3.紅色の依頼(中)
ルドルフは馬車に揺られながら、「新入り試し」の詳細をライルに説明した。
「今期の志願者は総勢百三十名。前期から、放課後の活動に限って学院外からでも参加できるようになったため、志願者の人数もそれに伴い膨れ上がっている。これまでは、『新入り試し』は火……某会のサロンで行われていたが、さすがに人数が収容できないということで、今回は学院の講堂を貸し切って行われることになった」
「……随分おおごとですね」
窓枠に肘をつき、寝落ちしそうになっていたライルが、ぼそっと相槌を打つ。
自ら頷いたこととはいえ、大嫌いな火曜会のもとに連れて行かれるということで、ライルの機嫌は急降下のち低位安定だった。
というより、眠い。ただひたすらに眠い。
馬車の心地よい振動に意識を持って行かれかけ、がつんと窓枠に額をぶつけたライルに、ルドルフは肩を竦めてから説明を続けた。
「参加者は事前に登録をすることになっていて、俺たちの順番は百十三番目だ。順番が来るまで参加者と随行者は客席で控えていることになっていて、出番が近付いたら、イサベル様たちが待つステージに昇り、袖で待機する。ステージでは紅が数十種類置かれているから、これと同じものを選び出し、彼女に渡す。それで終了だ」
これ、と言って差し出したのは、先程ライルに掲げてみせた紅の内の一つである。
「……それだけですか? 百三十名の中から数名を選び出すオーディションにしては、随分簡単なように思えますが」
「ああ、それについては俺も疑問に思っていた」
ルドルフは顎を撫でながら首を傾げた。
「よほど紅の選別が難しいのかもしれないし、あるいは、渡す時に何らかの問答みたいなものがあって、それが本丸なのかもしれない。――いずれにせよ、俺にとって紅の選別が人一倍難しいことは、変わりないがな」
「…………」
そうまとめるルドルフの口調は、苦々しげだ。
ライルはしばらく彼の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、帆布製の鞄からあるものを取り出し、おもむろにそれを広げはじめた。
「別に、あなただから難問ということではないと思いますよ」
「え?」
ライルが広げてみせたのは、分厚いノートだ。
ぱらぱらとページをめくり、開いた場所には、びっしりと色紙が貼られていた。指の先ほどの大きさの紙が規則正しく並び、淡い桃色から濃い赤、そして紫に至るまでのグラデーションを成している。
「……これは?」
「色のサンプルです。まあ、商売道具の一種と思っていただければ」
ライルはすっと細い指を持ち上げると、並んだ紙の中からとん、とん、と二つの色を指し示した。
「桃色から、淡い紫まで。このグラデーションに収まる色を明確に見分けるのは、多くの男性には難しいと一般的には言われています」
「そうなのか?」
ルドルフはぐいと向かいの席に身を乗り出し、ページを覗き込んだ。
「こっちが桃色で、こっちが紫だろう?」
「スペクトルの両端を比べるのなら、さすがに簡単でしょう。では、この桃色と、すぐ右隣の桃色を比べたら、どうです? 違いがわかりますか?」
ルドルフは眉を寄せて、「あまり俺をいじめないでくれ」と呟いた。違いがさっぱりわからないようである。
「繰り返すようですが、これは椿知らずだから識別しにくいという類の問題ではありません。こちらの桃色の方が、ほんのわずかに紫に近い色味をしているのですが、その色を、多くの男性は識別することが難しいのです」
「そうなのか?」
「まあ、女性の方が識別しやすい、と言った方が正しいのかもしれませんけれどね」
ライルは肩を竦めると、「あくまで諸説ある内の一つですが」と前置きして、続けた。
「女性は、太古より言葉も話せぬ赤子の要求を汲み取り、育て上げてきました。体調の良し悪しなども訴えられない赤ん坊を観察し、その世話をするうちに、彼らの顔色――つまり、桃色から紫のグラデーションですね、それを敏感に見分ける能力が発達したと言われています」
「そうなのか……」
ルドルフは感嘆しきりだ。自分が人と見え方が異なるということは知っていたが、まさか男女でも色の見え方が異なるとは思ってもみなかったらしい。
しかしそこで、彼ははっと顔を上げた。
「では……そんな顔でまさかとは思うが、君は女性だったのか?」
何を思ったか、ライルの日に焼けた以外に特徴のない顔立ちや、膨らみのない体をまじまじと見つめてくる。ライルは笑顔を貼り付けたまま、
「はははあなたって要所要所で失礼極まりない野郎ですね」
若草色の瞳に殺意を滲ませた。女性と間違えられようもない、実に平凡な少年顔であることは百も承知である。
「す……すまない。全ての男性が桃色を見分けられないのでは、化粧師などの職業に男が就けるはずもないな」
ルドルフは短絡的な己の思考を恥じたようだった。
「まあいいですけど」
ライルは手を振ってさっさと話を元に戻した。
「そういうわけで、ことこの問題に対しては、男性諸氏はあなたと同じ状況だと思いますよ。先程の説明によれば、今回の新入り試しはイサベル嬢が主催しているのだとか。であれば志願者は、女性よりも、美女と名高い彼女にすり寄りたい男性の方が多いでしょう。案外、いい勝負になるのかもしれません」
「……だが、それにしては、随行者を認めるというのもおかしな話だ。イサベル様は何をしたいのだろう」
出題の意図が意外にも単純なものではないことにようやく思い至り、ルドルフが眉を寄せる。
しかしライルはあっさりと、
「さあ。それを考えるのは、私の仕事ではございませんので」
と突き放した。
「……それもそうだ」
根が素直であるらしいルドルフは、特に機嫌を損ねることもなく、口を噤んで思索に耽りはじめる。
その姿を横目に見ながら、ライルは再び睡魔との格闘を始めた。
紅を使った新入り試し。
男女で見え方の異なる色。
ただし目利きは連れてきて良い。その素性も問わない。
「――何を考えているのやら」
呟きを飲みこむような振動音を立てて、やがて二人を乗せた馬車は、学院の門をくぐった。
***
スラウゼン学院は、デンブルク王国立国時より残る古城を改修した教育施設だ。
有事には要塞の役割も果たしてきた校舎は、そこここに見張り窓や、物見の尖塔を擁している。
そんな質実剛健な学院の講堂もまた、何百という兵が籠城できそうなほど広く、堅固な作りをしていた。
舞台は天然の岩を削って作った土台に、大理石を埋め込んだ大掛かりなもの。天井は高く、壁は厚く、そこここから重厚な雰囲気が漂っていた。
改修ではめ込まれた薔薇窓といくつかの細長いステンドグラスが、この講堂の唯一の装飾だ。
いや、華やぎという点で言えば、もう一つ。
何百という観客の視線を平然と浴びながら、舞台上で優雅に椅子に掛ける女性がいた。
細いうなじを晒し、燃えるような赤毛を高く結い上げた彼女は、琥珀色の瞳を時折ちらりと方々に動かし、そのたびに周囲の称賛と渇望を舐めとっては、また何事も無かったように扇を弄ぶ。それをただ繰り返していた。
イサベル・フォン・シュタウディンガー。
伯爵令嬢でありながら、その美貌と才覚で侯爵令嬢にも引けを取らない影響力と存在感を持つ、匂い立つような美女である。
彼女はこの日の為に舞台上に設えられた豪華な椅子に、しどけなさまでは行かない絶妙な艶を放ちながら、優雅に腰掛けていた。
「……まるで女王ですね」
こそこそと観客席を移動しながら、ライルは呟く。
すると隣を歩くルドルフも「実際、学院内での彼女はそのようなものだ」と小声で頷いてきた。
当日ぎりぎりになってようやく目利きを確保できた彼だ。二人が辿り着いた時には、もう「新入り試し」は始まっていたのである。
ルドルフの順番がかなり遅いのは幸運だと言えた。
「今は……ちょうど百番目辺りですか。なんだ、すぐに私たちも舞台袖に移動ですね」
「ああ。――……って、なんだそれは」
客席に腰を下ろす間もなく、ライルは番号を確認して呼び掛けたが、ルドルフはそれよりも他のことが気になるようだった。きょとんと首を傾げたまま、じっとこちらの目元を見ている。
どうやら彼は、ライルの目元にいつの間にか出現した泣き黒子に気付いたようだった。
じっと凝視されるのを「付けぼくろですよ」と肩を竦めて躱しつつ、
「挨拶をする時くらいはさすがに帽子を取らなきゃいけないでしょう。その時、ちょっとでも注目が逸れればいいと思いまして」
馬車を降りる直前に、ほんのり人相に手を入れたことを白状した。
黒子や髭などの視線を集める特徴があると、顔の造作そのものが記憶に残りにくいというというのは有名な話である。
「……先程から気にはなっていたんだが、君はなぜそんなに火……某会に近付きたがらないんだ?」
「おや、聞かないのはあなたの配慮かと思っていましたが、単に聞きそびれていただけでしたか」
ライルはすぐに交ぜ返す。それでも相手が聞きたそうにしている気配を感じ取り、
「……私は贋作屋、相手は美術愛好家を気取るサロンです。ちょっとくらい、過去に揉め事があったとしても不思議ではないでしょう?」
適当にそれっぽい言い訳を拵えた。
別に、不思議ではないよねと問い掛けているだけで、特に揉め事があったとも無かったとも言い切っていない。
しかし幸いルドルフはそれで納得してくれたらしく、そうかと頷くと舞台袖に向かい、そこで先行の挑戦者たちの観察を始めた。
審査は思いの外進行が早いようで、十分も経たぬうちに四組が順番を終え、下がっていく。
今もまた、
「――こちらでございましょう」
と、イサベルの前にずらりと並べられた紅を親の仇でも見るかのように検分していた化粧師が、自慢の髭を撫でながらおもむろに一つの容器を指し示した。
すると、その横でイサベルに見とれていた青年――こちらはスラウゼン学院の学生らしい――が我に返ったようにはっと顔を上げる。
彼は媚びるような笑みを浮かべながら、恭しく彼女に容器を差し出した。
「どうぞ、イサベル様。こちらが、あなた様の示されていたものと同じ紅でございます」
「そう」
ワインに垂らす蜂蜜のような、甘く官能的な声が相槌を打つ。
イサベルはその美しい弧を描く眉をぴくりとも動かさず、挑戦者に問うた。
「ねえ、あなた。随分年嵩の――ベテランのお方を連れてこられたのね?」
「はっ。ヴェレス随一を誇る、老舗の化粧師ギルドの中から、今日の日の為に最も腕が良いという化粧師を連れてまいりました」
「そう」
イサベルが扇の中で笑みを浮かべるのと同時に、袖に控えていた二人も顔を見合わせた。
「ヴェレス随一の」「最も腕が良い」化粧師は、二人が袖から聞いているだけでもこれで五人目だ。
さすがに学生の方もその矛盾に気付いているらしく、彼はそれを取り成すためか、卑屈な笑みを浮かべて言葉を重ねた。
「彼は人気の化粧師で、予約も向こう一年は埋まっているという状況でして。ですがそれを、少々無理を言ってこうして来てもらったのです」
「無理」の中には、莫大な手付金や親のコネなども含まれるのだろう。
言外に、自分は火曜会に加わるにふさわしい財力や権力を持っていると、彼はアピールしているわけだった。
「そう」
だが、イサベルの反応はどこまでも素っ気ない。
彼女は「わかったわ。どうもありがとう」と静かに頷き、彼らを早々に下がらせてしまった。道理で進行が早いはずである。
そこからも似たようなやり取りが数回続き、あっという間にルドルフの番が来た。
ルドルフは、ライルに「行こう」と呼び掛け、迷いのない足取りで舞台の中央に進んでいった。
気乗りしないのはライルの方である。
「……気付かれませんように」
「え?」
「ひとりごとです、お気になさらず」
付けぼくろが変わらず目もとに収まっているのを確認し、渋々ステージに歩み出た。
舞台の中央では、イサベルが相変わらず退屈そうに椅子に収まっている。
それでもだらしなく姿勢を崩したりしないあたりは、さすがであった。
「イサベル様におかれては、ご機嫌麗しく。私はこのたび学院に入学を許された、ルドルフ・クレンペラーと申します」
ルドルフは意外にもこういった場所での度胸はあるのか、折り目正しい挙措でイサベルに礼を寄こしている。
黒子にすぎないライルは帽子を取って同時に礼をし、再び目深にかぶりなおしたが、その時ルドルフが思いがけない行動に出た。
「そして、こちらは今回私に協力してくれる、ライルと申します」
何を考えたのか、わざわざこちらの紹介までしてくれてしまったのである。
ライルは咄嗟に笑みを貼り付けながら、
「初にお目にかかります」
さりげなく下町のイントネーションを強調して、それだけを告げた。
「そう」
イサベルは細い顎を動かして、軽く頷いただけだった。
――いや、わざわざ付き人の、それもどうやったってベテラン化粧師にも目利きの美術商にも見えない下町の少年を紹介してみせたことに多少は興味を覚えたのだろう。じっとルドルフを見つめている。
そのまま視線は固定しておいてくれ、というライルの願いが天に通じたのかどうか、彼女はややして飽きたように扇を閉じると、
「それで、あなた方の回答は?」
さっさと答えを促してきた。
ライルはそこで初めて、イサベルの前に置かれた卓、そしてその上にずらりと並んだ紅の数々に目をやった。
繊細な作りの銀の容器に入ったそれは、等間隔に、淡い桃色から濃い赤色へのグラデーションを描き出している。
縦に五つずつ、横に二十ほど、合わせて百はあるだろうか。
横からルドルフが、事前に示された紅を差し出してきたが、ライルは特にそれを見比べることも無く、すっと一つの容器を取り上げた。
「こちらです」
ごく微細ずつとはいえ、確実に異なる色味が並んでいるだけだ。
目利きを雇わずとも、おしゃれに敏感な女性なら、見比べながらであれば簡単に選び取ることができるだろう。色を記憶できるライルのような人物なら、即答すらたやすい問題だった。
てっきり、まったく同じ色味ながら、質感や光沢の違う物も並んでいるのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。
あまりの手軽さに肩透かしをくらった思いをしながら、ライルはルドルフにそれを手渡した。
彼は「ありがとう」と一言頷くと、紅をそのままイサベルに差し出した。
「こちらでございます」
「そう」
イサベルの返事は相変わらずだ。
もしやこれで終わりなのか、とライルが訝しんでいると、しかし彼女の方からようやく質問が飛んだ。
「あなた――ルドルフと言ったわね。どうして、この場に彼のような方を連れていらしたの?」
まさかの流れ弾である。ライルはさりげなく視線を落とした。
「彼のような、とおっしゃいますと……?」
「見たところ、化粧師ではない様子。随分と幼いし、美術商というわけでもなさそうね。彼はどういった方なのかしら。ご友人? あなたはなぜ、この問題の協力者として彼を連れていらしたの?」
「ああ」
質問の意図を理解したらしいルドルフは、小さく頷いた。
よもや贋作師などと言いださないだろうなとライルが窺っていると、さすがに先程の会話を思い出して配慮したのか、
「彼は、――その、絵師の見習いなのです。色には詳しいかと思い、頼らせてもらいました」
無難な回答に差し替えてくれた。
だがなぜかその瞬間、イサベルの琥珀色の瞳がきらりと光った。
「見習い? あなたは、この新入り試しの協力者として、見習いの少年を連れてきたの?」
「それは……」
ルドルフが言葉を詰まらせる。
そうだと答えれば、それ即ち火曜会への侮辱と取られてもおかしくなかった。
だがイサベルは何を思ったか、艶やかな唇をふっと綻ばせ、唐突に違う質問を寄こした。
「ねえ、ルドルフ? あなた、わたくしがなぜこのような問題を出したのだと思って?」
「なぜ、ですか」
ルドルフがきょとんと反芻する。
これまで常に直球な言葉で遣り取りをしていた彼を見るに、このような問答は不得手だろうなとライルは決めつけ、その横顔を見詰めていたが、ルドルフはその予想を裏切った。
「…………」
顎に手をやり、少し考え込む素振りを見せた後、顔を上げてきっぱりと答えたのである。
「価値観の柔軟性を試すためかと、思いました」
「価値観の柔軟性?」
イサベルが琥珀の瞳を楽しげに瞬かせる。
彼女はぱらりと扇を開くと、それに顔半分を隠し、「興味深いわ。続けて」と促した。
「こちらの彼から聞いたのですが、これらの桃色は、多くの男性には難しくとも、女性には比較的簡単に見分けが付くようです。――まあ、私を含め今回の志願者はほとんどが男性であるようなので、皆にとって難問ということですが」
ルドルフはぐるりと客席を見回した。
「女性が簡単に見分ける色を識別するために、我々男は目利きを雇わねばならなかった。男と女では見える色も異なる。――それは推し広げれば、貴族と市民、大人と子ども……人によって色は異なるということかもしれません。しかし、私たちはそのことを忘れがちです。それを、この新入り試しで気付かせたかったのではないかと、思いました」
舞台上に静寂が訪れる。
やがてイサベルは、ぱちんと音を鳴らして扇を閉じると、
「そう」
と一言頷いた。
ただし、形の良い唇に、花がほころぶような笑みを乗せて。
「素敵な回答ね、ルドルフ・クレンペラー。色のことを教えたその見習いの彼は、あなたのご友人?」
「……ええ」
小首を傾げて再び問われると、ルドルフはちらりと視線をこちらに寄越し、やがて頷いた。
「そのようなものです」
さすがに贋作師だとか、形見の弁償代わりに働いてもらっているだとか、そういった事情を話す気にはなれなかったようだ。
イサベルは満足げに頷くと、
「わかったわ。どうもありがとう」
今度こそ二人を舞台から下がらせた。
そしてその、わずか数十分後。
最後の志願者が退場するのと同時に、彼女は告げたのである。
今期火曜会に加えるのは、ルドルフ・クレンペラー、および、その友人のみである、と。