるのに時間はいらなかった。
「――飛ぶぞ」
カーティスが宣言すると同時に、体がふわりと宙に浮く。音の波に押し飛ばされるように落下していった。
エルティナと一緒に空を飛んだ時と同じ――突然の感覚に思わずまぶたを開いた。壁に空いた大穴が遠ざかっていく。あそこから飛び降りたんだ、とぼんやりと眺めていた。
思考停止は一瞬だったのだろう。カーティスの体越しに強い衝撃を受け、私は悲鳴を漏らしていた。
着地で体勢を崩したのか、カーティスに抱きしめられたまま私は地面を転がっていく。回転の勢いのまま立ち上がり様に走り出すカーティスへ必死にしがみついていた。
「どうやら助かったみたいだな」
カーティスは近くの木に背中を預けてゆっくりと腰を下ろしていった。胡坐をかいたカーティスは、抱えたままの私を横抱きにして微笑む。大きな手が私の髪を優しくかきあげた。
「……ありがとう」
私は顔を背けながら小さくつぶやく。カーティスは何も言わずに、私の頭を撫でまわした。
逸らした視界の先に映すのは、無残な姿を晒すヤナカイト城。もしカーティスの判断が遅れていたならば今ごろは……。
嫌な想像をかき消すようにブンブンと頭を左右に振る。しかし、冷静さを取り戻すにつれ、私の顔は青褪めていった。
「エルティナ……エルティナを探さないと!」
「――リーシェ」
慌てて立ち上がろうとした私の手をカーティスが引っ張る。中腰からカーティスの膝上へと落ちていった。
「離してよ! 早く探さないと!」
カーティスの胸元を強く叩き、私は睨みつける。背中にまわされたカーティスの両腕が私を抱き留めた。
抵抗する私の額に、カーティスは自分の額を押し当てた。
「頼むから落ち着いてくれ、リーシェ。お前が死んだら、俺はアニスさんに顔向けできない」
「……お母さんのことは、カーティスは何も悪くないんだよ」
私は慰めにもならない言葉をつぶやく。精霊と契約していた――たったそれだけの理由でお母さんが殺されたのは四年前のことだ。私は八歳で、カーティスは十二歳だった。
お父さんの後ろをいつも付いてまわっていた私を誘拐することは、難しかったのだろう。私の代わりに家族ぐるみで付き合っていたカーティスが狙われた。カーティスを人質に、お母さんは呼び出されて――殺された。
当時、カーティスを憎まなかったとは言わない。私が酷い言葉で罵ったのは、紛れもない事実だ。カーティスに罪の意識を植えつけたのは、きっと私だ。
兄同然のカーティスに甘えていた。
被害者のカーティスに八つ当たりをした。
私が悪い。カーティスは何も悪くない。十二歳のカーティスが戦えるわけがないのだ。今、同じ年齢の私が何の役にも立てない事実からも、それは明らかだった。
でも、理屈ではないのだろう。心の底から幼い私が叫んだから、カーティスは自分を許せないでいる。道理をわきまえた――成長した私がどんな言葉を口にしても、カーティスの心には届かなかった。
「俺がエルティナを探しに行く。だから、リーシェはここにいてくれ」
懇願するような声でささやき、カーティスは両腕に力を込めていく。
「できないよ。私も行く」
私は両手でカーティスを押す。二度三度と繰り返すと、カーティスの両腕による拘束が解けた。
「エルティナのことも心配だけど、カーティスのことも心配なんだ」
「俺の心配なんて――」
「――心配するよ! ……無理、しないで」
カーティスの言葉に被せて私は叫ぶ。目をしばたかせるカーティスの姿に、何だか泣き出したくなる。
涙を抑え込むようにまぶたを下ろし、私はゆっくりと立ち上がる。カーティスに背を向け、ゴシゴシと強く擦り、涙の膜を拭う。ヤナカイト城へと視線を送った。
瓦礫の山と化したヤナカイト城は、もう城とは言えなかった。
三階の一部を除き全てが崩れているため、私が閉じ込められた部屋がどこかもよくわからない。積み上がった瓦礫で奥まで見通すことはできないが、崩れずに残った場所があるとは思えなかった。
エルティナの死を否定するために、私はヤナカイト城へと向かっていく。背後から聞こえるカーティスの制止の声に従うつもりは微塵もない。私は必死に走っていた。




