6.唖者の塔
ライルたちの朝は早い。
まだ太陽が昇りはじめない内から起き出し、ルドルフは朝の鍛錬へ向かう。
その間ライルも「身支度」を整え、備え付けのキッチンで簡単な朝食を用意して、鍛錬の汗を流して着替えを済ませるルドルフに呼び掛けるのだ。
「おはようございます、ルドルフさん。おっと、今日ももうお着替えはお済みでしたか。まいったなあ、従者の仕事が無くなってしまいますよ、困った困った」
「……そんな満面の笑みで言われてもな」
従者として仕えはじめた一週間というもの、一度だって着替えの手伝いなどしたことのないライルに、ルドルフは丁寧に突っ込みをくれた。真面目なやつである。
彼は、ライルを従者として取りたてた割には、一切その手を借りようとはしなかった。
朝は体を鍛え、残り時間で予習し、授業は真剣に聞いたうえで帰宅早々復習を始める。
掻き込むように夕食を取った後は再び剣の自主稽古と、ひとりストイックに、己を磨き続けているのである。
ルドルフがそのような人間であったおかげで、ライルは時折思い出したように手伝いをするだけで、従者の仕事を全うできていた。
そう、基本的にライルは身支度の手伝いも下手なら掃除も下手、自分の興味のあることだけは徹底的にこなすものの、他は一切手を付けないという、従者としては致命的な欠点の持ち主なのである。
「さて、今朝は豚のトマト煮込みにしてみました。どうぞ召し上がれ」
「……煮込みの定義が問われるな。思い切り、豚!トマト!といった感じで、一向に混ざり合っていないのだが」
もちろん料理だって下手だ。
彩りは美しいし、気分の乗った時には素晴らしく旨い料理も作れるのだが、ライルの食欲は大抵睡眠欲により虐げられているため、そのような奇跡はなかなか起こらない。
少なくともこの一週間、ライルがまともな朝食を提供してみせたことはなかった。
「……やはり、明日からは朝食も俺が作ろう」
「いえいえ、それはさすがに。というか、え? 駄目ですか、この朝食? きれいでしょう? イーヴォなんて喜んで食べてましたけど」
「イーヴォは、そういった忍耐強さを褒められてしかるべき人物なのだな」
微妙な口調で従業員を褒められたが、ライルはそれをさらりと聞き流した。
「というか、食堂があるんですから、そちらで食べればいいじゃないですか。食堂は無料のくせに、食材の購入はただじゃないんでしょう? 経済的にも時間的にも、そちらの方が絶対に合理的です」
「わかっている。――だが、俺はまだ耐えられるとしても、君が食べられなくなるだろう」
ルドルフが言いにくそうにしているのは、二人が初日に食堂に赴いた時、周囲から一斉にやっかみと非難を受けたからだった。
理由は単純。医者の息子とはいえ――道理で金持ちのはずだとライルは思った――庶民出の新入生が、しかも下町のぽっと出の少年と共に、火曜会への入会を許されたことで、イサベルに憧れる男子生徒が怒りを滾らせたからだ。
「人に向かって卵を投げつけるとは……同じスラウゼンの学生として詫びる。申し訳なかった」
自分だって被害者のくせに、神妙な面持ちで謝罪を寄越して来るルドルフに、ライルは僅かに口をすぼめた。
悪態を軽口で躱すのは得意だが、面と向かって謝られると、どうしたらいいかわからなくなる。
ちなみに、投げつけられた卵は、ルドルフがすかさず腕を伸ばして身代わりとなってくれた。
しっかり卵を浴びて反撃の口実を作ったうえで、完膚なきまでに相手を叩きのめそうとしていたライルとは、やはりお育ちが違うのだ。
――というか、主人に庇われる従者など、いよいよもって役割を果たしていない。
「そんなこと言わないでくださいよ。朝から始める卵投げ習慣、イン・スラウゼン。健康的な響きで楽しそうじゃないですか」
「卵投げはスポーツではない」
せっかくのフォローに水を差されて、ライルは肩を竦めた。こういうのは得意ではないのだ。
「それに、あなたをやっかんでいるのが男子生徒、それも貴族の一部だけっていう時点で奇跡的です。ルドルフさんの人徳ですね。これが仮に、主席でも金持ちでもない、中途半端な下級貴族の女の子とかだったら、火曜会の男子メンバーに憧れる女性陣と、コンプレックスを持て余した市民生徒がもれなく敵に回って、陰口に所持品隠匿、精神攻撃に、はては純潔まで狙われて大変なことになるところでした」
「……慰めてくれるのはありがたいが、妙にえぐい想像をするのはやめてくれるか」
想像ではなく事実なのだが、それを説明する必要はないだろう。
ライルは「すみませんね、どうも性格で」と軽く詫びを入れ、豚の味しかしない豚肉を口に放り込んだ。
食事を終えると、登校までの小一時間は学習に充てられる。ライルが唯一従者として輝ける瞬間だ。
ルドルフのたっての要望で、ここ一週間、ライルは彼に美術の手ほどきを行っていた。
「――というわけで、グレッツナーの登場を以って、それまで聖書の表現の一つでしかなかった絵画に、人間讃歌という側面が立ち現れるわけです。白や金といった無機的な色で表されることの多い天使や聖霊に対して、特徴的なこの薔薇色は、人間と生の喜びを讃える色というわけですね」
「なるほど」
手ほどきといっても、教科書を用いて体系的な講義をするわけでも、キャンバスの前で実践的な指導をするわけでもない。
ライルが持ち込んだぼろぼろの画集を一枚ずつめくり、絵画にちなんだエピソードを一つ一つ解説するくらいのものだった。
しかしルドルフはよほど優秀な頭脳の持ち主らしく、聞いた内容は一度で把握し、かつ有機的にそれらを繋ぎ合わせることに長けていた。
「遠近法が登場したのと同じ時代だな。神の視点から人間の視点に置き換わっていったというわけか」
「――その通りです」
優秀な生徒を前に、大好きな分野の話をするのは、誰だって楽しい。
無意識に緩みそうになる頬を意識して引き締めながら、ライルはふと思い付いた疑問をぶつけてみた。
「ルドルフさん。あなたがそれだけ勤勉に、かつ貪欲に美術のことを解そうとするのであれば、別に私にこんな風に教わらなくとも、サロンで可愛がってもらえるのではありませんか?」
「え?」
「会の主催者である他の二人は、確かに男性には塩対応ですけど、あなたの大好きなイサベル様は、その点、やる気のある人物には分け隔てなく接してくれますよ――あくまで予想ですけど」
誰かに肩入れしはじめると、途端に保身が疎かになってしまう。
苦心して語尾を調整すると、しかしルドルフはそれには気付かない様子で、ただじっと口を引き結んでいた。
「……いや」
やがて、持っていたペンとメモを置き、答える。
「それでは、駄目だ。俺はなるべくなら、栄えあるメンバーと遜色ない状態で、火曜会に加わりたい。クレンペラー家は格こそ低いが、だからこそ他の全ての点で、他者に引けを取らない状態を目指したいんだ」
出た、とライルは思った。
遜色ない、引けを取らない、全ての点で。
ここ一週間、何かにつけ彼が口にするその言葉は、つまり「完璧でありたい」という意味だ。
「充分だと思いますけどねえ。あなたは財力にも精悍な顔立ちにも優秀な頭脳にも恵まれ、ついでに肉体を鍛え、美術センスまでをも磨こうとするひたむきな努力の精神がある。これ以上どうしろと、という感じがしますが」
「買い被りだ」
ルドルフは自嘲的な笑みを浮かべると、自らの髪に手をやった。
「……俺は生まれついての落伍者だ」
「はい?」
突然の大胆な自己否定にライルが眉を寄せると、ルドルフは何か悩むように言い淀み、やがてぽつぽつと言葉を選びながら語りだした。
「――君は知らないかもしれないが、クレンペラー家は、この界隈でそこそこ名の知れた医者の一家だ。親族は何かしら医療業に従事し、かつ……市民ではあるものの、王族や上級貴族に多い、金髪碧眼であることを誇りにしている」
ライルは「はあ?」とのけぞりそうになった。
職業を誇るのはまだしも、髪や目の色を同列に賛美条件に掲げるとはこれいかに。
怪訝な表情を隠しもしないライルを見て、ルドルフは苦笑した。
「傍から見たら滑稽に思えるのかもしれない。だが、一族は本気なんだ。神の光を頭上に戴き、慈愛の色の瞳を患者に向けるからこそ、クレンペラー家の医師は腕がいいと、そう信じている」
「…………」
多くの肖像画が、似たような理由で、髪色や瞳の色、時に肌の色まで捏造して描かれてきたことを知っているライルは、ただ押し黙った。
ルドルフは、手にしていた青いインクのペンを見つめる。
「そんな中、俺は母方の祖父の――時計職人の祖父だが――彼の色を引き継ぎ、黒髪に青灰色の瞳で生まれた。しかも、『椿知らず』だ。内臓と血の色である濃い赤を識別しにくいこの目では、ろくに手術もままならないと、両親にそう言われてきた。一家に相応しい者と認められたくば、髪と瞳の色を変えるか、よほどの成果を示してみせよ、とも」
道理で、あまり俗事には囚われなそうな彼が、火曜会への入会などを熱望するわけである。
そしてまた、以前に「椿知らず」を指摘したとき、彼が警戒の表情を浮かべた理由を悟り、ライルは自らの不用意な発言と、何よりこの優しい少年にふさわしくない傲慢な両親を呪った。
「……人のご両親を悪く言える立場じゃありませんけど、社会という土壌を豊かに耕す堆肥のような方々ですね」
つまりは社会のゴミかクソだと言いたい。
遠回しな罵詈雑言をきちんと理解したらしいルドルフは、さも意外だと言うように目を見開いた。
「驚いたな」
「何がです?」
「いや。医者という立場にある両親をそんな風に悪し様に言う人はいなかったし、なんだろう……君がその、慰めのような言葉を口にするとは思わなかった」
かなり悪い方向に認識されていたような人物像に、ライルとしては異議申し立てをしたくなったが、その代わりにぺらりと画集のあるページをめくった。
「知っていますか、この絵?」
指し示したのは、天を貫かんばかりの巨大な塔が、荒天のもと崩落する絵だ。聖書の一節をモチーフとした宗教画である。
ここ一週間で一通りの絵画と作者の名前を叩きこまれたルドルフは、急に変わった話に首を傾げながらも素早く正解を口にしてみせた。
「『唖者の塔』だな。たしか……九○二年、ビットナーの作品だ」
「ご名答。では、この絵は何を語っているのだと思います?」
質問を重ねられたルドルフは、少しの逡巡のうえ、答えた。
「聖書の教えの通りだ。過ぎた傲慢は、報いを受ける。神の住まう天にも届く塔を建てようとした人間たちが、その塔を壊されてしまったように」
そう、と頷きながら、ライルは塔の絵に視線を走らせた。
螺旋を描くようにしながら天を目指す、赤茶けた塔。
画面上から走る鋭い稲妻を受け、まるで破れた腹から内臓を晒すように、建物の内部を露呈させている。
そこからは、まるでぼろ布のように地上へ投げ出されている者たちの姿もあった。
手前には、ぎょっと目を剥き振り返る人々。
恐らくつい直前まで、塔に積むための煉瓦を焼き出していた彼らは、ある者は驚愕に両手を上げ、またある者は困惑の眼差しを天に向けている。
その内の一人が隣人に向かって怪訝な顔で耳を澄ませているのは、つい先ほどまで理解できていた相手の言葉が、急に聞き取れなくなってしまったためだろう。
そう、意思疎通ができたばかりに、共謀して神をも恐れぬ不遜の塔を立てた人間たちから、怒れる神は言語を取りあげてしまったのだ。
「通常、この唖者の塔は、その高さが人間の強欲と傲慢の象徴であるとして語られます。分を弁えず、天まで届く高みを目指したのが罪であると」
「通常、ということは、違う解釈もあるのか?」
ライルは頷き、そっと塔の一部を指差した。
「この塔、何でできているか分かります?」
「何って、赤茶けた……煉瓦か?」
「その通りです」
疑問符を浮かべたままのルドルフに、ライルは「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と聖書の一節を口にした。
「人々は、同じ言語を用いながら計画を練り、石ではなく煉瓦を、漆喰ではなく瀝青を使って塔を建てました。これは、当時の彼らの最先端技術というわけです。自然のままのものではなく、加工物、技術でもって、不遜の塔を建てようとしたわけですね」
「自然のままのものではなく……」
ルドルフがぽつりと呟く。意図を汲み取ってくれつつあることを察して、ライルは再度頷いた。
「石も、瞳の色も、自然の理に定められた運命です。私たちにはそれを変えることも、否定することもできない。できるのは、ただ与えられた石を、与えられた体で、粛々と積み上げていくことだけ。もし彼らがただ純粋に神を讃えるために、自然の理に逆らわず石を積み上げていただけなら、神罰の雷は落ちなかったのではないか、と、そういう解釈とも言えますね」
「…………」
黙り込んだルドルフをよそに、ライルはぱたんと画集を閉じて片付けはじめた。
「あなたのご両親は、石を否定し、無邪気に煉瓦と瀝青を持ち出す唖者の塔の建造者ですよ。建てる塔が立派であればあるほど、やがては崩されることでしょう」
ただし、と呟き、ライルはルドルフの指を取った。
年齢に見合わぬ過酷な鍛錬により皮膚が破れ、長時間ペンを握っていることによりたこができた指を。
「体が悲鳴を上げているにも関わらず、愚直に高みを目指すあなただって、やはり塔の建造者です。完璧なんて、そうそう目指すものではありませんよ」
気まずげに視線を逸らし、手を引っ込めた彼を、ライルは特に追い掛けはしなかった。
ひょいと肩を竦め、
「余談ですが、東の大陸では逆柱といって、あえて建造物を未完のままにすることがあるそうですよ。建物は完成と同時に崩壊が始まる、とのことでね」
と付け足してみる。
個人的には、最先端技術を用いて勤勉かつ傲慢に塔の完成を目指す在り方よりも、謙虚の名のもとに美学として手抜きをする価値観の方が遥かに好きだった。
「あなたの髪と瞳の色も、椿知らずも、あなたという人間を崩壊させないための逆柱。私ならそうやって片付けてしまいますけどね」
ルドルフは何も言わない。ただ、視線を揺らしながら、こちらを見た。
「さて、無駄話をしている間に登校時間です。今日も元気に行ってらっしゃいませ」
「ライル」
「なんですか?」
立ち上がりかけたところに、ぽつりと名を呼ばれ、ライルは首だけを向け振り返った。
「――今日は火曜だ。放課後迎えに行くから、部屋で待機していてくれ」
「……うえ」
そういうことは忘れてくれないらしい。
いよいよライルに真に求められてきた、火曜会への参加業務が迫っていることを認識し、ライルは遠い目をした。