013 闇の精霊
医療所から私とリーシェは家路につく。手早く着替えを済ませた私たちは、リビングに集合し、エミリアの件に関して作戦会議を開催していた。リビングの掛け時計は午後五時半を刻んでいる。
リーシェの弁によると、グレンに片思いをしている女性の名はエミリアだと言う。今年で二十八歳になるエミリアは、八ヶ月前にイトマラへ赴任して来たらしい。その目的は医学と魔法に精通しているグレンに師事し、知見を広げることにあるそうだ。
エミリアの研究報告を随時グレンが確認し、現場医療の観点から研究方針を定めていく。研究成果はイトマラの地域医療に採用予定であるため、エミリアの研究にかかる期待は大きい。すでに成果の出た研究もあることから、期待に応えたエミリアの評価は高いようだ。
三百年前と比べて女性の結婚適齢期は遅いとは言え、一般的には二十歳前後で結婚している。学問の道を志したエミリアは、結婚を良しとしなかったのだろう。研究者として評価されている事実からも、エミリアが才女であることは間違いない。
――遅まきの初恋に我を忘れただけなのかもしれない。
リーシェから話を聞いた私の率直な感想だった。もしそうであるならば、エミリアを正気に戻すことが先決だ。グレンとは四歳差で年齢的な問題があるとも思えない。その後は、グレンとリーシェの判断に任せればいいだろう。
それとも、本当にリーシェを排除するつもりなのか……? 時折、グレンはエミリアを家に招待するらしく、グレンが席を外したのを見計らい、エミリアはリーシェに暴言を吐いている。それで、リーシェは不満を貯め込んでいったようだ。
エミリアの真意がどこにあるにせよ、現状ではリーシェから聞いた情報しか持たない私には判断しきれない。ましてや、恋を知らない私に、恋煩いか否かの判別はできようもなかった。
エミリアに関する情報を話し終えたのだろうか、リーシェが口を閉ざしてから数分が経過した。
考えを整理していた私はゆっくりとまぶたを持ち上げていく。リーシェは不安げに表情を歪め、私を見つめていた。
私にはもう一つだけ聞いておかなければならないことがあった。
「リーシェ、まだ隠していることがあるわね」
咎めるような口調で私は言う。リーシェは目を大きく開き、私の目から視線を外す。私は深くため息をついた。
「貴方は暴力も受けた。違うかしら?」
リーシェは自分を守るように体を抱きしめる。薄っすらと涙の浮かんだ瞳が私へと向けられた。
「……信じてくれるの?」リーシェは震え声で訊ねる。
「当然でしょう。エミリアに何か言われたのね?」
「誰も私の言うことなんて信じない、って。だって、跡なんて見せられないから……」
「グレンにも見せられないの? 助けてくれたはずよ」
リーシェは力一杯に首を左右に振る。大粒の涙が零れ落ちていった。
「お父さんに、男の人に見せるなんて……できないよ」
絞り出すようなリーシェの声に、私は一瞬だけ顔をしかめる。頭を切り替え、入浴時に見たリーシェの体を思い返した。
「……跡は、残っていなかったわね?」
「残ってないよ……」リーシェは力なく首を振った。
心の奥底からどうにもならない不快感がこみ上げてくる。年頃のリーシェがグレンに体を見せられるわけがない。恐らく手足の付け根に跡があったのだろう。暴行跡が残らないように抑えているあたり、エミリアの暴力は計画的だ。
恋煩いで暴走しているなんてかわいいものではない。エミリアは狡猾な、リーシェの敵だ。
「リーシェ」私は激情を抑えるように平坦に呼ぶ。
「……何?」
「もうエミリアと二人きりにはさせない。私が一緒にいるわ」
私は決意を口にする。それが、解決策になっていないことはわかっていた。
精霊が問題を起こせば、その責任は召喚者にも及ぶだろう。私を召喚したのはグレンとリーシェだ。二人に迷惑をかけるわけにはいかない。直接的にエミリアを攻撃できないことがもどかしいが仕方がない。
リーシェを一人にしない――エミリアの悪意から守り、リーシェの憎悪の暴発を抑え込む。今の私にできることは、それくらいしかない。
「……ありがとう、エルティナ」
目元をごしごしと擦ったリーシェが小さくつぶやく。私は不敵に笑って見せた。
私は警戒心を悟られないように微笑む。床に膝をつけ、私と目線を合わせたエミリアは人好きのする笑顔を浮かべた。
「グレンさんと一緒に働いているの。気軽にエミリアと呼んでね」
「……エルティナです。エミリアさん、はじめまして」
「よろしくね、エルティナさん」
エミリアは柔らかく笑い、私の隣に立つリーシェにも挨拶をする。リーシェの笑みには、どこか陰りがある。
リーシェの淀みに気づいていないのか、横で様子を眺めているグレンは安堵したようにうなずいていた。
グレンがエミリアを連れて来たのは、リーシェとの作戦会議から四日後のことだった。どうやらグレンは工房でエミリアの研究を手伝うことにしたようだ。
……三人で出掛ける約束は、先延ばしにされてしまった。
出掛ける準備を済ませてリビングで待っていた私とリーシェのもとに、エミリアを連れたグレンが帰って来たのだ。グレンは午前中だけ医療所で仕事をする予定になっていたが、エミリアから相談を受けたらしい。
グレンが指導員である以上、エミリアの相談を無視できなかったのだろう。それは理解はできる。ただ、どうして今日なのか。リーシェが今日を心待ちにしていたことは、グレンも知っていたはずだ。舌打ちしたい気持ちを抑え、私はグレンを睨みつけていた。
「少しエミリアと工房に籠るから……二人とも今日はごめんね」
「気にしないで、お父さん。お仕事頑張って」
リーシェは偽りの笑みを浮かべる。グレンは目を見開き、慌てて私へと視線を動かした。その目は懇願するように揺れていた。
私はひっそりとため息をつき、小さくうなずく。目礼してリビングから出て行くグレンの背中が弱々しく見えた。不思議そうな顔をしたエミリアがその一歩後ろをついて行った。
立ち尽くすリーシェに、私は体をピタリと寄せた。
「立派だったわ」
「……エルティナ」
リーシェは悔しそうに唇を噛む。悲しみや憎しみで心がぐちゃぐちゃになっているのか、泣き顔にも怒り顔にも見える複雑な表情で私を見下ろした。
「少し外に出ましょうか? ……そうね、リーシェも魔法は使えるのよね?」
「……簡単なものだけだよ。私が学校に通うのは来年からだから」
「十分よ。魔法の練習をしましょう、リーシェ。きっと気分転換になるわ」
私は言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言う。戸惑いがちにリーシェはうなずき、魔法書をとりに自室へと向かっていく。駆け足でリビングを出て行くリーシェを見ながら、私はほっと息をついた。
名医と知られるだけあり、グレン宅の敷地は広い。私とリーシェは住居と工房の間に広がる庭で向かい合う。午後の日差しが心地よく照りつけていた。
「エルティナ、行くよ」
魔法書を左手に持ったリーシェが大きく右手を突き上げる。私がうなずくと、魔法書に視線を送りながらリーシェが文字を宙に描いていく。少しずつ形作られる魔法式を、私は目を凝らして眺めた。
あれは、火の魔法ね……。リーシェの魔法を推測し、私は防御手段を思案する。
『水の精よ、力を貸しなさい』
目を閉じた私は小さくつぶやき、イプスへと魔力を溶け込ませていく。全身を覆いつくすほどの水壁をイメージすれば、周囲のイプスが私の意思に呼応する。リーシェが小さな火球を飛ばした瞬間、意思のままに水壁を顕現させた。
火球は水壁に飲み込まれ、一瞬で消え去っていく。リーシェの歓声が遠くから聞こえた。
私は小さく息を吐き、イプスへの干渉を抑える。すると、私を囲っていた水壁は光へと変わっていった。
まぶたを開くと興奮した様子のリーシェが、駆け寄って来るのがわかった。
「エルティナ、すごいよ! 風魔法も、水魔法も使えるんだ!」
「火、土、闇も使えるわ。私が使えないのは光だけよ」
リーシェからの尊敬の眼差しに押され、私は得意げに答える。
「精霊はたくさん魔法が使えるの?」リーシェは瞳の奥を輝かせた。
「リーシェは、精霊についてどこまで知っているかしら?」
「えっと、火、水、土、風、光、闇。六属性の精霊がいるんだよね? それで、属性に合わせた魔法が使えるの」
記憶を手繰り寄せ、リーシェは答えていく。私は「その通りね」と相槌を打つ。
「あれ、光以外は何でも使えるの? ……エルティナは風の精霊だよね?」
小さく声を上げ、リーシェは首をかしげる。窺うように私を覗き込んだ。
「私は闇の精霊よ。闇と光の精霊は、他の四属性も使えるの。ただ闇の精霊は光が使えないし、光の精霊は闇が使えないわ」
「……闇の精霊なの?」
リーシェが目をしばたたかせて呆然とつぶやく。私が闇の精霊であることが、そんなに以外かしら?
「闇の精霊は嫌?」
「ちっ、違うよ! 驚いただけだから!」
「驚くことがあるかしら? 闇の精霊なんて珍しくもないでしょう?」
「そんなことないよ! ……闇の精霊がいることは、皆知っているよ。でも、実際に現れたことはないって、お父さんが言ってたんだ」
三百年前も、光と闇の精霊が少なく、他の四属性の精霊が多数派だった。そもそも、闇の精霊は、光の精霊から派生した存在だ。精霊の数自体が減っているとするならば、闇の精霊が現れないこともあるのかもしれない……。
「期待を裏切るようだけど、闇の精霊はそんなにすごいものではないわ」
私はため息まじりにつぶやいた。
「四属性も使えると言えば聞こえはいいけれど、一つの属性を極めた精霊には太刀打ちできないわ。光の精霊ならば、力負けはしないのだけど……」
光の精霊は、光以外の属性も遜色なく扱える。しかし、闇の精霊は違うのだ。四属性の魔法を自由に使えるわけではない。
属性によって得意不得意が発生するのだ。私も風魔法を好んで使ってはいるが、闇魔法と比べれば魔力の消費量は多い。土、水、火の順で魔力が必要になる上、威力も落ち込んでいく。
「火、水はおまけみたいなものね。土と風は相性が悪くないから使うけれど、私が頼りにするのは、あくまでも闇魔法ね」
「……闇魔法」
リーシェはおうむ返しにつぶやくと、目を伏せて黙り込む。
数秒後、恐るおそる顔を上げたリーシェは、もの言いたげな視線を私に送ってくる。しかし、すぐに大きく首を振り、恥じ入るように顔を俯かせた。
私は小さく微笑み、リーシェへと一歩近づいた。
「私ならば、エミリアを暗殺できるわ」
冷淡な口調で私が告げた瞬間、リーシェは弾かれたように顔を上げる。その瞳には後悔と怯えが入り混じっていた。
「ごめん、なさい……」リーシェから消え入りそうな声が漏れ出した。
「それでいいのよ、リーシェ。貴方は今、自分で間違いに気づいたわ。それは、立派なことよ」
私はさらにリーシェとの距離を詰めていく。顔を俯かせていくリーシェを下から見上げた。
「エミリアなんかで、貴方が手を汚す必要はないわ。……それとね、リーシェ、貴方はもう少しグレンを信じなさい」
リーシェ、貴方の父親でしょう? 視線で問いかけると、リーシェは目を見開いて固まる。私も口を閉ざし、リーシェの答えを待った。
重苦しい沈黙は数十秒続いただろうか、リーシェが強く顔を上げた。
「お父さんに話すよ」
どこかすっきりしたような顔でリーシェは微笑んだ。
「私も一緒に行ってあげる。もし、リーシェを信じなかったら、グレンのお尻を蹴り飛ばしてあげるわ」
「ありがとう」
……やっぱり、フィーネに似ているわ。
満開の笑みを咲かせるリーシェに、遠い記憶が掘り起こされていく。私も心からの笑みを浮かべていた。




