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24.画家の企み

 目に快楽を与える色彩。

 研究されつくした構図。

 視線を弄ぶ線、含み笑いをする夫人のような、意地悪で知性に溢れた寓意。


 つまるところ、個性的で、鮮やかで、美しいものたち。


 そういったものには、どうしても敵わない性分なのだとは自覚はしていた。


「ねえ、ライ。本当にあなたはそれでいいの?」


 先程からライルの頬を執拗に布で拭ってくるイサベルが、琥珀の瞳を曇らせて問う。


 ルドルフと共に駆けつけた彼女は、血で汚れたライルの喉と頬を見て真っ青になり、有無を言わせずソファに体を押し込めると、その顔を拭い、手当をはじめたのである。


 一方ジークハルトはといえば、サミュエルやルドルフによって即座に身を引き剥がされ、壁の方へと拘束されていたが、ライル自身の制止によって今は再び向かいのソファに腰を下ろしていた。

 イサベルの不満げな問いは、そのことを指している。


「今回の――いえ、もちろん、過去の行いもそうだけど、ジークの行動は度を越しているわ。力に物を言わせて、あなたを従わせようなど……! あなたが訴えると言うなら、シュタウディンガー伯爵家は全力を挙げてそれに協力するわ」


 彼女は美しい顔を深い怒りの色に染め、きっとジークハルトを睨みつけた。


「……いえまあ。数分前までは、いっそ刺し違えてやろうくらいのことを私も思っていたんですけどね」

「当然よ! わたくしが言えた義理ではないけれど、なぜ彼を庇うの?」

「そりゃだって。彼は恋に破れた負け犬です。プロポーズに失敗した挙句、罪に問われたんじゃあまりに可哀想でしょう?」


 ふふんと眉を持ち上げてせせら笑うと、静かに話を聞いていたジークハルトは「ひどいな」と力無く苦笑した。


「……プロポーズ?」

「なんだって?」


 これには、ジークハルトの監視をルドルフに任せ、イーヴォの解放作業に没頭していたサミュエルもぎょっとして振り返る。


「一体どういうことだ、ジーク!ライラ!」

「……ほら、あなたの行動、幼馴染にすら理解されていなかったじゃないですか」


 ライルは、はっと吐き出すように笑ってジークハルトを見つめた。


「大局を見渡すだ、歯車を動かすだ、人を操って遠回しなことばかりしているから、事態がややこしくなるんですよ」


 ジークハルトは静かに肩を竦めただけだった。

 と、ライルの頼みで不承不承彼の手当てをしていたルドルフが、包帯代わりの布の処理を終えて、仏頂面で振り向いた。


「……応急処置は完了したが。これでいいか」

「ありがとうございます、ルドルフ」


 ライルはにこっと笑って頷く。

 そういえば彼には、一番肝心なお礼を伝えられていなかった。


「メッセージ、あなたが解読してくれたんですね。お陰で助かりました。――ありがとうございました」

「いや……」

「はは、やっぱり怒ってます? 助かりたかったとはいえ、私はあなたの『逆柱』を利用するようなことをしてしまった。申し訳ありませんでした」


 ライルが謝ったのは、ルドルフの「椿知らず」を見込んで救いを求めたからだ。


 緑系色と赤系色――黄緑と橙の区別がつきにくい彼は、逆に、そこに紛れこんだ青色が一際くっきりとよく見える。

 ライルはそれに縋り、モザイク柄の中に、ごく微妙に青みがからせた小片を文字の形に散りばめたのだ。


 ――助けて。セルスローの実家


 椿知らずと一口に行っても、色の見え方は人によって異なる。彼がメッセージに気付かない可能性もあった。

 気付いたとしても、実家、という短い指定ではここまでたどり着けない可能性もあった。


 しかし、ルドルフはきっと、自らが椿知らずであることをイサベルたちに告げ、ライルの実家の在り処を聞き出してくれたのだ。


「嫌な思いをさせてしまいましたね」

「そんなことはない」


 躊躇いながら重ねて詫びると、意外にもルドルフはきっぱりと首を振った。


「むしろ、俺は――おかしなことだが、嬉しかったんだ」

「え?」

「初めて、椿知らずであるおかげで人を助けることができた」


 事もなげに告げる彼のその声音には、何の虚勢も、卑屈な響きもなかった。


 ライルは眩しげに翡翠の瞳を細める。

 この少年の度量の大きさに感じ入るのは、こんな瞬間だ。


「……私が患者なら、あなたのような医者に診てもらいたいですよ」


 そう微笑むと、ルドルフはちょっと戸惑ったように黙り込んだ。


「どうしました?」

「いや……。その。君は、本当に、ライなんだよな?」

「この状況で何を? 私以外私じゃありませんよ。当たり前ですけど」


 歌詞のようなことを言い返しながら、目を瞬かせる。

 イサベルが「仕方ないわ」と金の髪を掬いあげてきたので、ライルはようやくその言葉の意味を理解した。


「――ああそうか。この格好で会うのは初めてでしたね」


 場の空気を読んで彼も今まで言及せずにいたようだが、少年の変装を解き、ドレスをまとって鬘と化粧まで施した「リインライン」の姿を見るのは、ルドルフは初めてだったのである。


「ここに来てくれた時点で、正体も何もばれていると思って説明すらしていませんでした。ライル、もとい、リインライン・アイグナーと申します。でもまたすぐにライルに戻るつもりなので、覚えなくて結構」

「なんというか……詐欺のような見た目だな」


 蜂蜜色の髪に、きらりと輝く翡翠の瞳。

 抜けるように白い肌は頬だけがほんのりと色づき、小さな唇から零れる声は鈴のよう。


 慇懃無礼な態度を取り払えば、女性の姿をしたライルというのはまさに可憐な花、優美な白鳥のようだ。


「失礼な」


 少々むっとする。

 が、ルドルフはどうやら怒っているというより、単に自分の姿に戸惑いを隠せないでいるだけのようだとわかり、ライルはこっそり胸を撫で下ろした。

 真面目な彼のことだ、今まで女性と寝起きを共にしてしまったことに思い至り、悩んでいるのだろう。


「すまない。だが、とても美しいので、驚いた」

「…………」


 相変わらず衒いのない発言に、ついライルは押し黙った。


 彼は、ろくな友人もいなかったというくせに、人を誑し込むことにかけてはなかなかの素質の持ち主だ。

 特に、寓意と建前にまみれた生活を送っていた自分には、ルドルフのどこまでもストレートな言葉がなんだか眩しい。


「……それは、どうも……」


 結局、ぼそぼそと返すと、彼は少し照れたように話題を転じた。


「いや、しかしこの言葉遣いはどうなんだ。部屋中に罵詈雑言を撒き散らすというのは、君の外見と似合わない」

「え?」

「なんのことだ?」


 イサベルやサミュエル、そして彼に鎖を解いてもらったイーヴォまでもが、手首を擦りながら首を傾げる。

 どうやら「自分にしか見えていない文字」なのだと気付いたルドルフは、机や壁に広がった模様を指差した。


「彼女が封筒に凝らしたのと同じ手法で、ここには、その……彼への悪口が盛大に書かれています」


 彼、と視線を向けたのは、もちろんジークハルトだ。

 それまでソファに腰掛け、静かに成り行きを見守っていたジークハルトは、ルドルフの言葉に納得したように頷いた。


「椿知らず、封筒……そういうことか」


 彼は大した説明もなく、ライルが仕掛けたメッセージの方法に気付いたようである。

 「なんて書いてあるんだい?」と彼が首を傾げると、ルドルフは少し困ったように眉を寄せた。


「……あまり、口に出しては言わない方がいい言葉かと」

「はは。彼女らしい」


 ジークハルトは軽く肩を竦めると、またソファの背もたれに体を預けた。

 もはや皮肉を口にしたり、ここから挽回を試みる気でもないようだ。


「――ジークハルト様」


 気付けば、ライルはそう呼び掛けていた。


「……何かな、リインライン?」

「安心してくださいよ」


 怪訝そうに眉を引き上げる美貌の貴公子に、ライルはにっこりと笑い掛ける。


「あなたは、私しかあなたの世界を乱す者はいないような口ぶりでしたが、いくらあなたが世界を見通しているつもりでも、あなたが見ることのできないものは、まだまだこの世に沢山溢れている」


 たとえば、とライルは、彼の近くに佇むルドルフに視線を向けた。


「そちらの彼には、あなたと異なる色が見え、あなたの見えない文字が見える。あなたの知らない世界を、きっと教えてくれるでしょう」

「…………」


 押し黙ったジークハルトに向かって、ライルはテーブル越しに腕を伸ばし、布の巻き付けられた彼の手を取った。


「あなたは絵画なんかじゃない。血の通った人間です。解釈されたり、鑑賞されたりするのではなく、あなた自身が世界を探索して、生きていけばいいじゃないですか」


 我ながら身勝手な言い分を、という気持ちもあるにはある。

 なんでもかんでも絵画になぞらえてしまうのは元は自分の性分だったし、彼が自身で言った通り、ジークハルトをその世界に引き込んだのはライルだ。


 しかし、自分はあの雪の日に、絵画の世界の中で生きることは止めたのだ。

 でなければ、画材を売り払ったり、贋作に手を染めたりすることなどできなかっただろう。


 そう、あの日、ある意味でライルは、絵画の世界と訣別したのだ。


「…………」


 ごく僅かに視線を揺らしたジークハルトに、ライルは力強く頷きかけた。


「大丈夫。幸い彼にはまだ友人らしい友人が非常に少ない。今付け込めば、きっとあなたのことを大切にしてくれるでしょう」

「おい、人のことを貶したうえに、さりげなく厄介事を押し付けてくるのはやめてくれないか」


 ルドルフがすかさず渋面を作って文句を言ってきたので、ライルは肩を竦めた。


「おや。あなたにも友達が増え、ジークハルト様は新たな世界を知り、私は晴れて自由の身。三方丸く収まると言うのに。粘着質なことを除けば、顔よし頭よし財力権力武力よしの、得がたい友人になると思いますよ?」

「君を傷つけようとした輩と、仲良くできるわけないじゃないか」

「…………」


 真顔で言われ、今度はライルが言葉を失う。

 咄嗟に何も言い返せないでいると、イーヴォがかかかと笑って、


「いいねえ!その意気だよクレンペラーさん!」


 陽気な茶々を入れた。


 さて、と、話がひと段落した気配を見てサミュエルが切り出す。


「ライラ、これからどうするんだ? 君は彼を拘束するなと――公爵家に訴えることも拒んだが、ではどうしたらいいか、正直俺たちには判断がつかない」


 丸投げというよりは、どうしたら一番ライルの心に適うかを測りあぐねているのだろう。

 現実的な段取り能力では随一のサミュエルが、お手上げというように掌を返した。


「そりゃ、お暇しますよ。幸い、ことは未遂で済みましたし、見方を変えれば三食きっちりお世話になったわけですが、本人の意思を踏みにじって拉致監禁したことには変わりないし、うちの従業員も傷付けられたわけですしね。その辺の謝罪方法は本人に聞きつつ」


 ライルはさりげなくイーヴォの手首に視線をやる。

 途中からは鎖と手首の間にタオルが挟まれていたというものの、ずっと体重を掛けて鎖を引っ張っていたお陰で、彼の手首は痛ましく傷ついていた。


「イーヴォ。彼をどうしたいですか?」


 謝罪で済ませるか、慰謝料をもぎ取るか、はたまた同じ目に遭ってもらうか。

 その辺りは、被害を受けたイーヴォ自身が決めればいいこと。ライルはそう考えた。


 ところがイーヴォは、その山のような肩をひょいと竦め、丸太のような首の裏をぽりぽり掻くと、


「いやまあ……。先に命令に背いたのは俺だしなあ。一年も仕事サボって遊んじまったし。おっかねえ俺の一族に次期当主サマがうまいこと取り成してくださるんなら、それで充分釣りがくるぜ」

「……傭兵を辞して、今後はどうするんです?」

「そりゃあんた。俺はまだまだ飽きてねえんだから、引き続きあんたに雇ってもらうぜ」


 軽く返してきたものだから、ライルは口の端をむずむずさせながら、「そうですか」と答えた。


「これ以上、店の備品および内装を壊さないでくださいね」

「おうよ」


 ライルはなんとなくイーヴォを見るのが気恥ずかしくて、「だそうですが」とジークハルトに向かって顎をしゃくった。


「約束しよう」


 端整な美貌に、いつもの完璧な微笑を浮かべた彼は、ただ一言静かに応じた。


 ライルとジークハルトはそれから淡々と遣り取りを重ね、数分の内に彼女は、今後一切火曜会に顔を出さないこと、今後も自由に裏通りで贋作屋を営むこと、彼はけしてそれを邪魔しないことを取り付けた。


「では、そういうことで。我々はこれにて失礼しますよ。永遠にご機嫌よう」

「リインライン」


 さっさとその場を立ち去ろうとしたライルを、ジークハルトは穏やかに呼び止めた。


「……なんです?」


 翡翠の瞳を細めて尋ねる。

 彼は、その湖のような澄んだ瞳で真っ直ぐと彼女を射抜き、丁寧な口調で切り出した。


「一つだけ、約束してくれないか」

「なぜ私があなたの願いなんかを――」

「この手の傷に免じて」


 彼が優美な仕草で掲げた腕に、ライルは暫し押し黙る。


 別に彼女自身がジークハルトの手を刺しにいったわけではなかったが、自分の握り締めていたナイフで彼が怪我をしたわけだから、その点を彼女が罪に問われても反論できないのだ。


 そもそもを言えば、公爵子息が男爵令嬢ごときを手折ろうとしたところで、それが罪として公正に裁かれることもないというのに、唯々諾々とライルの言に従っているジークハルトの方が、貴族社会の常識に照らせば破格だったりもする。


「――……なんですか」


 そんなわけで、ライルはしぶしぶ、彼との間に約束を交わすことを自分に認めた。


「火曜会から離れ、学院からも貴族社会からも離れ、君が独自に働くと言うのならそれでいい。ただ、贋作屋を――絵画に関わる仕事を営むにしても、けして、ルヴァンツ・アイグナーには接触しないでくれないか」

「はい?」


 思わぬ言葉に、つい声が揺れる。

 言われるまでもなく、義父を名乗るくそ忌々しい男には近寄るつもりのなかったライルは、不審げに眉を寄せた。


「それは勿論、そうしますけど……」

「君が今後成人し、絶縁状を叩きつけるためだけであっても、彼の屋敷に訪れてはだめだ」

「はあ」


 今のところリインライン・アイグナーは行方不明扱いになっており、数年後には自動的に死亡届が出されるはずだが、もしそれまでに何らかの公的手続きが必要になった場合は、そういった行動も必要かもしれない。

 そう考えていたライルは、きょとんと首を傾げた。


「別にいいですけれど……なぜですか?」

「――鏡を見ればわかるよ」


 ジークハルトはそう言うものの、この部屋にはガラス片となりうる鏡など置いていない。

 困り顔をしていると、素早くイサベルが手鏡を差し出してきた。


「ご覧になる?」

「え?ああ、どうも――……」


 久しぶりに自分の顔を覗き込み、ライルは絶句した。


「ライ?」


 硬直したライルに向かって、気遣わしげにルドルフが問うてくる。

 彼女は呆然としたまま、


「……これ、私ですか……?」


 と呟いた。


 金の髪に翠の瞳。

 自分の纏う色くらい、彼女とて覚えている。


 しかし、一年ぶりに鏡で見る、「普通の」化粧を施した自分の顔は、こうであろうと思っていたものよりずっと大人びて、女性らしく――


 母に、そっくりであった。


「――君が僕たちのせいで迫害に遭いはじめた当初、僕はルヴァンツ・アイグナーに連絡を取ったことがあった。その時はまだ、君が望むなら僕は君を解放する気でいたからね」


 鏡を凝視しているライルに向かって、ジークハルトが語り出す。

 耳に心地よい声で語られるその内容に、誰もが驚愕して聞き入った。


「しかしアイグナー氏の返答はこうだった。『気遣いを感謝する。しかし彼女を退学させるつもりはないし、火曜会にもそのまま加わっていてほしい。最高水準の教育を受け、一流の美に触れ、あらゆる逆境に耐えてみせたその時こそ――』」


 きっと彼女は、母親そっくりの、気高く美しい女性になっているだろうから。


 ジークハルトは、ソファ脇のテーブルに置かれたままになっていた包みを取り上げた。

 梱包を解き、布を取り払うと、そこには小ぶりなキャンバスが現れる。


 かつてライルの父が描いたその作品は、カロライン――ライルの母の、若かりし日の肖像であった。


「…………!」


 誰ともなく、息を呑む。それほどまでに、絵の中の女性と、手鏡を握り締めるライルはよく似通っていた。


「君の母君に対する彼の執着は凄まじかった。肖像画をはじめとした他の男の匂いがするものは全て処分し、一方で彼女の遺品は傷一つなく管理し、そして――その娘を、彼女の身代わりに仕立て上げようとするほどに」


 ――ねえ、リインライン。君、学院を卒業したら公爵家に来ないかい?

 ――お断りです。卒業したら、私は絵師でもしながら生きていくんですから。

 ――だが、それは父君が許さないだろう?

 ――どうでしょう。あの人、私に全く興味ないと思いますけど。卒業後は一度だけ顔を見せろと言われているので、その時に絶縁状でも叩きつけてやるつもりです。


 ライルは、火を放たれる前日にジークハルト達と交わしていた会話を思い出した。


「幼い子どもでしかない君には、彼は興味などなかった。けれど、母君そのままの姿に、美しく成長したのなら話は別だ。彼は君が卒業するその日に向けて、こっそりと方々で種撒きを始めていた。――彼のその考えは僕にはよく理解できた」


 ジークハルトは美しい微笑を浮かべた。


「時が経てば経つほど、彼の撒いた種は芽吹き、蔦を伸ばして君を絡め取る。美しく成長した姿を一目でも彼に見られようものなら、君は即座に栄えある男爵夫人だ。因果の芽は、早々に摘み取る必要があった。だから、君が卒業後に屋敷に赴くつもりであると知った次の日、僕は君の部屋に火を放たせ、君が男爵家から切り捨てられるのを待った。君を匿う準備を進めながらね」


 しかし、ライルは彼の計画を乱し、逃げ去ってしまったのだ。

 呆然とする彼女に、ジークハルトは「でもまあ」と穏やかに続けた。


「君に逃げられてみて、所詮僕も彼と同じ穴の狢だとわかったよ。手中に収められると思っていた宝物が、忽然と消え失せてしまった途端、まるで僕の中の何かがはじけ飛んでしまったような心地を覚えた。今の僕に、彼を責めることはできないね」

「…………」


 ライルは手鏡を置き、深々と溜息を吐いた。

 そしてまた、きつく眉間にしわを寄せ、己の顔を両手で覆って屈みこんだ。


「……なぜ」


 なぜ、自分はこんなにも方々から執着されることになってしまったのだろう。

 そして、なぜ、


「それを口で説明してくださらなかったんですか……」


 ついでに自分の物にしようと策を巡らせなどせずに、ただ素直にその状況を教えてくれていたならば。

 もしかしたら、自分はジークハルトに感謝さえしたかもしれなかったのに。


「性分なものでね」


 ジークハルトはその天使のような顔で苦笑した。

 それは先程ライルだけに見せた、あの不均等で心奪われる微笑ほどではなかったが、珍しく人間味に溢れた表情であった。


「だが、彼を見てよくわかったよ」


 彼はちらりと、横に佇むルドルフに視線を向ける。


「君は、絵画からはとても敏感に寓意を読み取ってみるくせに、生身の人間からは、直截的な言葉を向けられないと感情に気付かないほど、すこぶる鈍い女性だったんだね」

「はあ!?」

「僕は反省した。これからは、態度を改めることにするよ」


 そうして彼は、ぎょっと肩をいからせたライルに向かって、とびきり晴れやかに微笑んでみせた――。

次話で最終話となります。

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