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4.紅色の依頼(後)

「なあ、ライル。頼む。この通りだ」


 帰りの馬車から下りた後も、ルドルフの懇願は続いていた。


 人が擦れ違うのがやっとという細い裏通りを、ライルは黙々と、ルドルフはしきりと背後から話しかけながら歩く。

 陽が沈みはじめ、影が長く伸びる時間になっていた。


「頼む。俺にはおまえが必要だ」

「――そういう、ご近所さんに妙な誤解を与えそうな言い回しはやめてもらえますか。需要があるとも思えないし」


 何十回目か知れない口説き文句を、ライルはぴしゃりと遮った。


「確かに時計の件では申し訳ないと思っていますよ。でも、今日のこれで依頼は果たした訳ですし、時計もきちんと修理します。明日明後日には学院に付け届けますので、勘弁してください」

「いやしかし、イサベル様は『二人で』と仰ったんだ。他に同期が居るわけでもなし、こんなにも絵心が無い市民出の自分が、一人だけで上級貴族の集うサロンに足を踏み入れるというのはさすがに勇気がいる」

「安心してください。そこに、下層市民の私が加わったところで状況はなんら変わりませんよ」


 ヴェレスは首都とはいえ、裏通りともなれば下町と言ってなんら差し支えない。

 贋作屋などという怪しい店を営むライルは、時計職人や医者など「真っ当な」職業に従事する市民に比べれば、序列はかなり低いと言えた。


「さ、店も見えてまいりましたので。これにて失礼しますよ。送ってもらってありがとうございました」

「待ってくれ」


 ルドルフはすっかり困り顔だ。


「けして君にも悪い話ではないはずだ。君は絵画が好きなんだろう? ライル、君が火曜会に入れば、一流画家との交流も増える。贋作屋などに身をやつさなくても、画壇で活躍する側に回れるかもしれない」

「誰もがそんな勤勉な出世欲を持っていると思わないでください。それから、その会の名前と私の名前を同じ文章内で発音するのは止めてくれますか」

「しかしライル」


 ルドルフはぐっと、ライルの腕を引いた。


 青灰色の瞳が、思いの外真剣な光を宿している。

 その光は、暮れなずむ空の赤よりも、ずっと強い輝きを帯びていた。


「見たところ、君だって俺と同い年くらいだ。言うべきかずっと悩んでいたが――本当なら、学校に通っているべき歳だろう?」

「…………」


 ライルはすっと目を細め、黙り込んだ。


 ヴェレスは学問と芸術の街。

 どれだけ貧しい身の上でも、大抵の子どもたちは学校に、またはそれに準じた教育施設に通うのが普通なのだ。

 小さい内から労働に身を投じるのは、よほど特殊な家系の者か――教育を勧める、親が居ない場合くらいのものである。


 最初ルドルフが、ライルを店主となかなか認めなかったのはそういうわけであった。


「学院外の者が火曜会に入れば、さすがに授業は受けられずとも、構内への自由な出入りが保証される。俺は寮住まいだから、そこに間借りする形であれば、住むこともできるんだ。部屋は、二人は優に住める広さだ。食事だって風呂だって、スラウゼンは無償で提供している」


 ルドルフの視線が、一瞬自らの細い腕や、薄汚れた肌に向けられたことにライルは気付いた。


「……別に、そういうのを偽善だと拒否するほど、小奇麗な性格ではないですけど」


 口の端を持ち上げながら、掴まれた腕を振り払う。


「今のこの生活を、自分はそれなりに気に入っているものでしてね。お気持ちはありがたいですが、お断りしますよ」


 そうして、くるりと踵を返し、目前に迫った店の扉を開けた。


 ――が。


「…………」


 ライルは、一度開けた扉を静かに閉じた。


「ライル?」


 怪訝に思ったらしいルドルフが背後から覗き込む。

 そして、扉に取り付けられた小さな窓越しに店内の光景を認め、ぎょっとしたように目を見開いた。


 ギィ……。


 ややして、扉が内側から開かれる。

 そこには、ドアノブに縋りつくような格好で、巨体を縮こませたイーヴォの姿があった。


「よお、ライ……おかえり!」

「…………」


 しばし、沈黙。


 やがてライルは、妙にきれいな笑みを浮かべて、がたいの大きな従業員に問いかけた。


「―― 一応、納得できそうな理由があるなら、聞きましょうか?」


 隣でなぜか、ルドルフがぶるっと背筋を震わせる。

 イーヴォは「えーと」と視線を泳がせた後、無謀にも上目づかいをした。


「在庫整理をな? しようと思って……」

「へえ。イーヴォの脳内辞書では、在庫整理と破壊活動は同じ意味だったんですか」


 そうして、無感動な視線を店内に走らせた。


 一体何をどうしたらこうなるのか、辛うじてきれいに並べられていたキャンバスや額は大きさもばらばらに床に積み重なり、イーゼルが墓標のように方々に突き刺さっている。

 絵具は飛び散り、インク壺は軌跡を描きながら片隅でひしゃげ、正体のわからない紙の束がそこここに散乱していた。


 ついでに、石造りの壁は何かがぶつかったか爆発でもしたかのように――文具店でいったいなぜ爆発など起こるのだろうか――ところどころ大きく抉れている。


 つまり、大惨事であった。


「……あれほど、手を、触れるな、と」

「いや、その、フリ? フリかと思って……」


 だが、イーヴォの引き起こした惨状の、真の現場はそこではなかった。


「あーっと、君、いえ、あなた様、ルドルフ・クレンペラー様におかれては、ご機嫌麗しく!」


 彼はゴリラのごとき顔を最大限に愛想よく輝かせ、ルドルフに向かって揉み手してみせたのである。


「今、苛々してたりします? お腹空いてたり? 寒くはありませんか? ちょっとね、あの、ぜひこう、他のコンディションは最高の状態に整えていただいたうえで、お聞き願いたいことがありましてですね」


 野太い声を、精いっぱい明るく張り上げる。

 しかし、狭い額には汗が浮かび、視線はそわそわと落ち着かなかった。


 その理由は、彼の分厚い手に乗っているものを見た途端明らかになった。


「こ……れ、は……」

「大っ変申し訳ありませんでしたあ!」


 巨大な掌に乗っていたのは、小ぶりにすら見える懐中時計――だったもの。


 ライルが修理に出すためにとカウンターに置いていた時よりも、更に針はひしゃげ、盤面にはひびが入り、――そして、秒針はうんともすんとも動かなかった。


 イーヴォは両手を差し出したまま、直角に頭を下げた。


「修理に出そうと持ち歩きながら在庫整理してたら、重力の誘いに勝てなかった軟弱なイーゼルがよろめきながら降りかかって来て、この時計の上に直撃しました!」


 なんとか無機物のせいにしようとしているようだが、成功していない。

 それまで黙ってイーヴォの言い分を聞いていたライルは、地を這うような声で彼の名を呼んだ。


「イーヴォ……」

「げっ」


 ごごご、と、まるで聖書に描かれる地獄の業火でも背負っているかのようである。


「あなた、そんなに強い自殺願望を持ってたんですね? 今まで気付かなくて申し訳なかった」


 目には紛れもない殺気が宿っていた。


「悪かったって!ごめん!申し訳ありません!」

「謝る相手が違う!」


 ライルがすかさず一喝すると、イーヴォはくるっと向きを変え、ルドルフの足元に額を擦り付けんばかりに頭を下げた。


「大変申し訳ありませんでした!」


 もはや年上だとか、巨体であることを感じさせない、清々しい程の詫びっぷりだ。


 とはいえ、形見の品をここまで破壊されて「気にしないでください」と鷹揚に返せるほどルドルフも大人ではなく、彼は青褪めた顔のまま、「いや……」と呟き、そのまま固まっただけだった。


「どうしましょうか、イーヴォ。最近オープンした王宮動物園に行って、仲間のゴリラとショーをして日銭を稼ぎますか?」

「いや、あの、自分、人間……」

「それとも最近は輸血技術が確立したそうだから、その無駄に盛んな血気を抜いてもらってお金に替えますか」

「いや、俺、注射はちょっと……」

「はははえり好みしてないでさっさと弁償方法の一つも考えてみましょうか」


 ライルが苛立ちを滲ませたのは、時計の修理が非常に高額なものであるからだ。


 盤面の傷や針の補修くらいなら、手先の器用なライルでもなんとかこなせる。

 しかし、銀細工の冶金や、時計内部の仕掛けの修理となるとお手上げだ。

 それこそ、時計職人に依頼せねばならず――懐中時計なんて高級品を扱う職人に依頼するということはつまり、多大な時間と費用を覚悟せねばならないということだった。


 はあああ、と、ライルは深い溜息をついて天を見上げる。


 しかしやがてゆっくりと頭を振ると、立ち尽くしているルドルフに向き直った。


「クレンペラーさん」


 にこっと、見ようによっては無邪気な笑顔を浮かべる。


「一か月ではいかがですか」

「え……?」


 呆然と呟くルドルフに向かって、ライルはここぞとばかりに言葉の猛攻を掛けた。


「今朝仕上げたばかりの商品の支払いが、恐らく一週間後。そこから時計を修理に出して、治った状態で戻ってくるまで約三週間。その計一か月、私が従者としてあなたに仕えます。寮での身の回りのお世話、家庭教師、御用聞き、なんでもござれですよ。寝かしつけだって任せてください、画集を絵本代わりに読み聞かせて差し上げます。――もちろん、某会への参加も、業務内容に含みます」

「…………!」


 ルドルフの目が俄かに輝いた。


「あーっと……、でも、ライ、悪いのは俺だし、おまえがそんなことする必要は――」

「ああそうですよ。相変わらず悪いのはイーヴォだし、自分から彼らのいる学院に飛び込んでいくなんて馬鹿げてますけど、あらゆる経営者は監督責任っていう軛から逃れられないんでねこんちくしょう!」


 イーヴォがもごもごと反論するが、ライルはすっかりやけくそだ。


 基本的に怠惰な性格ではあるのだが、最低限の責任くらいは果たす――というより、人の皮を被ったゴリラ(イーヴォ)に弁償させようものなら、更なる禍を引き寄せそうな気がしてならなかったのだ。


 例えば、ショーのつもりがとんだ殺戮劇になって来園客にトラウマを植え付けたり、輸血した血が人間の血と混ざり合わなくってその人を死に追いやったり。


 すっかりイーヴォはゴリラの認識で固定されつつあったが、ライルは本気であった。


「俺としてはありがたいが……そんなにこの店を空けていて大丈夫なのか?」

「ご覧の通り、これではしばらくろくに開店なんて出来ません。どうせ、『表』の売上は微々たるものですしね」


 『裏』の仕事もそう頻繁に入るものでなし、一ヶ月程度ならライルは自由に店を離れられるのである。

 本当ならイーヴォと一緒に店をどうにか元に戻すのが先なのだろうが、それを先延ばしにしたくなるくらいには、ライルは事態を億劫がっていたし怒ってもいた。


「心配すんなよ、ライ。それなら俺、その間に店をきれいに片付けておくから……」

「絶対やめてください」


 そうだ、最終的には店の片付けもこのゴリラには任せておけない、と思い至り、ライルは一層げんなりと顔を顰めた。

 一年前にこの亜人類を従業員として雇ったのは自身であったが、ライルは過去に戻れるものなら、イーヴォに誘いを掛ける自分の口を思い切り塞いでやりたかった。


「その憐れにも蹂躙された時計を寄越してくれますか。でもって、こちらは身支度が整い次第出て行くので、イーヴォも自分の家に帰ってください」


 イーヴォは店から数分歩いた古い建屋に、巨体を縮こませるようにして間借りしている。


 店の方がのびのび過ごせるからと、最近では店の奥の居住空間で半ば同居のような状態になっていたのだが、それをそのまま認めるのはさすがに腹の虫が収まらなかった。


「でもよぉ……」


 もはやイーヴォは涙目だ。

 しかし、むくつけき男の泣き落としにもゴリラの涙にも心動かされるタイプではないライルは、


「語尾を伸ばさない」


 それをばっさりと切り捨てた。


 そうして、がれきの山と化した店内を掻き分け掻き分け、必要な道具を適当に布鞄に詰め込み――洗面道具や衣服の類はほんの僅かしかないくせに、画集やスケッチブック、絵具などの画材は溢れるほどだった――、十分と経たぬうちに、再び出発の準備を整えたのである。


「では、よろしくお願いします、クレンペラーさん」

「あ、ああ……ルドルフでいい」


 最後には、被害者であるはずのルドルフの方がたじたじとなって、殺気混じりの笑顔を浮かべているライルを受け入れた。


 先程下りたばかりの馬車に舞い戻り、再び学院の、今度は寮を目指す。


 会話らしい会話すら交わさない二人を、昇りはじめた月が見守っていた。

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