012 発露
「……リーシェ、本当に良かったの?」
グレンの医療所へと向かう道すがら、私はリーシェに訊ねる。教会堂を出てからはすでに十分以上は経っただろうか。私たちの間に会話はなかった。
私の態度は褒められたものではなかっただろう。隠しておきたい心の一番弱い部分に触れられたとは言え、感情的に当たり散らしてよい理由にはならない。リーシェもカーティスも当事者ではないのだから。
加えて、リーシェとカーティスに仲違いまでさせてしまった。カーティスの危惧はもっともなのだ。
妹同然のリーシェのそばに、人間を憎む精霊がいる。リーシェを想えば、私を遠ざけることは当然のことに思えた。
「エルティナは、私が間違っていると思うの?」
「……わからないわ」言い淀む私は、小さく首を横に振った。
「う~ん、それなら嬉しかった? それとも、庇ったことは迷惑だった?」
「迷惑だなんて……嬉しかったに決まっているわ」
衝いて出た言葉に嘘はない。リーシェが味方をしてくれたことは嬉しかった。
アルスメリア王国を滅ぼした人間を恨んでいるのは本当のことだ。ただ矛先は三百年前の人間に向けられている。今を生きる人間も恨んでいるかは、私自身にもわからなかった。
「役に立てたなら良かったよ。やっぱり、私がお姉ちゃんでしょ?」
リーシェは揶揄うような口調に反し、満開の笑みを咲かせる。惹かれるように私も微笑んでいた。
「ええ、リーシェはお姉さんだったわ」
「当然だよ。エルティナも、カーティスの言葉なんて、気にしなくてもいいんだからね」
カーティスの言葉。教会堂での会話を思い出し、チクリと私の胸は痛み出す。後ろめたさからか、表情が曇っていくのが私自身にもはっきりとわかった。
「……リーシェは怖くないの?」
「ん? どうしたの?」
リーシェは首をかしげて聞き返すが、その表情はすぐに心配げなものへと変わっていく。まるで喉を潰されたように、私は言葉を口にすることができなかった。口はパクパクと開閉を繰り返すばかりで、声が一向に出ない。どうしてかリーシェの気持ちを確かめることが怖かった。
数秒後、顔を俯かせた私の腕を強引に引き、リーシェは足早に歩き始める。足をもつれさせながら、私はリーシェに引き摺られて歩いた。
リーシェの横顔から背中へと見える光景が変わった。立ち位置が変わり、リーシェとの距離が開いたことに、少なからず私の心は乱されていた。
グレンが勤務する医療所は、地方都市イトマラにおいて異彩を放っていた。建物が立ち並ぶ中心街に突然現れた森。右を見ても左を見ても、ひたすらに木々が立ち並んでいた。呆けて周囲を見渡す私をよそに、リーシェはぐんぐんと進んでいく。腕をとられたままの私は慌てて歩いた。
門をくぐり医療所に向かって歩いていたリーシェは、唐突に進行方向を変える。そして、一直線に森の中へと足を踏み入れていった。
私から手を離したリーシェは、慣れた手つきで枝葉をよけて道を作っていく。私は促されるままに森の奥へと進んでいった。
たっぷりと五分間は森の中を歩いただろうか。視界の先に医療所と思われる建物が見えてきた。どうやら医療所の裏側にまわってきたらしい。
身を屈めるリーシェに倣い、私も低い姿勢をとる。のそのそと歩き、医療所の窓下へとたどり着いた。リーシェは口元に人差し指を押し当て、音を立てないように注意を促す。わけもわからないまま、私はうなずいて見せた。
リーシェは窓枠に顔を近づけていく。私も窓から医療所の中を覗き込んだ。
目に飛び込んで来たのは、患者を診断しているグレンの姿だった。整えられた髪に、夕焼け色の上着を身に着け、真剣な顔つきで患者と向き合っている。私への診断を下したときに見せていた姿と変わりなかった。……家でだらしない格好で過ごすグレンは別人ではないのか、そう思いたくなるほど立派な姿だ。
ちらりと隣のリーシェを窺うと、誇らしげに表情を輝かせている。
毎日のように繰り返されていた、どこか呆れたような視線でグレンを叱りつけるリーシェはいなかった。そこには、父親に尊敬の眼差しを向ける娘がいた。
動く気配を全く見せないリーシェに付き合い、仕事をするグレンの横顔を眺め続ける。一人……二人……三人……。はじめは不安げな表情だった患者たちも、診断が終わるころには笑みを浮かべていく。覗くリーシェは今にも踊り出しそうなほどに顔をほころばせていた。
なるほど、確かにグレンはかっこいい。真っすぐに伸びた背筋に、堂々した態度。患者に安心感を与える姿は、医者の鑑なのだろう。三百年前もそうだったが、ひたむきに仕事をする男性はかっこいい。私も表情を緩めていた。
患者が途切れたのか、局員と思しき女性が入室してきた。一言二言話すと、グレンは大きく背伸びをする。小休止を迎えたからか、すっかりと見慣れた気の抜けた表情へと変わっていた。
そろそろ帰る頃合いだろうか。
私はリーシェに顔を向け、思わず目をしばたかせた。リーシェは唇を強く引き結び、憎悪を孕んだ瞳を室内に向けていた。
「あっ、またお父さんに……」
リーシェがいつになく低い声でつぶやく。
弾かれたように私が室内へと視線を戻すと、グレンと女性が楽しそうに話をしている。……女性は、グレンの上着を掴みながら少し赤らめた顔で見上げていた。一方で、グレンは気の抜けた表情のままだ。
女性はグレンに恋をしているらしいが、グレンが意識をしているようには見えなかった。
これは、嫉妬しているのかしら?
リーシェを横目で見る。リーシェの家族はグレンだけだ。父親を盗られるかもしれない、そうリーシェが不安に駆られてもおかしくはないだろう。ただ、今にも射殺しそうな瞳だけはいただけない。
小さく息を吐き出し、私は勢いよく体をリーシェにぶつける。下からリーシェを覗き込んだ。
「もう帰りましょう」
「えっ、あっ……。そうだね、帰ろっか」
一瞬だけ目線を室内に向けた後、リーシェは痛々しく微笑む。私は気づかない振りをし、大きくうなずいた。
重々しい足どりでリーシェは歩く。森から医療所の門が見えてきたころ、リーシェは突然足を止める。空は赤く染まり始めていた。
「私もエルティナと同じなんだ」
リーシェはポツリとつぶやき、ゆっくりと振り返る。私を見るリーシェの瞳は、悲しげに揺れていた。
「私は憎いんだ、あの女が……」
「それは、グレンを盗られるから? 心配しなくとも、グレンはリーシェを見捨てたりなんてしないと思うわ」
目に薄っすらと涙を浮かべながら、リーシェは首を左右に振った。
「違うの。お父さんが愛してくれていること、私はわかっているから……」
リーシェは言葉を途切れさせて唇を強く噛み締める。涙の浮かんだ目を一度擦ると、重苦しく口を開いた。
「あの女はね、お母さんを消し去ってやるって言ったんだ。……そんなこと、許せるわけないよ!」
「……本当に、そんなことを言ったの?」
私は眉根を寄せ、激昂するリーシェに聞き返す。その瞬間、リーシェは目を大きく開き、表情をくしゃりと歪めていく。逃げるようにジリジリと後ろへと下がっていった。
「――待ちなさい!」
私は慌てて声を張り上げる。リーシェと離れた距離を一気に詰めた。
「リーシェを疑ってなんていないわ! ……ただ、わからないの。グレンがリーシェを大切にしていることぐらい、簡単にわかるはずよ。それなら、リーシェと仲良くすることが、グレンと結ばれる近道だと考えるはずだわ。わざわざ、リーシェに嫌われるようなことをするかしら?」
どうしても違和感をぬぐい切れず、私は正直な感想を口にする。……そもそも、グレンにはリーシェの母以外と結婚する気はないのではないか。根本的な質問を投げかけることはできなかった。
「でも、言われたんだよ。お母さんも私も邪魔だって……私を殺したいって、言ったんだ!」
リーシェは感情のままに叫び、大粒の涙を零していく。瞳の奥を憎悪の炎で輝かせるリーシェに、私は息を呑む。嫌な想像が頭をかすめた。
「まさかとは思うけど……貴方、悪いことを考えていないわよね?」
「ちがっ、違う、わ、私は、違うの――」
歯をガチガチと鳴らせながら、リーシェはしどろもどろになる。私から逃げ出そうと後ずさりをするリーシェは、背中を木にぶつけて力なく座り込む。全身を震わせ、両手で顔を覆い隠していた。
リーシェが言葉を発しなくとも、私の問いへの答えは明白だった。思わぬ事態に、私の頭は真っ白になる。リーシェのすすり泣く音がやけに大きく聞こえた。
まさか、リーシェが殺意を抱いていたなんて……。何も考えられず、蹲るリーシェを呆然と見つめていた。どんな言葉をかけるべきなのか、思いつきもしない。現実逃避をするように、楽しかった街歩きを思い起こしていく。
どれだけの時間、逃避していたのだろうか。不意にリーシェが私へ投げかけた慰めの言葉を思い出し、私は小さく笑った。
私とエルティナは似ている気がするの――確かに、リーシェの言葉通りかもしれない。私とリーシェは似ている。
「リーシェ、貴方も寂しいのね」
蹲るリーシェに向かって歩いて行き、膝と膝がくっつくほどに身を寄せて私は座り込む。リーシェの肩が小さく跳ねた。
「私も寂しがり屋みたいだから、ちょうどいいわ。私と一緒にいましょうか?」
私は少し揶揄うように訊ねる。
「私にね、貴方のお母さんのことを教えて欲しいの」
リーシェが恐るおそるに顔を上げていく。私は妹を慈しむように、優しげな視線を送った。
「代わりに、リーシェにはアルスメリア王国のことを知って欲しいの。大切なものだから、わかちあいたいわ。そうしたら、きっと寂しくなくなると思うの」
「……寂しくない?」
リーシェが涙声でつぶやく。私は大きくうなずいて見せた。
「私もリーシェも弱いから、一人きりだとダメみたいね。でも、二人でなら、寂しくないわ。例え、大切なものを否定されても、きっと我慢できるわ」
「我慢できるのかな? エルティナと違って、私は弱いよ」
「あら、私だって弱いわ。でも、リーシェが間違った道を進むなら、止めてあげるわ。リーシェも、いえ、お姉さんも、私を止めてくれるわよね?」
私はわざとらしくリーシェの胸に飛び込んでいく。下から見上げる私に向かって苦笑したリーシェは、仕方がないと言わんばかりに私の頭を撫で始めた。
泣き笑いをするリーシェの表情に、私はひっそり安堵のため息をつく。優しく撫でられる心地よさに身を任せ、静かに目を閉じた。
リーシェに何度も頭を撫でられていた私は唐突に抱きしめられる。縋りつくように腕の中へと私を閉じ込めたリーシェは小さくつぶやいた。
「……エルティナ、助けて」
父親であるグレンには心配をかけたくなかったのだろう。ようやく口にしたリーシェの救いを求める言葉は、木々を揺らす風の音に負けてしまうほど弱々しかった。
「任せておきなさい」
短く答え、私は大きくうなずいた。




