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030 裏切り

 グレンが眠っていたベッドにリーシェが近づいていく。力なく二度三度とベッドを叩いた後、その場に座り込む。小さな体を震わせて「お父さんがいない……」と絞り出すような声でつぶやいた。


 カーティスも無人のベッドを眺めて立ち尽くしている。強く握りしめられたこぶしの中で、ゲオルグが投げたカードがくしゃりと歪んでいた。


 「ゲオルグにしてやられたわけね……」


 廊下から病室を覗き込んでいた私は壁に寄りかかる。やるせなさのままに天井を仰ぎ、ズルズルと背中を引きずるように座り込んだ。


 グレンを連れ去られ、倒したはずのゲオルグにも逃げられた。戦果は最悪と言ってもいいのだろう。今回は一対一の戦闘で私が勝利したが、次は勝てないかもしれない。

 恐らくゲオルグも本気を出していない。どれだけの力を持っているのかは未知数だ。闇魔法を無差別に使えば私にも勝機はあるのだろうが――リーシェたちを巻き込むわけにはいかない。

 静かにまぶたを下ろし、思うままに闇魔法を振るう私自身の姿をイメージしていく。……きっと私はまたリーシェを泣かせるわね。自嘲するような笑みが浮かんでいた。




 足音がひとつ私に近づいてくる。私は目を開けた。


 「カーティスはどうするつもりなの?」

 「決まっているだろう」


 強く言い切ったカーティスが私の真正面で片膝をつける。真剣な表情で私を見据えた。


 「グレンさんを助けに行く。エルティナはどうする?」


 カーティスがゲオルグからの招待状を私に突きつける。しわのできたカードを真っすぐに伸ばし直したのだろうか、カードは醜く歪んでいた。


 「決まっているわ」私は不敵な笑みでカードを受け取った。

 「パーティーは今夜みたいだ。エスコートは俺がするし、お前を死なせたりはしない。グレンさんも取り返す」


 大きくうなずいてカーティスが強く宣言する。ひとつうなずいた後、私は視線をカードに向けた。


 『本日午後二十二時、ヤナカイト城にて舞踏会を執り行う。参加されたし』


 カードに記載された言葉を見て、私は首をかしげる。イトマラに城と言える建物があっただろうか? 仮にあるとするならば、城をひとつ占拠しているのかしら?


 「気になることでもあったか?」カーティスが上からカードを覗き込む。

 「イトマラに城はなかったと思うのだけれど、ヤナカイト城とは何かしら?」

 「ああなるほど、ヤナカイト城がわからないのか」


 疑問に納得したのか、カーティスが離れていく。私もカードから顔を上げた。


 「馬車で二時間くらい先にある廃城だな。百五十年前の地震で崩れ落ちたらしく、今は捨て置かれている」

 「……廃城に住み着いているのかしらね」

 「可能性は否定できない。俺とエルティナだけで行くのは危険だが……」


 カーティスは言葉を途切れさせ、口を閉ざす。続く言葉に予想はついていた。


 「衛兵は呼ばない方がいいわ。グレンを殺すのに、あの男は躊躇しない」

 「エルティナも、そう思うか……」俯いたカーティスがため息をつく。

 「恐らく……ゲオルグの仲間は少ないわ」


 私の声に弾かれたようにカーティスは顔を上げた。


 「なぜそう思う?」

 「ゲオルグは自分以外を信じていない男よ。下で騒いでいた者も捨て駒くらいにしか見ていなかったわ」


 捕らえた者たちをどれだけ締め上げたとしても、ゲオルグ自身に繋がる情報は聞けないだろう。カーティスも察したのか、憎々しげに顔をしかめた。


 「どれだけの怪我人が出たと思っているんだ」

 「……下はそんなに酷いの?」


 窺うように私は訊ねる。カーティスは両頬を強く叩き、一度だけ気を紛らわせるように深く息をついた。


 「医療所にいた衛兵はエルティナを監視するために来ていたんだ。人数は当然限られているから、練度で圧倒していても、二倍以上の数に襲撃されれば厳しいさ。職員や患者たちの退避を優先する必要があったから、集団で対処することも難しかったんだよ」


 カーティスの言葉を聞き、私は眉根を寄せていく。戦闘における兵数差がどれほどの脅威か、三百年前の絶望的な光景が思い起こされた。


 「幸運なことに一階の入り口からしか攻めて来なかったから少数でも耐えられた……だが、あの男の様子を考えれば、それも予定通りだったんだろうな」

 「グレンを人質にすれば、私は従うしかないわ」

 「狙いがエルティナなら、間違いない。患者の親族のふりでもしていれば、医療所の中に入ることは簡単だしな。襲撃後は警戒の目もないから自由に動ける」

 「……でも、グレンを運び出せるかしら? 混乱していても、さすがにグレンを担いでいれば目立つわ。逃げ切れるとは思えない」


 私は疑問を口にする。運び出したのはゲオルグの仲間だと予想はつく。ゲオルグ一人ではグレンの誘拐は不可能だろう。

 それならば、どうやってグレンを連れ去ったのか? 私とカーティスは黙り込んで思考を巡らせる。重苦しい沈黙が漂い出した。




 「エルティナ、カーティス」


 名前を呼ばれ、私は思考の海から急浮上する。声の先に顔を向けると、瞳の奥を激しく燃やすリーシェが見下ろしていた。その目元は何度も擦られて真っ赤に染まっていた。


 「私も一緒に行く。お父さんを助けるんだ」


 断言するリーシェの言葉がゆっくりと私の頭に沁み込んでいく。

 今、リーシェは何を言ったの? 理解を拒むように、私はかぶりを振る。真剣な眼差しでリーシェが私を見つめていた。


 「本気で言っているのか」カーティスは冷たく咎めた。

 「……本気に決まっている、私は本気で言ってるよ!」


 カーティスの平坦な言葉を聞いて、リーシェはびくりと体を震わせる。すぐに挑むような視線でカーティスに顔を向けた。

 あまりにも大仰なため息をカーティスは吐いた後、ゆっくりと立ち上がる。リーシェを見下ろす瞳からは感情が抜け落ちていた。


 「俺とエルティナを殺す気か、お前は」


 カーティスの小さなつぶやきが、私の鼓膜を激しく打ち鳴らす。恐怖から浮かび上がる涙を必死に耐えるリーシェに、かけるべき言葉を私は見つけられなかった。


 「お前が来れば簡単に捕まるだろうな。もしそうなれば、勝てない相手でもエルティナは助けに行くだろうよ。そして、エルティナは死ぬ。その後、孤立する俺も死ぬだろうな」


 淡々とつまらなそうにカーティスは事実を口にしていく。


 「グレンさんも殺される。当然、お前も殺される。……そんな結末をお前は見たいのか、リーシェ」

 「違う、違う、違う――」


 駄々をこねる幼子のようにリーシェは大きく首を横に振る。ひたすらに否定を繰り返していく。リーシェの瞳から零れた涙が飛び散り、私の頬を濡らす。そっと私は拭い取った。


 痛々しいほどに強く握りしめられたリーシェの手を両手で包み込む。潤んだ瞳を向けるリーシェに微笑み、その場で立ち上がった。


 「エルティナ……」


 暗闇の中に一筋の光明を見つけたがごとく今にも縋りつきそうな声でリーシェは呼ぶ。ふつふつと沸き上がっていく罪悪感を隠すように、私は笑顔を深めていく。リーシェの体を両腕の中に閉じ込めた。


 後ろからリーシェの頭を撫でる。一回……二回……三回……。ひとつ息を吐いた後、私に体を委ねたままのリーシェの後頭部に手を置いた。


 「――ごめんね」

 「え?」


 つぶやいた瞬間、私は闇魔法を流し込む。リーシェの顔を見ることを恐れ、目を伏せたまま強く抱きしめる。

 リーシェは私の裏切りをどう思うのか? 想像したくもなかった。


 意識を手放したリーシェの体が傾いていく。眠り姫を起こさないように優しく風で抱きとめる。

 風で浮かせたまま、グレンの病室に運び込んだリーシェをベッドの上に寝かしつける。私はリーシェの濡れた頬を静かに拭った。


 私とリーシェを結びつけたペンダントを首から外し、リーシェの首元へつける。赤い宝石が寂しげに輝いて見えた。


 「リーシェ、今までありがとう」


 小さくつぶやきリーシェの前髪をかきあげる。そして、額に一瞬だけ口づける。

 ……もう会えないかもしれない。嫌な予感が胸の中でわだかまって消えやしない。かすかに聞こえるリーシェの寝息に後ろ髪を引かれながら、私は踵を返して廊下に出た。


 「よかったのか?」カーティスが気遣わしげに訊ねる。

 「……リーシェを死なせるわけにはいかないわ。カーティスも同じ考えだから、嫌われるような真似をしたのでしょう?」


 カーティスは「その通りだ」と口ずさみ、私の頭を力任せに撫でた。


 「エルティナ、お前がリーシェの精霊でよかったよ」

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