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2.紅色の依頼(前)

※色覚異常に関する表現を含みます。

 抵抗のある方は閲覧にご注意ください。

「口紅の色を見てもらいたいですって?」


 埃っぽいカウンターの向かいにルドルフを座らせ、話を聞きはじめたライルは、怪訝そうに首を傾げた。


「ああ」


 対するルドルフと言えば、僅かに幼さの残る顔に、どこまでも真剣な表情を浮かべて頷いている。


 自分と同い年くらいの少年が店主であると納得させるのには難儀したが、ルドルフはとかく真面目な性格のようだ。

 営業証明書を突きつけられて、ライルが事実この店の主人であると理解してからは、大人に対するのとまったく変わらない作法で、来店理由を説明してくれた。


「君には俺と、とある場所に同行してもらって、一緒に口紅の色を見てもらいたいんだ」

「……いえあの、当方は、文具店兼贋作屋であって、化粧師ではないんですがね」


 そう、ライルが店主を務める「裏通り文具店」は、ある合言葉を口にする客に対しては、偽物の絵画を制作・販売する、贋作屋になるのである。


 「ルヴァンツの絵は大嫌い」と正確に合言葉を告げてきたので、その辺は理解の上だろうと思っていたライルは、贋作屋らしくない依頼内容に疑問を覚えたというわけだった。


 ――ちなみにルヴァンツとは、若くして大工房を構えるヴェレスの代表的な画家で、彼を嫌う人は、芸術を解さないか人間嫌いかだと言われている。


「ここが、絵画を中心とした芸術品を偽造する店だとは知っている。だが、いや、だからこそ、提示された色とそっくり同じ色を選び出すのは得意ではないかと思ったんだ」

「はあ」


 淀みないルドルフの主張には、一応筋が通っている。

 ライルは曖昧に頷いた。


「私の技術を、そういう使われ方をしたことはありませんでしたが、まあ、確かにそうですね」


 答えながら、もしこの先店の経営が行き詰まったら、壁の塗り替えアドバイザーなども手堅くてよいかもしれない、などとライルは考えた。


 と、


「これを見てもらえるだろうか」


 ルドルフが懐から紅入れを取り出す。

 高価な銀で出来た小さな容器は、二つあった。


「どちらも、同じ調合師が同じ日に作った、同じ工房の口紅だ。だが、この二つでは微妙に色合いが異なるという。君にはわかるか?」


 そう言ってカウンターに置かれた二つの紅にさっと視線を走らせ、ライルは事もなげに頷いた。


「確かに、右の方がやや青みが強いですね」

「青?」


 自分から差し出したくせに、ルドルフは目を瞬かせている。

 指差された方を取り上げ、「紅なのに青色ということか?」と首を傾げているので、ライルは軽く補足した。


「別にその口紅が青いとは言ってません。その桃色が、左のものに比べて少しだけ――何て言うんでしょうね、くすんだ色をしているということです」

「……君にはわかるのか」


 照明すら乏しい中で断言するライルに、ルドルフは感嘆の息を漏らした。


「別に、感動していただけるようなことではありません」

「いや、素晴らしいと思う」


 何を思ったのか、ルドルフは懐からペンとメモを取り出すと、おもむろに走り書きを始めた。


「桃色は赤と白を混ぜて作る色だと思っていた。だが、実際は青も混ざっているということか?」

「うーん、厳密には違いますし、絵具と化粧品ではまた話が異なりますけど……色の成り立ちということだけに内容を絞るなら、まあ、そう理解していただいて構いません」


 ルドルフはしきりと頷きながらメモを取る。重要と思った語句を、ペンの色を変えて強調する几帳面ぶりだ。

 その時彼が青いインクを使ったのを見て、ライルはおやと片眉を引き上げた。


「お客さん、もしや『椿知らず』でしたか」


 椿知らずとは、緑と赤の色の区別が付きにくい症状を指す、この地方独特の表現だ。艶やかに茂る緑の葉の中に、赤い椿が咲いていても気付きにくいことから、そう呼ばれる。


 男性では二十人にひとりくらいの割合で発現する色覚異常の一種で、個人的には「利き手の違い」くらいにしか捉えていない症状のため、つい口にしてしまったのだが、


「……なぜ?」


 ルドルフは警戒も露わに手を止めたので、ライルはおっと、と軽く口をすぼめた。


「ああ、気を悪くされたならすみません。多くの人は強調する時に赤いインクを使うのに、青いインクを使われたものだから、なんとなくそうかなと」


 濃い赤が茶色っぽく見える彼らにとっては、青の方が黒と識別しやすいのだ。

 そう説明すると、ルドルフはじっとライルの顔を見つめ、頷いた。


「――その通りだ。俺は緑と赤の区別が付きにくい」


 その声はどこか低く張り詰めている。ライルはひょいと肩を竦め、


「別に、指摘するようなことでも、申告いただくようなことでもありませんでしたね。失礼」


 軽くそれをいなした。


 椿知らずは珍しいことではない、などと告げることもできたが、たとえば「あなたの他にこの街では百人の椿知らずがいる」と言われたところで、その症状が百分の一になるわけではない。症状についての捉え方は、症状を持ったその人が決めるべきと考えたわけだった。


 しかし、


「いや……。そう。だからこそ、俺は、君に依頼しに来たんだ」


 当の本人が、意外にもその話題を続けた。


「だからこそ?」

「ああ。君はさっき、この二つの紅が『やや』異なると言ったが、俺にはそもそも、自分の見ているこれが、正しく桃色なのかも定かではない。だから、君に一緒に来てもらって、とある試験に共に臨んでもらいたいんだ」


 試験、の言葉に首を傾げたライルに、ルドルフが説明した内容はこうだった。


 なんでも、ルドルフはとある人物からのお題で、数十とある紅の中から、事前に示されたものと同じ色の紅を選び取らなくてはならない。

 自信のないものは、一人だけ目利きのできる人物を連れてきてよいことになっており、それで、贋作屋の噂を聞きつけた彼はこの店にやってきたとのことだった。


「ここは、金さえ払えばどんな絵画でも偽造してくれる贋作屋だと聞いたから……。まさか、こんなに幼い子どもが主人だったとは思わなかったが」

「はははですから鏡をよくご覧になって、その幼い子どもに金を払って問題解決しようとしている世知辛い子どもは誰かをご確認になった方がよいですね」


 ライルはぴしゃりと言い返した。

 元々接客には向いていない性格の上に、先程まで他の贋作を仕上げるのに睡眠時間を削っていたため、ついつい辛口の対応になってしまうのだ。


「というより、紅の色の見極めということなら、化粧師に依頼した方がよろしいのでは? その紅を作った工房までわかっているのなら、そちらの方が確実ですし手っ取り早いでしょう」

「ああ。それはそうだが……。ヴェレスの化粧師たちは、軒並み権力に物を言わせたライバルたちに先に押さえられてしまっている。彼らがその手のことに使う金は桁違いだし、何より俺にはそんな伝手も無い」

「ふうん……。そこで贋作屋を思い付くあたりの発想力は、なかなかだと思いますけどねえ」


 どうやら、ルドルフの「お題」とやらには、何十というライバルがいるらしい。それも、権力のある。


 いったいどんな人物がそんな試験を課したのやら? と首を傾げつつ、ライルは頷いた。


「お話はわかりました。その、とある人物とやらが居る屋敷やらどこやらに赴いて、同じ色の紅を選べばいいということですね。出張旅費を出してくれるなら承りましょう」


 大好きな絵画に関わる仕事ではない点でモチベーションはあまり上がらないが、何せ簡単そうである。

 さくっと行ってさくっと稼ぎ、さっさと寝るにはちょうどよいかと考えたライルであった。


「受けてくれるのか」


 さりげなく旅費を請求してみたが、それにまったく頓着しないあたり、このルドルフとかいう少年はなかなかの金持ちらしい――そういえば、彼が胸にぶら下げている懐中時計と思しきものも、繊細な鎖だけで高価なものとわかる。


 ルドルフはぱっと目を輝かせると、独り言のように呟いた。


「よかった。これで火曜会に近付ける――」

「今なんて?」


 そこで突然、声を張り上げて聞き返したのはライルの方だ。

 瞠目するルドルフにぐっと顔を寄せ、ライルは据わった目で問い質した。


「今なんて言いました?」

「え……? あ、『よかった』……?」

「ふざけてます? その後ですよ。あなた今、か、で始まって、い、で終わる世にもおぞましい五音を口にしましたよね?」


 まるで、台所に潜む黒い悪魔を指す時のような、心底嫌そうな口ぶりだ。

 たじたじとなったルドルフは、「ああ、確かに火曜会と言ったが」と言い掛け、更に顔を近づけられて押し黙った。


「いいですか? 私の前でそのファッキンな五音はなるべくなら口にしないでください。まさかとは思いますが、紅云々というのも、その口に出すのもおぞましい例の組織に関わっている、とか仰いませんよね?」


 息遣いすら感じられる距離で尋ねられ、ルドルフはぎこちなく頷いた。


「あ、ああ。その……某、会の主催者のひとり、イサベル様――イサベル・フォン・シュタウディンガーから出された、『新入り試し』のお題だ」


 新入り試しというのは、と解説しかけて、口を噤む。

 目の前の少年が、両手に顔を埋め、「最低だ……」と呟いたからだった。


「おい……?」

「あなた、スラウゼン学院の学生だったわけですね」


 恨みがましそうな若草色の瞳で見据えられ、ルドルフは「あ、ああ」と首肯する。


 スラウゼン学院はヴェレスの誉れ。十三歳を超えたヴェレスの民なら誰もが一度は入学を願う、輝ける学問の塔だ。

 そこに通う生徒は、貴族であれ市民であれ、顕示するように白い制服をまとうのが常であったが、ルドルフは治安の悪い裏通りの店に行くということを考慮して、この日ばかりは平服であったのだ。


「制服は着ていないが、俺は、この秋に学院に入学したばかりの新入生だ。火……某会のような貴族のサロンには縁も伝手もない市民の出だが、新入り試しで彼らのお眼鏡にかなえば、会のメンバーとして認められると聞いて、こうして来た」


 火曜会とは、ヴェレスの美術界や社交界に身を置くもので、知らない人はいないと言われるほどの一大サロンだ。


 通常サロンとは、社交界デビューを済ませた貴族を中心に開かれるものである。

 しかし、スラウゼン学院内でも特別身分と教養に高いと評判の、とある三人の学生が主催した「火曜会」は、彼らが目を付けた画家や彫刻家が軒並み出世しているということで、そこらの伯爵夫人が開くサロンなどには及ばないほどの注目を集めているのだった。


 非公式の登竜門として、芸術家たちはそのサロンに招かれることを熱望し、スラウゼンの学生たちは、なんとかそのメンバーの一人として招待に預かることを夢想する。

 入学までは貴族に縁のなかった一般市民でも、火曜会にさえ入れれば、一気に学院内のスターダムを駆け上がることができるのだから、尚更だ。


 火曜会は半期に一度、主催者以外のメンバーを見直すということで、「新入り試し」はまさに、そのまたとない大チャンスなのであった。


「…………」


 ライルは考えを窺わせない表情でふつりと黙り込んだあげく、また唐突にふっと笑みを浮かべた。

 そして、おもむろに扉に近付くと、


 ――ガチャッ!


 勢いよくそれを開き、閉店にしてあった札も「開店」に戻してしまった。


「おい……?」

「はい、どうもありがとうございました。またのお越しをご遠慮しております、お帰り口はあちらです。狭いですから三歩で行けますよ、はいどうぞ、一、二、三」


 両肩を背後から掴み、ぐいぐいと押しやる強引さだ。


「え……? いや、依頼を……」

「空気をお読みいただければお分かりかと思いますが、依頼はただいまこの時点をもってお断りさせていただきました。か、から始まる悪虐の組織に関わるなんてまっぴらごめんです。ほら、あと二歩ですよ、一、二!」

「え、いや、な」


 ルドルフとしては、突然相手の態度が豹変した理由が分からない。目を白黒させていると、痺れを切らしたらしいライルが声を荒げた。


「なんであなたこんな無駄に体幹がしっかりしてるんですか!よろめけ!そして出て行ってください!」

「いや、だが、さっきは承ったって――」


 困惑しながら、痩せた少年の腕を取ろうとしたとき、


「ライ?」


 開け放していた扉の向こうから、野太い声が掛かった。


「そんなでっかい声出して、いったい――」

「え」


 思わずルドルフがぎょっと目を見開く。それほど、扉の向こうに現れた人物は異様な姿をしていた。


 身の丈六フィートは優に超える巨躯に、隆々と盛り上がった筋肉。

 ちょうど良い大きさのシャツが無いのか、ぱちぱちにはち切れんばかりの襟元からは太い首が覗き、その上には、髭に覆われたむくつけき顔が鎮座していた。鼻や口はやたら大きく、額は狭い。

 そして丸太のような太い腕には、紙袋に入ったバナナやりんごといった果物。


「ゴリラ……?」


 そう、それは例えるなら、最近王宮の近くにオープンした動物園の人気者、ゴリラに似ていた。


「誰がゴリラだごるぁ!」


 小さな呟きだったにもかかわらず、名前も知らないゴリラ似の青年がくわっと吠える。


 彼は「ていうかなんでこんなガキが裏通り歩いてるんだ?」と不審そうに呟き、ひょいとルドルフの胸倉を掴んだ。


「おいあんた、そのなりで客ってこたないだろ? ガキんちょは表通りの店で鉛筆でも買って帰んな。それともなんだ、あえて裏通りにやってきて、触れるものみな傷付けるギザギザハートな男っぷりを演出したいのか?」

「え、いや、え……」


 いや客ですとか、ギザギザハートってなんですかとか、そもそもあなた誰ですかとか、ルドルフも突っ込みたいことは多々あったのだろう。

 口をぱくぱくと動かしているが、全身から酸素を締め出すような勢いで胸倉を掴まれてはそれも叶わない。


 ルドルフから縋るような視線を寄こされたライルは、げんなりしながら青年を諌めた。


「そうやってカジュアルに肉体言語を繰り出すのはよしてくれますか、イーヴォ。たしかに彼はたった今招かれざる客に降格された元客・現通行人ですが、だからといって胸倉を掴むほどのことではありません」


 先程自分はルドルフの襟首を掴む勢いで追い出しに掛かっていたことを、完全に棚に上げているライルである。


 それに、とライルがイーヴォの太い腕に手を乗せ、


「こんなゴリラめいた握力で締め上げて、もし裕福らしい彼の持ち物でも壊したりしたら――」


 ――カシャッ。


 眉を寄せた瞬間、まるで「待ってました」と言わんばかりのタイミングで、ルドルフの胸元から不吉な物音が立った。


 いや、厳密には、胸元に下げていた、懐中時計から。


「え」

「あ」

「…………!」


 誰が何と言ったのだったか。

 実に異様な沈黙が下りた。


 巡回でもしているのか、警邏隊の掛け声が扉の外から聞こえてくる。

 裏通りならではの心温まる、ドスの利いた声が近付き、やがて遠ざかっていくのを、三人は無言で聞き流した。


「……ええと」


 ややあって、顔を引き攣らせて切り出したのは、ライルだった。


「今の、音は、まさか……?」


 我に返ったルドルフがばっと胸元を改める。その瞬間、辛うじて蝶番に引っ掛かっていただけの上蓋が外れ、


 カー……ン、カン、カンカン……


 間延びした音を立てて石の床を転がっていった。


「……これは、ひどい」


 見れば、上蓋ごと奇妙な方向に擦られたのだろう盤面は、繊細な針が折れ曲がり、ひしゃげてしまっていた。


「お、俺か!?俺が悪いのか!? いや、そんな高価なもん不用意にぶら下げてるおまえが……ってか、胸倉掴まれるようなことするおまえが悪いだろ!な、そうだろ!?」


 ゴリラ――イーヴォというらしい――が唾を飛ばして弁明するが、ライルはすぱんとその頭をはたき、そのまま掴んだ彼の頭を強引に下ろし、自らも深々と頭を下げた。


「うちの従業員が大変申し訳ございません」


 明らかに年上に見えるイーヴォの方が従業員であるということに、驚く余力のあるルドルフではないらしい。

 呆然としている彼に向かって、ライルは慎重に尋ねた。


「ちなみに、その、懐中時計は、どういった代物で……?」

「祖父の形見だ。時計職人だった彼が自分の為に作った、世界に一つの……」


 うげえ、と、ひしゃげた蛙のような声を漏らしたのは、もちろんイーヴォである。


 「やべえ、やべえよ……」とあわあわするだけのダメ従業員をよそに、ざっと懐中時計を検分したライルは、へらっと取り繕うような笑顔を浮かべた。


「見たところ、針もまだ動いていますし、仕掛けの方は無事かと。蓋と針を直し、少し傷の付いた盤面を補修すれば、元に――」

「盤面はともかく、蓋と針には銀を使ってある。君は冶金もできるのか?」

「…………」


 ライルの笑顔が固まった。


「ほ、ほら、ライ! あの本屋の裏手の爺さん、確か元は鍛冶屋だったろ! 爺さんに頼んで――」

「……包丁作りと時計作りは分野が違うし、そもそも天国から俗世の時計修理ができるんならいいんですけどね」


 店主である少年がぼそっと呟くと、ゴリラは尻尾を股の間に挟んだ犬と化した。


「す……すみません、でした……」


 ルドルフはショックを隠しきれないまま、剥き出しになった盤面を撫でている。

 ライルは深い溜息をつくと、おもむろに口を開いた。


「改めて、当店のゴリラが大変申し訳ないことをいたしました。伝手を使って必ず時計は直しますので、少々お時間を頂けませんか。もちろん、見舞いの品も別にご用意させていただきますので」

「――いや」


 見舞いの品、という言葉にふと顔を上げたルドルフは、少し考えてから首を振った。


「それなら、先程の紅の件、協力してくれないか」

「はい?」


 思わず眉が寄る。


「理由はよくわからないが、君は、火……某会に関わりたくないから、試験への協力を拒んだのだろう? だが、俺は、このチャンスをどうしても活かしたい。期日も迫っている――というか、もう数時間後には始まる。後が無いんだ。今さら他の贋作屋や絵師を探している時間はない」


 君が少しでも、この懐中時計のことを申し訳なく思ってくれるなら。

 ルドルフは真っ直ぐにライルの目を見つめ、言った。


「どうか、新入り試しに協力してほしい」


 清々しく、潔いそれは依頼だった。

 ほんの少し幼さの残る頬に射し込む外光、それすらも、彼のまっさらな心を表しているかのようだ。


 きっと、このくらいの年頃の少年であれば、それは自然な態度なのだろう。


 しかし、とある事情からこの一年ほど、裏通りで汚泥にまみれて過ごしてきたライルにとっては、ルドルフのぴしりと伸びた立ち姿が、やけに眩しく思われた。

 ――いや、単純に徹夜明けの目がしょぼしょぼしているということなのかもしれないが。


「…………はあ」


 ライルはしばらくして、心の底から絞り出すような溜息を漏らした。


 基本的に怠惰な己であるが、色で埋め尽くされた美しい絵画と、真っ白なキャンバスには、どちらも逆らえない性分なのだ。


「……わかりました」

「え?」

「紅の件、ご協力しますよ。すればいいんでしょう?」


 ルドルフはぱっと顔を上げた。


「協力してくれるのか!」

「あなたが言いだした癖に、何をそんなに驚いているんですか。しますよ。しますとも」


 ライルはすっかり投げやりな態度で頷いた。

 それに慌てたのはイーヴォだ。


「だが、ライ。悪いのは俺だし、おまえあれほど、アレのこと嫌ってたのに、その懐に飛び込むような真似をするのか? 新入り試しってのは、学院でやるんだろ?」

「ええそうですよ。悪いのはあなただし、某会のことは大嫌いですし、新入り試しはスラウゼン学院内であるけれど、私は行くんですよ。あなたが従業員で、私がこの店の主人である限りはね」


 イーヴォはぐっと黙りこむと、「この前、インク壺割りまくったこと、まだ怒ってるのかよ……」とぼそぼそ呟いた。そう、彼にはこれ以外にも余罪があるのだ。


 一方、ルドルフは腕利きの贋作屋を確保できたことに安心したようで、ほっと肩の力を抜いていた。


「感謝する。では、早速で悪いが、身支度を整えたらすぐ一緒に来てくれないか。少し離れた場所に馬車を待たせてある」

「うわあもう本当に早速ですね」


 了承したこととはいえ、苦虫を噛み潰したような顔でライルが頷く。

 彼は、一旦店の奥に引っ込み、必要そうな道具を掻き集めてくると、数分もしないでカウンターに戻ってきた。


 すっかりしょんぼりと、「悪かったな……」とルドルフに謝っているイーヴォの耳を掴むと、


「いいですか、イーヴォ。半日行って帰ってくるだけですから、くれぐれも、店の商品に手を触れないでくださいね。重要なのでもう一回言います。くれぐれも、何があっても、店のあらゆる商品にその筋骨隆々の指先すら近付けないでくださいね」


 ひどく念入りに言い聞かせた。


「任せろ!」


 イーヴォは最敬礼でもしそうな勢いだ。


「すぐに帰りますから」


 ライルは最後まで年上の従業員に向ってそう言い残すと、帽子を目深にかぶり、ルドルフと共に店を出た。




 カラコロンと鐘付きの扉が閉まると同時に、


「……そういうの、(ちまた)ではフリって言うんだぞー……」


 大きな肩を丸め、ぼそっと呟いたイーヴォを置いて。

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