018 一時の平穏
「二人とも今日のお昼はどうしようか?」
衛兵詰所の門が見え始めるころ、顔だけ振り返ったグレンが訊ねてくる。沈黙を破ったグレンの声に、横並びで歩いていた私とリーシェは、思わず互いに顔を見合わせた。
数秒後、小さく首をかしげたままのリーシェがつぶやいた。
「お昼?」
「んっ? ……あれっ、二人ともお腹は空いてない? 遅い時間になったけれど、食べなくても大丈夫?」
グレンが体ごと振り返って立ち止まり、左腕につけた腕時計を突き出す。立ち止まった私とリーシェが腕時計を覗き込むと、時刻は午後二時をまわっていた。衛兵詰所を訪れてから、三時間以上も経っていた。
時刻をはっきりと意識したためだろうか、私はかすかに空腹感を覚えた。隣に立つリーシェのお腹からも、可愛らしい音が聞こえてくる。羞恥で顔を赤く染めたリーシェは、恥ずかしそうに顔を俯けていった。
「僕もお腹ペコペコなんだよ。二人ともご飯を食べに行こうか」
優しげな眼差しを送りながら、グレンは冗談めかして声を弾ませる。わずかに首を縦に振ったリーシェを横目に見つつ、私もうなずいた。
和やかな雰囲気に自然と笑みが零れ落ちていた。
私とリーシェが精霊契約を結ぶ――リーシェの宣言を聞いたグレンとカーティスの反応はおおむね肯定的だった。二人ともリーシェが考えていることに予想がついていたのだろうか、二つ返事で了承された。カーティスだけは胡乱な眼差しを私へ送っていたが……。
グレンは「本当に後悔しないね?」と念押しするように訊ねてはいたが、どこか形式的だった。力強くうなずくリーシェを見つめて微笑むと、壊れ物を愛でるかのようにリーシェの頭を何度も撫でていく。愛しいとも寂しいともとれる表情のグレンを、私は何をするでもなく見上げていた。
数秒後、グレンの愛おしげな眼差しが私へと向けられる。思わず目を大きく開いた私をよそに、グレンはリーシェの背中に隠れていた私に近づいて来た。
目の前で両膝を床につけたグレンはそっと私の頭に触れ、子供をあやすようにポンポンと軽く頭を叩く。二度三度と繰り返した後、グレンはゆっくりと口を開いた。
「リーシェのこと、頼んだよ」
グレンは目礼をする。その瞳は不安で揺れていたが、短く告げられた言葉は優しさに満ちあふれている。私は表情を引き締め強くうなずいていた。
満足げなグレンは一つうなずき返してからゆっくりと立ち上がる。そして、カーティスを連れ、私とリーシェから少しばかり離れて話し出した。
たっぷりと一分間話し込んだ後、グレンに促されるままに私とリーシェは会議室を後にした。
会議室を出てからは、何となくグレンにもリーシェにも声をかけられず、黙々と歩き続けていた。
「……エルティナもお腹空いてるくせに」
不貞腐れた表情でリーシェがつぶやく。私は顔を向け、揶揄うように笑った。
「小腹なら空いているわよ。ただ、リーシェの方が少しだけ食いしん坊なのね」
「……エルティナの馬鹿。食いしん坊じゃないのに」
唇を尖らしながらリーシェは不満を口にする。グレンが慰めるようにリーシェの頭を軽く叩き、門に向かって体を振り返らせた。歩き始めるグレンに続き、私とリーシェも移動していく。
本気で怒っているわけではないからか、十数歩進んだところで、リーシェはけろりと話しかけてきた。先ほどまでの沈黙が嘘のように、私とリーシェは他愛のない会話を繰り広げる。時折、口を挟むグレンも交え、ゆったりとした時間が流れていった。
衛兵詰所から出るとグレンに連れられるままに中心街を歩いて行く。行き先は、四日前にカーティスと初めて出会った教会堂だった。
前回と同じく昼食を食べるには遅い時間だ。中には二人しか客がいない。一人は年若い女性、そしてもう一人は見覚えのある商人と思しき男性だった。
ふと視線がリーシェの体で遮られる。私の姿を隠すようにリーシェが動いたのだろう。ただ、視線が隠される直前、あの男性は私に目を向けていた。私の存在に気づかれているかもしれない。
「大丈夫?」リーシェが心配そうな顔で私を見つめてくる。
「……大丈夫よ」
私は不安を隠して微笑んだ。前回、あの男性が魔法を使ったことに私は気づけなかった。もしかしたら私よりも魔法に長けているのかもしれない。昨日の不審者たちを撃退したように、簡単にあしらえるとは思えなかった。
小さく息を吐き出し、私はグレンの大きな背中を見つめる。リーシェも倣うように顔を前へと向けていき、ホッと胸を撫で下ろす。私の耳元にリーシェは口を寄せてささやいた。
「……今日はお父さんがいるから、きっと大丈夫だよ」
前回の男性の態度を見る限り、私とリーシェが何を言っても止められないだろう。でも、グレンは違う。
グレンが優秀な魔法士であることは、私を召喚した時点でわかっていた。繊細で力強い魔法式を刻んでいたグレンの能力が低いわけがない。カーティスのような手を出せない理由もないのだから、あの男性から守ってくれるはずだ。
教会堂の奥へと進んでいくグレンを追い、私とリーシェは歩みを速める。
奥のテーブルにたどり着くと、私を一番奥に座らせ、リーシェとグレンはその体で隠すように座る。私とあの男性との対角線上にグレンがどっしりと構えていた。
グレンも何か違和感を感じていたのだろうか。何も言わずとも察してくれたグレンに、私はこっそりと頭を下げた。
警戒心とは裏腹に、三人での昼食は穏やかに進んでいった。パンとスープに舌鼓を打ちながら、会話を弾ませる。食事を終えるころには、あの男性への警戒は意識の外へと追いやられていた。
私があの男性を思い出したのは、トイレを借りにリーシェが席を立った後だ。会計を済ませて帰宅する段となり、私とグレンは二人きりになっていた。
グレンが重々しい口調でつぶやいた。
「あの男には警戒した方がいいね。エルティナに心当たりはある?」
私は大きくうなずき、視線をグレンの後ろへと向ける。いつの間に教会堂を出て行ったのか、商人と思しき男性は姿を消していた。広い教会堂には私とグレンしか残っていなかった。
四日前の出来事をわたしかいつまんで説明していく。私の正体が精霊であることが知られている――その事実を聞いたグレンは顔をしかめて黙り込む。説明は終わるまで、目を閉じたまま相槌すら打たなかった。
「グレンはどう思う?」
一通りのことを話し終えた後、私が訊ねる。グレンは静かにまぶたを上げた。
「エルティナの不安は間違いないと思う。あの男は、君を狙っている」
「……実験の道具に、いえ、石に変えるのかしら?」
「石? ……精霊石のことかな?」
私は口を引き結んでうなずく。グレンは「昨日、その話を聞いたんだね……」とため息混じりにつぶやいた。
「精霊石は魔力を増強するから、元から欲しがる人は多かったんだ。それも、精霊が姿を消した今ならばなおさらだね。……だからこそ、商売として成り立つのだろうけど」
グレンは憎々しげに言う。その事実をグレンが快く思っていないことは明らかだった。
「エルティナは知っていると思うけど、昔は人と精霊は供に生きていた。その歴史があるから、精霊石の使用は禁じられているんだ。過去の盟友を道具扱いするのは違うのでは……そう考え方が変わってきている」
「偽善ね」私は短く吐き捨てる。
「……否定はできないし、するつもりもないよ。それでも、今の国王様に代替わりしてから、この二十年間で良くはなっているんだ。それだけは、信じて欲しい」
絞り出すようなグレンの言葉に、私は大きくうなずいて見せる。いまさらグレンを疑うつもりなどなかった。
私が微笑むと、グレンも表情を緩めていく。私たちの間の空気が穏やかなものへと変わっていった。
「私にも聞きたいことがあるのだけど、少しいいかしら?」
話題を切り替えるべく私は口を開く。グレンも小さく首を縦に振り、話の先を促した。
「精霊契約とは何をするのかしら? 『精霊の祝福』とは関係があるの?」
「ああ、関係しているね。『精霊の祝福』を受けた者が、精霊と契約できる。そう考えてくれてもいいよ。続きはリーシェと一緒に――」
突然、グレンは言葉を切り、視線を腕時計へと向ける。数秒遅れでハッと気づいた私は教会堂内に視線を巡らせていく。次の瞬間、私は椅子から立ち上がっていた。
「リーシェの様子を見に行くわ」
「――待って、僕も行く。エルティナを一人にはさせられない」
駆け出す直前の私を、グレンが引き留める。答えがわかりきっているからか、私の答えを待たずにグレンが走り出す。その背中を私も必死に追いかけた。
教会堂の中にトイレはない。隣に建てられた公共用の建屋に借りに行く必要があった。行って戻ってくるだけであれば、一分間もかからないだろう。
トイレにたどり着くと、グレンは力一杯にドアを叩き、リーシェの名前を呼ぶ。……中からは何の反応も返ってはこなかった。
「グレン、後ろを向いていなさい!」
魔力を放出しながら、私は叫ぶ。グレンと立ち位置を入れ替えるように、私は前へと飛び出していく。後ろ手でグレンにドアノブを回させる。ゆっくりとドアが開いていった。
「リーシェ!」
トイレに駆け込み、私は視線を巡らせる。リーシェの姿は見当たらない。
これ見よがしにナイフで突き刺された封筒が壁へ縫いつけられていた。




