8.水瓶の少女(中)
初めてのサロンを終え、二人は夕食を食堂ではなく、自室で取ることにした。
朝食時に比べれば、時間の幅が大きい分、夜の方が多少はやっかみを向けてくる生徒の数も少ないのだが、ルドルフとしては早く今日のサロンについてを振り返りたい。
かといって食堂でまるで自慢話のように火曜会の話をするわけにもいかないので、朝に続いて夜も自炊することにしたわけであった。
「さて、夕食にしては軽くて申し訳ないですが、突然のことで食材に乏しかったため、パンとシチューにさせていただきました。ただし、複雑味に欠けるという朝食での反省を生かし、シチューの隠し味には生の鯖を使っています」
「待ってくれ。味が隠れていないばかりか、姿すら隠れていないんだが。刺身がシチューの中に突っ込まれているように見えるのは、俺の心が汚れているからか?」
「残念ながら、そのようですね」
私にはちゃんと、魚が隠し味のシチューに見えます。
そう断言すると、ルドルフは「怒っているのか……?」となぜか怯えたような視線を寄越してきたので、ライルは首を傾げた。
「イーヴォなら喜んで食べてくれますけど」
「……彼は、あれで相当君のことを慕っているのだな」
なぜか青褪めてスプーンを握り締めるルドルフを、ライルは不思議な思いで見守った。
ライルは大抵、食事時には考え事をしているか眠気と戦っている。そして、その二つをしていると食事の味などどうでもよくなってくるのだ。
とはいえ主人が朝食に不服そうだったから改善を試みたというのに、それでも満足しないとは、これは意外に気難しいタイプの人物だったのかもしれないと、内心でルドルフへの認識を改めた。
「……なあ、ライル。君はどうして、さっきサロンで難しい顔をしていたんだ?」
「食事中に話し掛けてくるなど珍しいですね」
基本的にルドルフはマナーに忠実な少年なので、特にスープの類を口にする時は無駄口など叩かない。
純粋に疑問に思って首を傾げると、
「……何か他のことを考えないと、立ち向かえないような巨悪と戦っているんだ」
彼が引き攣った顔で答えるので、ライルはまじまじと目の前の皿を見つめた。
「巨悪?」
「無自覚か」
もはや彼はシチューを諦めて、パンに手を伸ばしはじめた。
ライルは実に無頓着にスプーンを操りながら、「そうですねえ」と答えとなる言葉を集めはじめる。
いつでも貪欲に知ろうとする生徒を持つと、誰だって浮き浮きと教師役を務めたくなるものだ。
「ルドルフさんは、なぜ彼女があの絵を選んだのだと思いますか?」
「水瓶を持つ少女の絵だろう?」
パンを丁寧に咀嚼してから、ルドルフは明快に答えた。
「他のどれよりも美しかったからではないのか」
「美しい。たしかに。他には?」
「他……というと?」
青灰色の瞳が怪訝そうに揺れる。ライルは問いを補足した。
「お題は、『最もイサベル様にふさわしい美術品』というものだったはずです。あの絵の何が、どう、彼女にふさわしかったのでしょう」
下品に片肘をつき、持っていたスプーンをぶらぶらとさせるライルに、ルドルフは眉を寄せた。
「それは……明らかだろう。あの美しい少女の顔や、立ち姿、可憐な薔薇の花や清々しい水だって、全て麗しいイサベル様を賛美するようなものだろう」
話しながら、ルドルフは連日繰り広げられている美術講義の内容を思い出したらしい。心なしか得意げな表情になって続けた。
「確か、薔薇は幸福、白い服は純潔の象徴だ。そうだろう? だとしたら、令嬢であるイサベル様を讃えるのにこれほどふさわしい絵画はない」
ライルはスプーンをぶらつかせていた手を止め、頬杖をついたままちらりとルドルフを見遣った。
「半分正解、けれど半分は不正解です」
「なんだと?」
「確かに薔薇は幸福の象徴。ですが、描かれていたのは野薔薇です。それが表すのは、『はかない幸福』。また、白い衣服は少女の全てを覆わずに、体の中でも一際細い手首と、薄い肩を剥き出しにしていました。彼女の白い肌を、はだけさせてね」
さらには、と、ライルはとうとうスプーンを卓に伏せた。
「水瓶は、ひび割れていた」
「水瓶?」
描かれていた内容を思い出すように、ルドルフが目を細めた。
「生命を繋ぐ水、その水で満たされた水瓶は、女性の子宮の象徴です。それにひびが入っているというのがどういう意味か、わかりますね?」
「まさか……」
ルドルフが呆然とした様子で呟く。ライルは一つ頷いた。
「少女が手にしていた野薔薇が、一部花弁を散らしていたのに気付きましたか? 彼女の黒目がちな瞳は、けして無垢に潤んでいるのではない、傷つき呆然としているんです。あれが美と純潔を表す絵だなんてとんでもない」
あれは、貞操を奪われた、とびきり美しい悲劇の瞬間ですよ――
ライルがそう告げた瞬間、ルドルフは勢いよく立ち上がった。
「なんてことだ」
「そう、なんてことでしょうね」
「あの絵を持ってきた彼は、その寓意を知ってのことなのか!?」
血相を変えて尋ねる主人に、ライルはのんびりと視線を巡らせた。
一瞬見て取れた、厭らしい欲望にまみれた、瞳。
「……まあ、知っているでしょうね」
「大変じゃないか!」
パンを投げ出し、今にも食卓から走り去らんとしそうなルドルフに、ライルはいぶかしげな顔をした。
「なんでそこであなたが慌てるんです? まさか助けに行こうとでも?」
「当たり前だろう!イサベル様は今頃彼を迎え入れて、二人で茶を飲もうとしているんだぞ? 何かの間違いがあったらどうするんだ!」
「はは、間違いですか」
思わず噴き出しそうになってしまったのは、事実ルドルフの発想が面白かったからだ。
だが、それをどう捉えたものか、ルドルフはきっとライルを睨みつけてきた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるんだ。というか、どうしてそんな大事なことを早く教えてくれなかった。イサベル様が危ないかもしれないんだぞ!?」
「……逆に気になるんですが、ルドルフさんこそ、いつの間にそんなにイサベル様の騎士みたいになってるんです?」
純粋な疑問は、
「彼女は、学院での俺を初めて認めてくれた恩人だ! 第一、女性がそんな目に遭うかもしれないとわかっていて放っておくなど、男のすることではない!」
至極真っ当な答えで返された。
ついつい下町などで汚泥にまみれていると忘れがちになるが、なるほど、本来女性とは慎み深く男性にかしづき、代わりに大切に庇護されるべき存在なのである。
「……まあ、イサベル様のことなら、そんなに心配しなくて大丈夫だと思うんですけれどねえ。どちらかといえば、彼女は守られるべきお姫様というより、毒婦といいますか――」
「ライル!」
ぶつぶつと呟いていると、ルドルフが真剣な声音で叫んだ。
「見損なったぞ。赤毛の女性は魔性であると、俗信を掲げる気か。彼女は毒婦などではない、貴族庶民に分け隔てなく接してくれる、理知的な、守られてしかるべき女性だ」
「いえ、毒婦というのはですね――」
ライルは続けようとしたが、ルドルフが「もういい」と席を立ってしまったため、叶わなかった。
「俺は行く」
そう宣言すると、よほど頭に血が上っているのか、壁に立てかけてあった鍛練用の剣を持って走り出してしまったのである。
「ちょ、学院内で流血沙汰とか――!」
慌ててライルも立ち上がったが、もう遅い。
無駄に行動力のある彼は、制止する間もなく部屋を飛び出してしまった。
「……ったく、これだから思春期の男っていうのは……!」
ライルが悪態を吐いたのも仕方のないことだろう。
真面目な人間ほど、頭に血が上ると何をしでかすか分からないものである。
体力にさほど自信のあるわけではないライルは、「ああ……もう……」と弱々しいぼやきを漏らして、やる気なくルドルフを追いかけはじめた。
***
幸いと言おうか当然と言おうか、ルドルフのことはすぐに見つけることができた。
「何してるんです?」
本当は聞かなくてもわかる。
彼は暗い廊下から、僅かに光の漏れるサロンの扉にべったりと耳をくっつけて、中の様子を窺っていた。
勢い込んで駆けつけたはいいが、ここに来て絵の解釈だけではサロンに踏み込む理由にはならないと思い至ったのだろう。
「……君には関係ない」
そして彼は、拗ねてもいるようだった。
ライルは溜息をつき、巨大な扉の前に佇むルドルフに並んで、あるものを差し出した。
「ほら。あなたもどうぞ」
先程まで二人が使っていたコップである。
「……なんでこんなものを持って来たんだ」
「盗み聞きの古典的な手法です」
しれっと言い切り、コップを扉に押し付けて耳を澄ませる。
ルドルフは複雑な顔をしていたが、ややあって同じように耳を押し当てはじめた。
「――……うぞ。……摘みの茶葉ですわ」
「――……がとうございます。……ベル様に……らえるなど、この上ない栄誉です」
「まあ、……なこと」
漏れ聞こえる会話から判断する限りでは、二人は至極穏やかにお茶を楽しんでいるらしい。
暖炉が焚かれているのであろうサロン内とは異なり、燭台もない廊下は暗いし寒い。ヴェレスの秋は冷えるのだ。
ライルはぶるっと身震いし、
「なんかほら、全然大丈夫そうじゃないですか。帰りません?」
と小声で提案してみたが、ルドルフは「いや」と静かに首を振るだけだった。
「男なら、女性と二人きりになるときは扉を開け放しておくべきだ。彼も貴族の息子だろうに、市民の俺でもわかるマナーを実践しないというのはおかしい」
「……いやだって、それは暖房効率が悪いでしょうし」
ぼそっとした反論は取り合ってもらえなかった。
「……れにしても、あの絵。……うやって……に入れたのです? あれは王都美術館に……蔵されているものでしょう」
「実は、父が……省に少しばかり顔のきく役人でして。ちょうど画家本人のギャ……に返却されるところを、少しだけ……てもらったのです」
二人の遣り取りを聞いていたルドルフが小声で囁いた。
「……なんだ。本当に穏やかだな」
「何言ってるんですか、不穏極まりないですよ。一役人の顔利きで大切な絵画が一瞬とはいえ流通経路から外れるなんて、この国の管理体制はどうなっているのだか。芸術の都が聞いて呆れる!」
今度はライルがいきり立った。
個人的には、イサベルの安全云々よりも、絵画を侮辱するような職業倫理の逸脱の方が大問題である――贋作屋のくせに。
イサベルは何を思ったか、
「まあ……。わたくしの……めに、犯罪まがいのことをしてまで……?」
おっとりと聞き返している。
そうだ、その犯罪部分の聴取をぜひ詳しく、と思ってコップに添えた手に力を込めた時、雲行きが徐々に怪しくなってきた。
「その通りです。……ぜなら私は、あの絵を一目見た時から、……なたに捧げたくて仕方なかった。はかなく野薔薇を散らされる、哀れな少女の絵をね……!」
「何を……!」
がたっと物音がする。青年が立ち上がったのだろう。
「あなたは花だ、麗しい花。花は男を選んだりしてはならない。男が花を愛で、――そして手折るのだ……!」
カシャンッ、と陶磁器の割れる音。
それが響き終えるか終えない内に、既にルドルフは立ち上がり、勢いよく扉を開け放っていた。
「ちょ……っ!」
少年の無謀な突進に、驚き、制止しようとし、諦め。
わずか一瞬の内に素早く思考を巡らせたライルは、半ばやけくそになって自らも立ち上がった。
そしてライルも、守るべき者のもとに駆け付けたのだ。
ただし。
ルドルフが一直線にイサベルに向かって走り寄ったのとは対照的に、ライルが向かったのは青年の元だった。
――ガッ……!
「きゃあ!」
果たして、絹を裂くかの悲鳴を上げたのはイサベルだった。
しかしそれは、彼女が攻撃を受けたからではない。
彼女がルドルフに突進されたことによりバランスを崩し、意図しない人物に手の甲をぶつけてしまったからだった。
「……っつ!」
その人物とは、誰あろう、やむをえず青年の前に立ちはだかったライルである。
咄嗟に顔を庇うようにして突き出した腕、その剥き出しであった手首の辺りに、つっと一筋ひっかき傷ができていた。
――爪や指輪ではない。もっと鋭利な金属で、引っ掻かれた傷である。
「あなた方……ルドルフに、ライル!? なぜここに……!」
二人の姿を認めたイサベルが蒼白になって叫んだ。
美しい目を見開き、そして、自らの左手に嵌まった指輪を押さえている。
その指輪の宝石部分は蓋のようにして外れ、剥き出しになった台座からは小さな針が覗いていた。
「ひ……っ! ま、まさか、シュタウディンガーの毒針……!」
ライルの背後にいた青年が情けない悲鳴を上げて、あっという間にサロンを飛び出していった。
先程までか弱き女性を手篭めにしようとしていた男とは思えない、天晴れな逃走っぷりである。
でも意外に、ああいった逃げ足の速い小悪党の方が、のさばるし生き永らえもするんだよなと冷静な感想をライルが抱いていると、ルドルフが戸惑いの声を上げた。
「ラ、ライル、大丈夫か……? イサベル様、その針は……」
その呼び掛けではっと我に返ったように、イサベルは覆いかぶさっていたルドルフの腕を振り払い、ライルの両肩を掴んだ。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫!? まさかあなた方がここに来るなど思ってもいなかったから……!」
「思ってもいなかったから、シュタウディンガー家のお家芸、毒を塗った針で青年をこらしめようとしていた、と」
「毒だって!?」
ルドルフはぎょっとしているが、シュタウディンガー家がその美貌と毒をもって、デンブルク王国の後宮を一時期支配してきたことは、つとに知られた話だ。
「イサベル様! 彼に毒を仕掛けたのですか!」
「彼にというか、あの不届きの輩を狙っていたのだけれど……。ああ、そんなこと言っている場合ではないわね、しっかり針が届いてしまっている!」
「どの程度の毒性のものを塗ったのですか!?」
さすが医者の息子だけあって、質問の仕方が的確だ。
イサベルは顔を引き攣らせながら、
「じっくりいたぶろうと思っていたから、痺れ薬を少々……。後遺症は残らないタイプだし、程度も軽い方だけれど、その……」
彼女の言葉の続きは、誰よりライルが理解できた。
「即効性、とひう、わけ、れす、ね……」
早くも全身が震えてきて、呂律も回らない。
「ライル!」
「ああ、どうしましょう、しっかりして、ライル!」
がくっとその場に膝をついたライルを、二人が真っ青な顔で覗き込んでくる。
ライルは見事貧乏くじを引き当ててしまった己の不運を呪いながら、冷静に状況を判断した。
「イサベル……様。解毒、薬を……。自分れ、対処……」
「馬鹿を言うな! すぐに医務室に運ぶぞ!」
「絶対ひや、れす」
そこは断固として断る。衆人環視で肌など晒されたら、最悪の未来しか描けなかった。
だがルドルフが「何を言ってるんだ!」と心底心配そうに怒っているので、仕方なくそれっぽい理由を拵えることにする。
真面目なルドルフも、意外に人情派のイサベルも自分を放置してくれるような理由――。
「ええと。体中、醜い、傷があひます……。見せたく、らい……」
二人がはっと息を飲む気配がした。
だめだ、もう「気配」しか感じ取れない。
「自分れ、対処、ひます……。どうか……」
耳鳴りがする。視界が歪み、狭まっていく。
やはり鬼門でしかない火曜会に、心の中で盛大に悪態をつきつつ、
「どう、か……」
ライルは意識を失った。