5.月下の懺悔
笑う猫の瞳のような下弦の月が、あえかな光を地上に投げかけていた。
窓から差し込む青褪めた月光が、白磁のように滑らかな頬の上を滑る。
大きく取られた窓の枠に肘をついて、彼女はぼんやりと学院の中庭を見下ろしていた。
「どうしたんだ、イサベル。明かりもつけないで」
ふと背後から声が掛かる。わずかに掠れた、色気を含んだ男の声だ。
彼女――イサベル・フォン・シュタウディンガーが琥珀のような瞳だけを動かすと、視線の先には、白い制服を緩く着崩した男子生徒が立っていた。
「サミュエル……」
「それに寒いな。暖炉の火を入れさせろよ。居心地が悪い客間なんてサロンじゃないね」
呆れたように軽く肩を竦めると、彼は長い脚を気だるげに動かして、暖炉の前に屈みこんだ。
細く長い、しかし男性らしい指を器用に使い、手慣れた仕草で暖炉の火を起こす。
立ち上りはじめた炎を映した瞳は、金色にも見える鳶色だった。
長めの明るい茶色の髪に、しなやかな体つき。すっと通った鼻筋や切れ長の瞳が特徴的な、美しい顔立ちをした彼は、高貴な獣のようだ。
名を、サミュエル・ツー・アルテンベルク。
格式高き侯爵家の次男にして、美術サロン「火曜会」の主要メンバーの一人である。
「そういや、どうだった? 今日の『新入り試し』。いとも麗しきイサベル様の、お眼鏡に適う新入りはいたか?」
「いたわ」
「そりゃ残念。まあそう簡単に――なんだって?」
てっきりいないものだろうと適当に相槌を打っていたサミュエルが、ぱっと顔を上げる。
幼馴染の珍しくあどけない表情を見て、イサベルは艶やかな唇をふと綻ばせた。
「いたわ。二人もね。サミュエルやジークハルト、あなた達が堂々と会のイベントをすっぽかしてくれている間にね」
「そんな言い方をしなくても。俺は俺で、この火曜に相応しく、女性の柔肌という芸術を堪能してきただけさ」
事もなげに答える彼は、今日も女子生徒とお楽しみだったらしい。
いや、彼のことだから花街にでも赴いたのだろうか。
イサベルは思春期の女性に相応しい慎みをもって、冷やかな軽蔑の視線をサミュエルに向けた。
「火遊びが過ぎるのではなくて? わたくしたちは学生、そしてあなたはアルテンベルク侯爵家のご令息。無用な諍いの種を撒くのはよした方がいいわ」
「わお、イサベル様が『種を撒く』だなんて、はしたない」
サミュエルのおどけた物言いに、イサベルはきっと眼光を鋭くした。
「サミュエル!」
侯爵家と伯爵家なら身分的にはイサベルの方が下だが、シュタウディンガー家は時の王妃すら輩出してきた有力な一家である。
特徴的な赤毛を炎のようにまとわせ、強くこちらを睨みつけてくるイサベルに、サミュエルは「怖い怖い」と肩を竦め、早々に話題を戻すことにした。
「それで? 今度我らが火曜会に加わるのはどんな奴なんだ。男か? それともかわいい女の子?」
「あなたにとっては残念ながら、男性よ。そうね、少年と言っていいわ。一人はスラウゼンの新入生で、たしか街医者の息子。もう一人は、その友人で、下町出身の見習い絵師よ」
「庶民出の学生に、学生ですらない下町の男の子だって? そりゃまた、酔狂な」
サミュエルが驚いたのも無理はない。
火曜会は、サミュエルたち――学院の中でもかなり上位の貴族である三人によって作られたサロン。
いくら口では「学生以外にも門戸を開く」とは言っても、これまで市民出の学生が実際に会に加わったことすらなかったのだから。
「くじ引きだのダーツだのでメンバーを決めることの方が、よほど酔狂だと思うけれど」
「あはは、ジークも俺も、やる気なかったからなあ」
そう、火曜会の新規会員募集は、あまりに志願者が多かったことを受けてなし崩し的に始まったもので、内容は極めてずさんだったのである。
運の賜物としか言いようのない「新入り試し」を突破した他所者が、我が物顔でサロンに出入りすることに怒りを募らせたイサベルが、このたびようやく重い腰を上げたというわけだった。
「で、今回は何を問題にしたんだっけ。色の識別? それって結構差別的だよね。知ってる? 男には結構な確率で色覚異常が発生するんだよ」
サミュエルは態度こそ軽薄だが、その実、貴族として非難されうる要素をさりげなく回避することに長けている。
「知っているし、別にわたくしは色彩センスそのものを求めたわけではないわ。わたくしはただ、『目利きを連れてきてよい』と言った時に、彼らがどんな人物を連れてくるか見たかっただけだもの」
「へえ?」
サミュエルは軽く唇の端を持ち上げる。
彼が物事に興味を示した時の癖だ。
イサベルはすっと窓際から立ち上がり、だいぶ温かくなってきたサロンを見まわした。
彼らが自分たちと、あるもう一人のために設えたその空間は、美しい絵画と繊細な家具で溢れている。
「あなたはご存じよね、女性には簡単に見分けのつく一部の色が、男性には見えにくいって」
「……ああ。彼女が、言ってたからね」
答えるサミュエルの、鳶色の瞳がすっと細められた。
イサベルもまた、大切な誰かをそっと思い出すように、長い睫毛を静かに伏せた。
「――貴族の娘の最大の使命は、家に繁栄をもたらす婚姻を結ぶこと。わたくし達は、純潔と容貌を値札として下げた商品でしかない。口でどれだけわたくし達のことを持て囃そうと、所詮男性たちは、心の底ではわたくし達女性を下に見て、値踏みするのだわ。この商品が、自分にふさわしい持ち物かどうかと。ただ、わたくし達が女であるというだけで!……その傲慢さは、いかに教養高さを掲げたヴェレスの民でも、スラウゼンの学生でも、同じこと」
自嘲するように話しはじめたイサベルに、サミュエルは何も言わなかった。
なぜなら彼は知っていたからだ。
この美しき伯爵令嬢に触れよう、近づこうと、欲を募らせた無数の男たちが手を伸ばしてきたことを。
そしてまた、彼らが実に無邪気に、一人の人間としてではなく、家に囲うべき愛らしい未来の妻としてイサベルを扱い、その誇りを何度も貶めてきたことをも知っていた。
けれど、とイサベルは呟いた。
その琥珀色の瞳には、愉快でたまらないとでもいうような光が宿っていた。
「けれど、かつて彼女は教えてくれたわ。男性には見えない色が、わたくし達には見えるのだと。――男性の知らない世界を、わたくし達は知っている。知ることができる。ただ、わたくし達が女であるというだけで、ね」
彼女は、きれいに紅を刷いた唇を笑みの形に持ち上げた。
「今回の新入り試しに、化粧師の目利きなんて必要なかった。もし彼らが、恋人でも母親でもいい、女性に一言相談していたなら、きっと彼女たちが簡単に紅を選べたはずだわ。けれど残念なことに、プロの男性以外の目利きを連れてきた志願者はいなかった――その二人を除いてね。まあ、女性単身で臨んだ志願者もいなかった、というのは悲しいことだけれど」
本当は自身の力で紅の色を見極められるのに、それを信じず、化粧師の目利きを連れてきた女性志願者もまた、イサベルの中では失格であった。
「でも、その見習い絵師とやらも男なわけだろ?」
「仕方ないわ。彼には紅の色が見分けられていたようだし、子どもだし、プロではないから、許容範囲というだけ」
彼女は優美な仕草で肩を竦めた。
サミュエルも「ふうん」と頷きながら、ソファの一つにどっかりと腰を下ろす。
「まあいいさ。庶民出の入会なんて、どうせ周囲から潰されるに決まってる。毎週開かれるサロンに、彼らが実際顔を出せる数回? いや、一回がせいぜいかな? それくらいはお付き合いしよう」
事もなげに告げられた内容は、その実酷薄だ。
そう、これだけ熱烈な志願の末に入会を受け入れたにもかかわらず、半期に一度メンバーの見直しを行わなくてはならないのは、周囲の嫉妬と嫌がらせに耐えかねた彼らが、期の半ばで退会してしまうからであった。
「まあ。でも、ジークよりはまだ大人の対応ね。……ジークも、年端も行かない新入生をいじめて追い出すような真似をしなければいいけれど」
「どうだろうねえ」
サミュエルは無造作に組んだ足の上に、気だるげに頬杖をついた。
脳裏に描くのは、ここにはいないもう一人の火曜会メンバー、ジークハルト・フォン・クラルヴァインだ。誰より高貴で、誰より気まぐれで、そして誰より強い情熱を隠していた彼は、今日もサロンには顔を出さなかった。
「あいつは誰より、彼女を忘れられないんだろうから」
「……今日も、探しに?」
「ああ」
問いも答えも、短い。
押し黙った二人の代わりに、ぱちりと暖炉の火が爆ぜた。
「やはりあの時、なんとしてもジークを止めるべきだったのだわ」
「……正論だけど、時間は巻き戻らないさ」
サミュエルの静かな相槌に、イサベルは胸の痛みをこらえるように顔を歪める。
眺めていた窓に再び目をやり、そのガラスに映り込む自分たちの表情の、あまりの暗さに自嘲の笑みを浮かべた。
「彼女が学院を去って、もう一年。なんでもするし、もう欲を掻いたりなどしないから、……どうか、戻ってきてほしいわ」
「…………」
サミュエルもまた、痩せ細った月を見上げ、片頬に静かな笑みを刻んだ。
学院の、いや、社交界の麗華と持て囃されるイサベル。生粋の遊び人として悪名を馳せるサミュエル。そして、典雅の貴公子として憧憬の視線を集めるジークハルト。
常に称賛と熱狂の視線を浴び続け、人を切り捨ててきた側にいた彼らが、親を見失った幼子のように、頑是なく、泣きそうになりながら手を伸ばしていると知ったら、その手の先にいるはずの少女は一体なんと言うだろう。
「――無様だね」
「え?」
怪訝そうな顔で振り返ったイサベルに、サミュエルは「いや」と首を振り、ソファから立ち上がった。
ひとり夜に向かって色を失っていく空に、未練がましくひっかき傷を残すような、月。
「会いたいよ、リインライン――俺達の愛しい、ライラ」
小さな呟きは、暖められたサロンの空気に、溶けるようにして消えた。
***
「――っくしゅん!」
ライルが盛大にくしゃみをすると、ドアの向こうから「大丈夫か?」と生真面目な声が掛かった。
ルドルフである。
すっかり眠ったものとばかり思っていたライルはぱっと顔を上げ、ついでに声も張り上げて、湯船から彼に話しかけた。
「すみません、起こしましたか? てっきりもうお休みのものと」
「いや、夕食後は軽く仮眠を取って、夜に鍛錬をすることにしているんだ。小一時間で戻るから、湯を張ったならそのままにしておいてくれ」
「今からですか?」
寮に辿り着いてからこちら、にわか仕込みの従者の助力などまるで必要とせず、食事し勉強し、挙句トレーニングにまで励もうとするルドルフに、ライルは半ば呆れたような声を上げた。
「ああ。遅くにすまないが、習慣でな。先に寝ていて構わない。君のベッドは先程教えた通り、左側の扉の奥だ」
「どこの世界に主人より先に寝る従者がいるんですか。ものすごく渋々起きときますよ」
眉を顰めながら答えると、「渋々か」と笑う気配がして、ルドルフはそのまま去ってしまった。頑固なほどに真面目な男である。
「……やれやれ」
ライルは湯船につかり直し、両手で前髪を掻き上げた。
と同時に、浴槽の湯が一層黒く濁り、げんなりと息を吐く。
「入れ直さなきゃ……」
恨みがましい呟きと共に、ぴしゃんと指でお湯を跳ねあげた。
まったく、今日という一日は、最後の最後までロクな日じゃない。
「ここに戻ってくるつもりは、なかったんですけどねえ……」
しみじみと嘆息し、ライルは猫足の浴槽から、快適な浴室を見まわした。
庶民出の生徒の部屋に浴室まで付いているのは、破格の待遇だ。
男爵令嬢に割り当てられたものより、よほど部屋数も多いし、調度品の類も高級な物が揃っていたから、もしかしたらルドルフはよほどの成績優秀者か、そうでなければよほどの金持ちのぼんぼんなのかもしれない。
石鹸一つを取ったって、下町で流通している粗悪品とは威力が桁違いだ。
「あーあ、きれいに落としてくれちゃって……」
日焼けを装っていた肌は、石鹸で擦ったところからみるみる真珠のように輝き出し、黒く染めていた髪も、まだらに染め粉が溶けだして、蜂蜜のような金色が見え隠れしはじめてしまった。
ライルはここ一年で徐々に丸みを帯びてきた自らの体を見下ろし、再び溜息をついた。
「そろそろこの擬態も、限界ってことですかね」
――女性と間違えられようもない、実に平凡な少年顔であることは百も承知である。
だって、そう見えるように、顔というキャンバスに盛大にお絵かきしているのだから。
「でも、お風呂って、気持ちいいんですよねえ……」
蜂蜜色の髪に、翡翠の瞳。抜けるような白い肌。
風呂の湯に擬態を解いた可憐な少女――かつてライラと呼ばれていた彼女は、日向ぼっこをする猫のように、そっと目を閉じた。