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037 変身

 手足など初めから存在しないかのように、横倒しのまま勢いよく床を転がっていく。体中を強く床で擦りながら、何度も回転を繰り返し、私はうつ伏せの状態で停まった。


 だらりと床に伸びた手足はピクリとも動かない。薄れていく意識の中で、死を逃れるべく必死に空気を求めた。

 パクパクと動く口元が私自身に生を実感させていた。


 このまま気を失うことができたのならば、どれだけ幸せなのだろうか。

 ゲオルグとの力量差に絶望する私の内心とは裏腹に、体は闇のイプスを取り込み続ける。体の損傷を考えれば、既に失神していなければおかしいのだ。


 闇魔法は本来あるべき姿から物事を遠ざける。常に闇魔法を発動している状態であればこそ、痛みで気を失う――正常な反応は許されない。

 私の意識は徐々に覚醒し、視界が明瞭になっていく。それに伴い、急速に思考が走り出した。


 右腕、右足、左足は使いものにはならない。左腕にも痺れが残っている。

 今のままの姿で戦っても私はゲオルグには勝てない――当初の想定通りと言ってもいいのだろう。


 リーシェとカーティスの二人を遠ざけて正解だった。

 私とゲオルグしかいない今の状況ならば、想いのままに力を振るっても何の問題もない。


 私の思考を肯定するように、壊れた部位の骨が砕けていく。本能が命の危機を知らせている。

 体のダメージが深刻であるためか、何の痛みも感じられなくなっていた。


 ひとつ息を吐き出した後、まぶたを下ろして私は床に口づける。その瞬間、私を中心として床も草花も腐り始め、醜悪な泥へと姿を変えていった。


 泥は意思を宿したように蠢き出し、私を閉じ込めるための檻を二重三重と積み重ねていく。目を開けると、大広間の半分近くが占拠されていた。


 床に縫いつけるように私の体の大部分は泥で覆いつくされ動くこともままならない。だが、ゲオルグからの妨害はなかった。


 口振りから考えると、闇の精霊の特性――死ぬ寸前まで追い詰められた際の変身能力の存在を知らないとは思えない。闇のイプスを大量に取り込めることが条件となるため夜にしか使えない能力ではあるが、今この瞬間は条件を満たしている。


 泥での迎撃が可能とは言え、私の変身をみすみす許す道理はないはずだ。それを見逃すゲオルグの意図がわからない。

 最初から私に変身能力を使わせることが目的だったのだろうか。


 私は小さく首を左右に振って顔を上げる。準備は整ったと言わんばかりに、飴細工のように泥の檻が溶け落ちていく。私が泥で埋め尽くされるのは一瞬だった。


 本来ならば死を望みたくなるほどの激痛に襲われているのだろうが、私の痛覚はすでに壊れ切っている。私がすべきことはたったのひとつ――体内を汚染されていく不快感に耐えることだけだった。


 拷問のような時間は数十秒間だろうか。右腕、右足、左足……。壊れていた部位に熱がこもっていく。私の体の一部であることを伝えるように、神経を無理やりに引き結ぶ痛みが走り出す。


 新しい体の感覚を掴むべく両腕で床を強く押し、泥を全身に纏ったまま私は立ちあがる。嫌悪していた泥が愛おしく思えるのは、私の神経と繋がったからだろうか。泥を通して大広間の状況がよくわかった。ゲオルグの期待に満ちた視線が不愉快で仕方がない。


 大広間を支配していた泥は、私の背中に集中していく。私の体に新たな器官が誕生するのに時間はかからなかった。


 小さく息を吐き出し、私は背中に意識を向ける。蝶を模した翼を扱うのは初めてではない。ゆっくりと翼を羽ばたかせると、私の体は浮上していった。


 見下ろすと泥に押し潰されて大広間の火は消え去っていた。

 私は作り変えられた両腕の動きを確かめるように握りこぶしを作り、小さな体に不似合いな巨腕で宙を軽く薙ぎ払う。大広間の壁が大きく揺れ動いた。


 「――それが、エルティナ様の本当の姿ですか?」


 ゲオルグの言葉と魔銃の引き金を引くのは同時だった。

 私を撃ち落とした場面を再現するように三発の魔弾が迫る。


 私は右腕を振り上げ、ゲオルグに向かって一気に振り下ろす。それだけのことで、魔弾は軌道を大きく外し、ゲオルグが立っていた場所には大穴が空いていた。


 視線を右に移した後、握りしめていた両こぶしを開いていくと、泥を固めた球体が二つ浮かび上がる。

 私の顔をよりも大きな泥の塊は獲物を求めるように脈動を繰り返していた。


 「行きなさい」


 私の小さなつぶやきを合図に、球体から泥の触手が伸びていく。天井、壁、床、と大広間の至るところに触手が張りつき、その場所を腐らせ始める。

 数秒も経たない内に、ゲオルグを閉じ込める牢獄が造られていた。


 泥がゲオルグの肌に触れたのか、片膝をつき苦悶の表情を浮かべている。光魔法で治療しているのだろうか、右ひじを押さえるゲオルグの左手は光を放っている。


 力関係が逆転したことに心の中で安堵し、私は挑発的な笑みを浮かべた。


 「投降なさい、ゲオルグ。それで終わりにしてあげるわ」

 「エルティナ様、貴方は実にお優しい方だ。私のようなものにも慈悲を与えてくださる。……それでは、ひとつ質問させていただけますか?」

 「構わないわ。言ってみなさい」私は軽く顎を上げて許可を出す。

 「今の貴方に風魔法は使えますか?」

 「……何が言いたいのかしら」

 「闇魔法しか使えないのですね、エルティナ様」


 ゲオルグは確信に満ちた表情で笑い、はっきりと断言する。全身に悪寒が走り、私の心臓は警鐘を鳴らすように激しく鼓動し始めた。


 ――やはり、闇の精霊について研究されている。


 私は即座に牢獄を溶かすが、ゲオルグの方が行動が早い。内側から外側に向けて牢獄が爆発し、泥が弾け飛んでいった。


 眩いほどの光で守られたゲオルグが姿を現した。爆発した先から再びゲオルグに向かって泥を飛翔させるが触れることすらできない。

 光に触れた瞬間、泥の触手は霧散していった。私は翼を羽ばたかせて浮上しながら両こぶしを強く握りしめる。


 軽く身だしなみを整えたゲオルグが悠々と歩き始めた。


 「エルティナ様、私は貴方を傷つけたくないのです」

 「本気で思っているならば、右手の魔銃を捨てたらどうなの? 左手に握りしめているものを捨てるのでも構わないわ」


 私へと近づいていたゲオルグの歩みが止まる。大仰に左手を突き出すと、手のひらを天井に向けてゆっくりと開いた。

 薄暗い室内の中で清廉な光を放っていたのは橙色に輝く宝石だった。私は思わず顔をしかめていた。


 「ゲオルグ、精霊と契約しているのね」


 咎めるように私は言うが、素知らぬ顔でゲオルグは左手を閉じる。


 「彼女を私は救うことができた。だから、貴方のことも救いたいのです」


 ゲオルグは魔銃を正面に向けて引き金を連続して引く。二発の魔弾が泥の触手を弾け飛ばした。

 切り開かれた道は、私へと続く一本道だった。


 「精霊は人よりも上位の存在なのですよ、エルティナ様。人に従うなどあってはならない、そう思いませんか?」

 「精霊が人を支配する……それが精霊への『救い』だと本気で思っているの?」


 私は目を剥いて声を荒げる。三百年前、いやそれ以前の時代――精霊が優位の時代にどうして戻ることができるだろうか。精霊と人間の戦いで勝ったのは、人間なのだ。

 支配するものと支配されるものとして体制が定まっている以上、簡単には覆られない。長年続いた上下関係はもはや常識化しているのだ。


 もし精霊の優位性を取り戻すとするならば、体制を破壊するしかない。それができるのは、戦争くらいだろう。

 だが、誰が精霊に協力するだろうか。

 精霊自体の数も少なく、アルスメリア王国のように精霊を支持する国もない。ゲオルグの言葉は、勝算の見出せない絵空事でしかなかった。


 「少し間違っていますね」


 ゲオルグは優しげな口調で話しながら、魔銃の銃口を上向かせていく。


 「精霊はもちろん、人間にとっても『救い』なのですよ」

 「――勝手な物言いね」


 私へと放たれた魔弾を視認した瞬間、右腕全体を泥で覆いつくす。魔弾を跳ね返すように右腕を突き出した。


 何層にも重ねた泥が魔弾に突き破られていく。しかし、私には届かない。

 その勢いのままに右腕を大きく振り上げ、ゲオルグに向かって振り下ろす。鋭利な剣と化した泥が空間を切り裂いていった。

 同時に四方八方から泥の触手で攻め立て、ゲオルグの逃げ場所を制限していった。


 光魔法は闇魔法に対して有効ではあるが、無限に抗えるものではない。

 魔銃でどれだけ吹き飛ばしたとしても、泥の触手はあり余るほどに存在するのだ。終わりの見えない物量攻めを危険と判断したのか、ゲオルグは唯一の逃げ道である上方へと風魔法で飛翔する。


 その姿に私は歪んだ笑みを浮かべていた。


 「さぁ、空中戦と行きましょうか」


 私の声に呼応するように床一面に広がる泥が形を変えていく。数秒も経たない内に、触手は針山へと様変わりしていた。


 「ゲオルグ、今度は貴方が墜ちる番よ」

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