コンビニ戦記
靴を履くときは必ず右足から履くことにしている。そして、蝶結びをつくるときは必ず左のひもが上にくるように結び始める。
いつからこんなルールを自分に課すようにしたのか。あまりはっきりとは覚えていないけど、ずいぶん長い間こんな習慣を続けている。
靴を履き終わると立ち上がり。一歩目を踏み出す。このときは必ず右足から。
なんでこんなことをするのかって?
この世界はとっても危険な場所なんだ。自分を守るためにはルールが必要だ。これは俺のルール。自分を最も効果的に守るためのルールだ。
様々な予兆を敏感に感じ取るためには様々な工夫が必要で、俺は本当に多くのジンクスを発見して来た。俺の発見を全て書物に記し世に出版すればベストセラー間違いなしだ。しかし、そんなことはしない。なぜかって? 敵に戦略を教えてやる戦国武将がどこにいるんだ!
ドアを開ける。少しずつ開けていく。大きく息を吸い込む。完璧だ。すべてのジンクスは俺のもとに……
「あ、あら、こんにちは。お久しぶりね……」
最悪だ。隣のおばさん。抱えられてこちらを見ている犬。なんで抱えられているんだ。おまえの散歩だろ。自分で歩け、犬。まん丸な目でこちらを見る犬。舌を出している。毛が少し伸びている。散髪に行くべきころだろう。
「あ……あの、あ……こんにちは……」
「ええと……お久しぶりね、元気にしてた?」
「え、えと。その……」
おばさんは気まずそうな目でこちらを見る。俺の体調なんか知ってどうするのだ!
「じゃ、じゃあまたね。体には気をつけてね」
おばさんは目を伏せて去っていく。おばさんは俺から目線を外すとき素早く目線を地面に向けた。ああ。
俺は一瞬家に戻ろうとした。しかし、踏みとどまる。今、俺には行けなければならない場所がある。
少し泣きそうになりながら決意する。コンビニに行くぞ。
今日俺にはコンビニに行かなければならない理由があった。
ここ何クールかで見たアニメの中でとびぬけて面白いアニメがあった。久しぶりにアニメの世界観に浸りきる感覚を体験し、毎日放送日が待ち遠しかった。ずっとどこかそわそわしていた。
そしてそのアニメは大団円を迎えた。泣いた。最高だった。
結果、次の日から俺は抜け殻に戻った。
またあの世界に戻りたい。それだけを毎日考えていた。しかし、いくら待ってももう放送日は二度とこない。
そんなとき、俺はある情報をつかんだ。
コンビニがアニメ会社と提携してキャンペーンを始める。対象のお菓子を500円分買うと、そのアニメのキャラクターグッズがもらえる。これは手に入れたい絶対に。
俺はコンビ二へと向かう。すべてをなげうち、戦地へと赴く。
さっきのおばさんにはまんまとしてやられた。俺はふい打ちには弱いんだ。
しかし、問題はない。現に今。俺はこうしてコンビニへ歩みを進めている。傷を負いながらも俺の勝ちだ。
信号が赤に変わる。
ちっ。
仕方ない、ここで待つしかない。
トラックが速度を出して走っていく。9月のまだまだ暑い風が吹き抜けていく。空は憎たらしいほどの快晴。こんな日は外で遊んだ方がいいなんていう奴がいそうだ。なにを言っている。晴れの日は人が多いんだぞ。こんなときほどコーラゼロでも飲みながら部屋で過ごすのが俺のスタイルだ。今日は特別だがな。
信号が青に変わる。横断歩道に一歩踏み込む。ここでは気をつけなければならないことがある。白線を踏んではならない。
小学生のころの話。女子がよく白線だけを踏んで横断歩道を渡る遊びをしていた。その日も3人の女子が白線の上を跳ねていた。1人で下校中の俺は何のけなしにその遊び真似してみた。白線と白線のあいだは意外に距離があって、そこそこ本気でジャンプしなければならない。
その様子を女子に見られていた。3人がこちらをじとっと見る。そして、女子特有のひそひそ声で話始めた。そして、俺は一言だけはっきりと聞き取ってしまった。いや、聞こえるようにいったのかもしれない。
「キモっ」
その日から、俺にとって横断歩道の白線は危険なものになった。絶対に踏んではならない。踏んだら俺の心、大爆発。
しかし、大人になった俺にとって黒い場所だけを踏んで歩くなんて朝飯前だ。身長はそこそこ伸びた。少し大股で歩けばいいだけの話。ざまあみやがれ!
やっとの思いでコンビニに到着した。
家を出てから15分。俺は全てのジンクスをクリアして、無事に立っている。
長かった。外に出ない生活を続けている俺にとって、15分間の歩行はつらい。腰は痛み、全身にだるさを感じる。いつもベッドにもぐりこみ、スマホをいじるかゲームをするかの生活だ。この症状はただの運動不足。
しかし、運動不足といえど恐ろしいことがひとつ。この状態になると思考力が鈍るのだ。体がだるくなった分、頭がぼうっとする。ジンクスを守るのが難しくなるのは言うまでもない。
自動ドアを抜け、涼しい店内に入る。店員が気の抜けたいらっしゃいませを言う。店員の声にイラっとするが、今の俺にそんなことはどうでもいい。お菓子コーナーに向かわねばならない!
お菓子コーナーはドア側から数えて2つ目の陳列棚。誰もいなければよいが……
いた。
先客がいた。
最悪だ。
眼鏡をかけた制服姿の女子学生。
中学生ぐらいだろうか。ほっそり色白で不健康そうな顔つきをしている。
なぜこんな時間に学生がコンビニにいる。おそらく今は授業中の時間だ。
俺の方をちらと見ると、すぐ目を伏せた。
くっ、そんなに俺は醜いか!
下を向いた女子学生はおどおどと落ち着かなさそうにしている。
ふと感じた。もしかしたらこの子も俺と同じ人種なのだろうか。俺を見て、恐怖をなしているのかもしれない。
しかし、そんなときでも気をつけなければならない。同じ人種だからといって、共感でもしようものなら手痛いしっぺ返しを食らうことがある。優しさは裏切られる。そして、優しさを裏切られたときのダメージは大きい。俺はたくさん経験してきたんだ。
それに、そんなことを気にしている暇はない。俺はキャンペーン対象のお菓子を入手し、さっさと帰らねばならない。
お菓子を探す。対象商品のマークがついているのはどこにあるのか。マークを探し1歩1歩と進むと……
女子学生の前にあった。それも、ほとんどの商品がその子の前に集中的に並べられていた。なぜよりによってそんなところにいるのだ!
しかし、こんなことでくじけてはならない。俺は勇気を振り絞って、咳ばらいをした。
「ごほん!」
眼鏡娘はびくっとする。しかし、どく様子はない。邪魔だ。
仕方なく、俺は無理やり手を伸ばした。そろりそろりと。
眼鏡娘がびくっと肩を縮め、1歩後ろに下がった。しめた!
その隙に俺はお菓子を5つとる。種類などどうでもよい。最初からお菓子には興味はない。
やった!
これで目的はほぼ達成されたも同然だ。悠々とレジに向かった。
商品を購入する。そして、店員がいった。
「こちらキャンペーン対象の商品ですのでこちらのグッズを差し上げています。お付けしてよろしいでしょうか?」
よろしいもなにもそいつが目的だ。絶対に付けてもらう。
「は、はい……」
声が裏返ってしまった。
しかし、俺は目的を達成した。やった! 手に入れた! ついに!
レジ袋を受け取り、レジを離れる。
すぐさま袋からグッズを取り出す。
あのアニメのヒロインが俺を見てほほ笑んでいる。俺はやりとげたよ!
しばらくヒロインを夢中で見つめていた。この苦労が報われた気がした。体のだるさも、腰の痛みも、今では名誉の負傷だった。
その時、後ろから声が聞こえた。
「えっ! そんな!」
振り返ると、あの眼鏡娘が驚いた表情でレジに立っていた。見れば、対象商品がレジの上に置かれている。
「申し訳ありませんが、あちらのお客様に差し上げた分が最後の1つでして」
どうやらあの子もグッズが目当てだったらしい。しかし、俺がもらったものが最後だったのだ。ラッキー! 危ないところだった。
すべてのジンクスを守ったおかげでつきは俺に回ってきたのだ。俺の努力によって生み出された完璧な戦略には完全な勝利が伴うのだ!
その時、眼鏡娘がこちらを見た。
「……」
言葉を失う。
その目には、うっすらと、涙が浮かべられていた。
不健康そうな白い肌に、涙。
たかがアニメのグッズがもらえなかっただけのこと。ただそれだけのことなのに。あの子の目には涙が浮かんでいる。なぜだ。俺にはなんとなくわかった。彼女にとっては、グッズがもらえなかったことは単なる事実以上の意味を持っているのだ。
不健康そうな表情に、いちいちびくびくする気弱な態度。そして、アニメのグッズがもらえないだけで泣くほど弱った心。
俺の心の中で何かが動いた。
あの子が自分と重なった。
あの子は数年前の俺だ。
きっと、俺と同じ苦しみを背負って学生生活を送っている。
中学校はつらい場所だった。
小学校よりもずっと過酷な場所だった。
勉強は難しくなるし、運動部に入った俺は部活にもついていけなかった。そして何よりつらかったのは人間関係の変化だ。小学生のころにはかろうじて友達と呼べた人間たちが一気に友達ではなくなった。みんな他の小学校からきた連中とつるんだ。俺は1人ぼっちになった。
俺の親は厳しかったので、家でも安らぎはなかった。
勉強。部活。友達。家。
すべての場所で逃げ道を失った。
そんな俺に唯一優しくしてくれたもの。
それがアニメだった。
こんな俺にも感動をくれた。違う世界を教えてくれた。夢中になって見た。すがるように見た。俺を助けてくれるのはアニメだけだった。
もし、この子も俺と同じ状況ならどう感じる?
もし、この子もアニメにすがって生きているのならこのグッズはどういう意味を持つ?
もし、この子がグッズを手に入れられなかったらどう考える?
俺にはわかる。もしこの子が俺と同じ状況にいたのなら、アニメにまで裏切られたと思うだろう。すべての場所で裏切られ続け、最後のよりどころだったアニメ。そのグッズを手に入れようとわざわざコンビニ赴いたのに、手に入れられなかった。それにギリギリの差でだ。中学生にとって500円は決して安くないだろう。それでも、手に入れに来たのに。
俺はヒロインのグッズを握りしめた。俺の中に一つの選択肢が出現した。
この女の子にあげる。
俺は分かっている。共感は危険だ。優しさは裏切られる。そして、裏切られたときのダメージは大きい。とても大きい。もう人に優しくするのはよそうと何度も思った。
しかし、今は、すべて分かった上で、あげるという選択肢が芽生えた。
もし、裏切らてもそれはそれでいいんじゃないか? その時は、すでに傷だらけの俺に傷が増えるだけだ。
でももし、この子が数年前の俺なら。このグッズを手に入れることで、少しは救われるかもしれない。アニメにだけは、裏切られずに済むかもしれない。どんなに生きるのがつらくても、これで少しだけ勇気を持てるかもしれない。
俺は右手を女の子の方に差し出した。グッズを握りしめて。今の俺にとっての女神を握りしめて。
女の子が俺と目を合わせる。うるんだ目に驚きの色が浮かんでいる。
「い、いいんですか?」
消えそうなほど小さな声でいう。自信のなさそうな怯えが混じった声。
「お、俺はべつにこのアニメ好きなわけじゃないし!」
不自然に大きな声が出てしまった。またこれだ。たまにしか人と喋らないから音量の調整がうまくいかない。キモイと思われただろう。
しかし……
「あ、ありがとうございます」
女の子が柔らかくほほ笑んだ。涙混じりの笑顔。
なんだ。笑えば結構かわいい子じゃないか。不健康とかいってごめん。
そして、グッズを受け取った。女の子は夢中でヒロインと見つめ合う。しばらくして、思い出したように俺の方を見た。
ぺこり一礼すると、小走りでコンビニを出ていった。
ドアが閉まると女の子は振り返り、俺に向かってまたほほ笑んだ。そのまま駆けていってしまった。
少女はあっという間にコンビニの中からは見えなくなってしまった。どこに向かっているのかはもはや分からない。おそらく家だろうが、彼女の家など全く知るよしもない。もう2度と会わないだろう。
あっさりと、俺はヒロインのグッズを失った。
「……帰るか」
うちに向かって歩く。食べたくもないお菓子を5つもぶら下げて。帰り道は不思議と周りが静かだった。
信号が赤になる。
俺は立ち止まって、あの子のことを思い出す。グッズをもらえなくて泣くとはなかなか見どころのある少女だった。良いアニメ道を歩んでいる。弟子にしてやってもいい。まあ、もう会うことはないだろうが。
思わず昔の俺に重ねてしまった。
意味はあったのだろうか?
彼女は俺と全く違う状況かもしれない。いや、違う状況に決まってる。それでも、あのグッズをあげたことが少しでも救いになったんだろうか。
そんなことは分からない。
信号が青になる。
横断歩道を渡りながら、俺は考えた。
もし彼女にとってあまり救いにならないことだったとしても、別にいいじゃないか。少なくともあの瞬間、あの子は笑っていた。喜んでた。
気分は悪くなかった。
それでいいじゃん。
「あ、白線……」
気づけば俺は白線の上を歩いていた。長年守っていたジンクスだったのに。
「でも、ま、いっか」
やはり気分は悪くなかった。風が幾分涼しくなっていた。
俺は、無事に家へとたどり着いた。