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魔法の書と異界の門  作者: 与(あたゆ)
2/8

魔法の書

「その本を手にする者がやっと現れたか」

 次の瞬間、証は耳を聾さんばかりの喧騒の只中に立っていた。

 驚き見回すと、そこは前後左右を忙しく人並みが行き交う道の真ん中だ。

 間違いなくここはテレビのニュースなどに良く出てくるあのスクランブル交差点だ。

 何故俺はこんな所にいるのだ?

 一体何が起きているのだ? 

 証はあまりの不可解さに、軽い目まいを覚えて頭を抱えた。

 その時周囲から一斉にクラクションが鳴らされた。ふと気付くと辺りに人は無く、左右から車が迫っていた。

 どうにか交差点から抜け出した証だったが、歩道に辿り着くと歩くことを放棄し店の壁際に立ち止まった。

 そして気付いた。左手に持っていた本が無い。その手に有る筈の、あの革装丁の分厚く大きな本がない。あの本は何処へ行ってしまったのだ。どうなっている? あの本も先程の出来事も全て幻想だったのか。

 はっと気が付いて顔に触れた。眼鏡をしていない。なのにはっきり見えている。懐を探るとさっき入れた眼鏡がある。あれは幻ではなかった。

 だったらあの本もあった筈だ。証は本が無いことに強い喪失感と焦燥感を抱いて再び左手を見、右の手も確かめた。しかしない。両の手を擦り合わせたが何も無い。その時ジャケットの左の袖が少したくし上げられ、そこに銀色に光る何かを見た。証はジャケットをまくり上げた。左手首に銀色のバングルが巻き付いている。

 これは?

 証は路傍に立ち、じっと自分の左手首のバングルを見つめた。

 取りあえず落ち着こう。慌てても良いことはない。

 証は意識してバングルから目を離した。そして少し歩いてから、珈琲店に腰を落ち着けた。

 選んだ甘めのコーヒーと店内に流れるバラード調の曲が鎮静剤の役目をしてくれたようだ。

 少し冷静さを取り戻した証は改めて自分の左手首にあるバングルを見た。さっき道端で長い間見ていた筈だが、ただ眺めていただけで何も見ていなかったようだ。それだけ冷静さを失っていたのだろう。

 幅一センチ程の銀色のバングルには、あの本に記されていたのと同じと思われる文字がびっしりと彫り込まれていた。

 再び混乱に陥りそうな心を落ち着かせ、証はバングルに触れようと手を伸ばした。精緻に彫られた文字に触れて、この不確かな状況から何かを確かめたかった。

 その時あの本が頭に浮かんだ。何も無い広々とした空間に本が一冊だけある。失くしたと思って強烈な欠落感を抱いていたあの本が意識の中に存在している。証は本を手にしたいと請い願った。

 証の左手に重量が伝わった。違和感と共に視線が下り手を見た。そこにあの古書があった。

 驚きながらも、再び本を失わないようにしっかりと両の手で持った。

 確かにあの本だ。証は安堵と喜びが胸を満たすのを感じた。

 この本を手にしたのはついさっきだし、ほんの少しの時間しか持っていなかった。にもかかわらず、もはやこの本は証にとって自身の体の一部のように、決して失ってはいけないものになっていた。

 それにしても本は何処に行っていたのだろう。そして何処から来たのだろう。左手首のバングルはそこにある。だからバングルがこの本に変わった訳ではない。でもバングルを意識したときにこの本が見えた。証はもう一度バングルに意識を伸ばしてみた。証の頭には何も無い広大な空間が浮かんだ。そうか。このバングルは収納空間というやつに違いない。

 証は本をバングルに入れようと意識した。本が消えた。そして再び取り出した。

 その時、気が付いた。拙い、これ他の人が見たらどう思う。慌てて店内を見回した。ノートPCで仕事中らしきビジネスマン風の人物。賑やかに談笑する四人の男女。外を見てぼんやりしているおじさん。スマホに夢中な男子。

 証に注意を向けている人は何処にもいなかった。

 一安心した証は、コーヒーカップと水の入ったグラスを端に寄せて場所を確保してから大きな本を開いた。

 見たことも無い文字が記されたページをめくっていくと、あの神殿の絵が描かれたページが現れた。本屋で見た時と変わらない暗雲の中に毅然と建つ白亜の神殿。それはまるで数々の激動の時代を過ぎ越しても、なお汚れを受け入れない強く頑なな精神を具現化しているように見える。時の流れさえも受け止める永久とわの防波堤。不変の建造物。これは何者が住む館なのか。

 証がその絵に見入っていると、白いブラウスに紺色のスカーフ、同色のショートエプロンを着けたウェイトレスが証のテーブルのグラスを持ち上げるとステンレスのウォーターピッチャーから水を注いだ。そして証が正に今見ている本の上にグラスを置いた。いや、上ではない。グラスは本を突き抜けてテーブルに直接置かれている。

 それも違う。グラスと本は重なって存在している。どちらも見えている。

「えっ?」

 証は思わず声を上げた。

 ウェイトレスはその声に反応して証と目を合わせたが、何事も無かったように「お水をどうぞ」と言って席を離れていった。

 証は本と同じ空間に重なって存在しているグラスを急いで持ち上げて、本の脇に移動した。

 むろん本に穴が開いたわけではない。

 グラスの外側には水滴が付いていたが、本には水が垂れた様子もなかった。光りに照らして確認し、慎重に指で触ってみたが水は付着していない。一安心した証だった。

 ウェイトレスが本の上にグラスを置くなど、そんなことはあり得ないことだ。

 だとすれば思い当たることはひとつ。彼女にはこの本が見えていない。

 証は窓際の席に座っていた。窓には室内がおぼろに映っている。証は本を持ち上げて窓ガラスを見た。そこに本はない。両の手の平を上に向けて、祈りでも捧げているような自分の姿が映し出されているが、本はない。もしやと思い左腕を見たが手首にあるバングルも映っていない。

 何度目かの不可解な事実を突きつけられた証は一旦本をテーブルに置いた。本から手を離した瞬間に本が消えた。

 不思議な体験が続き証の神経はどんどん削られていたが、本が何処に行ったかは想像出来た。バングルに意識を向けるとやはりそこに有った。

 そこで落ち着いて考えた。本とグラスの映像は重なっていた。本にグラスの水も付いていなかった。これらのことを考えれば、多分この本もバングルも自分にしか見えないだけではなく、自分以外の人にとっては存在していないのではないだろうか。人だけではない。グラスにとっても、グラスに付いた水にとっても本は存在していない。

この事実も証には大きな衝撃だった。

 家に帰るべきだ。家に帰って一人になろう、一人になって落ち着いてから考えを纏めてみようと思った。

 自宅アパートまでの路程は心ここにあらずの状態だった。そもそもあの古本屋に近づいた辺りから夢なのかうつつなのかはっきりしない。

 無事部屋に辿り着いて、彼はシャワーを浴びた。その時分かったことだが、腕のバングルは外せなかった。正確に言えば外せるのだが体からは離れなかった。左手首からは外せたが、それをどこかに置こうと手を離すと、その瞬間にまた元の左手首に戻った。しかし必ずしも左手首に装着する必要などなく、右腕でも足首でも二の腕でもバングルの輪は何処も通るし、装着先にサイズがピタリと収まる。しかしほんの一瞬でも証に触れていないと、その前に装着していた位置に戻った。さすがに頭とか胴とかに装着しようとはしなかったが。

 本も同じように証の手から離れた瞬間に消えるが、本が戻るのはバングルの中だった。

 温めのお湯を浴びてサッパリとした証はジャージに着替えて再びバングルの検証を始めた。

 部屋の中に有る洋服や本などを、目で見ながら収納したいと思えばどんどん入った。洋服ダンスを衣類が入ったままでも収納出来たし、寝具を敷いたままのベッドも入った。どれだけ入れても今のところ限界が見えないし、重さもまったく感じない。ひょっとすればバイクでも車でも平気で入るのではないだろうか。なんか、完全犯罪の臭いがする。決してやらないけど。何が不満で、何が悲しくて犯罪なんか犯さなきゃいけないんだ、と思う。

 その後、バングルに入れた多量の物品を元に戻すのが手間だった。

 不思議な現象に慣れたのか諦めたのか、空腹を覚えた証は夕飯を作る気にもなれず外に出た。

 晴れた一日は、都会のビルの隙間の空にも綺麗な夕焼けを連れて来ていた。証にとっては久々に見た夕焼けだった。この時間は机に向かって仕事をしているから夕焼けの空を見ることなど久しくなかった。

 今日は多くの理解不能な経験をし、不可解な事実を突きつけられた。

 古本屋の店主が「その本を手にする者がやっと現れた」と言った言葉が頭に残っている。自分が何かに巻き込まれているのは確かな事だ。

 この先に何が待っているのか分からないが、しかし今までも何度も困難な事に出会った。苦しさも悲しみも乗り越え、理不尽なことも消化して進んで来た三十五年間だ。

 俺は大丈夫だ。

 そうだ。腹が減っては戦が出来ぬ。証は気を取り直してしっかりと夕食を取った。

 家に帰った証は机に向かった。

 明日も休みだ。本をじっくり調べてみよう。ネットで検索すれば何処の国の文字か分かるかもしれない。

 まず全てのページに目を通してみよう。

 一ページ一ページと進んで行き、神殿の絵のあるページを流してさらにページをめくった。するともう一枚の絵を見つけた。

 これは証の左腕にあるバングルではないか。古本屋で見た時もコーヒーショップで見た時にも気が付かなかったが、現物と対比してもそのページの絵は証から離れないこのバングルに違いなかった。

 また現れた不可思議な現象に心乱されながら、更にページを進めた。それ以降には絵は無く、最期のページまで同じ言語のものと見られる文字がびっしりと書き込まれていた。

 証は見開きに神殿の絵のあるのページに戻った。ここに何かのヒントがないだろうか。いま頼ることが出来るのはこの絵しか無いのではないか。

 この神殿の中には何があるのだろう。そう思ってエンタシス柱の立ち並ぶ神殿の中央辺りを見ていると、体の中から何かが流れ出た。

 突然景色が暗転した。

「いらっしゃいませにゃ」


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