23.デザインかアートか(後)
「文明的対話で理解が得られなかったのだから、もっと原始的な話し合いに移行するしかないかな?」
「や、そういうのは当店ではイーヴォの担当なんで!」
腕を取られ、二人掛けのソファの背に押し付けられる。
何と言うことだ、ソファの背もたれを壁としてカウントしていいなら、これで三人目の壁ドンである。
「イーヴォ! ちょっと、イーヴォ!! ピンチですってば、起き……っ!」
思い切り逸らした顔に、ふと影が落ちる気配を感じて、ライルは口を噤んだ。
両腕を拘束されたまま、恐る恐る振り返れば、ジークハルトがごく至近距離で見下ろして来る。
「あまり他の男の名を呼ばないでくれないか。それとも、乱暴にされたい?」
ソファに、少女とはいえ女と、彼女を組み敷かんとしている男が一人。
彼の言う原始的な話し合いというのが、何を意味しているのか、さすがにわからないライルではなかった。
「いえいえいえいえ、乱暴とか優しいとか、そういうモードの選択というより以前にですね、そもそもこういった行為は激しく願い下げなんですけれども……!」
「そうだね。僕としてもあまりしたくはなかったよ」
ジークハルトは実に滑らかにライルの両腕を片手で拘束し、もう片方の手ですっと彼女の腰を引き寄せた。
「君はまだ幼い。この細い体で僕を受け入れ、薄い腹に子を宿すのは、辛かろう」
「ひ……っ」
卑猥な単語は何一つ口にしていないというのに、彼の言葉に恐ろしいほどの色と淫靡さが漂うのはなぜなのだろう。
「んんん……? なんだあ……? ってうおお、なんてこった!」
と、呑気によだれを垂らして眠りから覚めたイーヴォが、かっとその目を見開いた。
「やべえ! 貧相なライの体が、十七歳の滾る獣欲の前に散らされちまう!」
「あんたそんな不快な描写してる暇があったら、助けてくださいよ!」
「本当に不快だね。彼の舌を切り落とそうか」
「あなたは不穏!」
ボケ要員が多すぎて、もはやライル一人では捌けない。
いや違う、そんな状況ではない、絶体絶命、未曾有の大ピンチである。
「ちょっと!私、肉体から恋愛が始まる系はガチでムリなタイプですから!」
「はは、実際に肉体から恋愛を始めたこともないくせに」
「実際には恋愛も始めたことねえんですよ、こいつ!勘弁してやってくださいよ!」
イーヴォは助けとして当てにならないばかりか、むしろ騒音だった。
「こんなの、やだ……っ」
掴まれた腕が痛い。圧し掛かってくる体は大きく、重い。
顎を取られ、顔を覗きこまれる、その力は紛れもなく男のそれだった。
「リインライン」
「――……!」
そっと囁かれた、その瞬間。
ライルは相手の耳を噛みちぎろうとして――指を差し込まれて、失敗した。
「……痛いな」
右の親指を、引きちぎらんばかりの勢いで噛みつかれたジークハルトが、その美しい金の眉を寄せる。
皮膚だけでなく肉まで裂いたのだろう。
あふれ出た血はすぐにライルの口の中に広がり、彼女は慌ててそれを吐き出した。
「大丈夫かい?」
噎せるライルに、ジークハルトはどこまでも穏やかに話しかけてくる。
腰を折り曲げて咳込む彼女に顔を寄せるべく、一瞬彼が腕の力を弱めた、その隙を突いて、ライルはテーブルに手を伸ばした。
そこに転がっていたのは、唯一食事時だけ手に取ることのできる武器――ナイフ。
相手がすかさず払おうとしてくるのを何とか躱して、ライルはその切っ先を、自らの喉に突きつけた。
「触らないでください」
勢いが付きすぎ、先端が僅かに喉に食い込む。
たら、と一筋首を血が伝ったが、ライルはそれに構わず続けた。
「それ以上近付くなら、喉を突きます」
相手を刺すことは技量的に叶わなくとも、自らの命を交渉材料にすることはできる。
そして恐らくは、そちらの方が彼には効果的のはずだった。
「ちょ、ライ!あぶねえよ!」
なぜか第三者のはずのイーヴォが焦った様子で叫ぶ。
「千切りのつもりであらゆる食材を木端微塵にする、あんたの不思議な包丁捌きが今発動したら、とんでもねえ大惨事が起こるぞ!その方法は止めとけ!な、悪いこと言わねえから!」
「黙ってくださいゴリラめ」
さすがに切っ先を食いこませておいて、ここから目測を誤ることはないはずだ――たぶん。
「私はあなたを愛したりなどしない。結婚を了承したりもしない。今すぐ、私を解放してください」
不思議だ。
一時は自分を置いていった母を恨んだこともあるのに、今は彼女の気持ちがほんの少しわかる。
耐えられないのだ。
自由を奪われる境遇が。無力である自分が。
自らの二本の足と、意志で大地を踏みしめることは、他の何を措いても守らなくてはならない矜持だった。
「…………」
ジークハルトは、じっとライルを見つめた。
その顔は、まるで仮面のように端整で、また何の感情も感じさせなかった。
だが、
「……ひどい子だ」
やがて静かに微笑みを浮かべた時、彼の顔は、思わずライルが見とれてしまうほど美しかった。
彼はゆっくりと身を起こし、そっと右手をライルの頬に差し伸べた。
彼女がすかさず喉にナイフを食いこませようとすると、彼は何の躊躇いもなくそれを掴み、強い力で押し止めた。
――しかし、彼女を再び拘束しようとはしなかった。
「……君はいつも、僕の予想を覆すことばかりする。策を巡らせても、直接腕に囲い込んでも逃げようとする君を、ではどうしたら捕まえられるんだ?」
ぱた、ぱた、とナイフを掴んだジークハルトの手から血が滴り落ちる。
その色は、ワインのような臙脂でも、ルビーのような深紅でもなく、何の変哲もない、人間の血の赤だった。
「君はかつて言ったね、僕のことがいじらしいと。僕の笑みはデザインであると」
「……聞いていたんですか」
「まあね。――ふふ、僕はね、王弟たる公爵家の長子。現王や王太子に何か起これば、戴冠すらありえる王族のスペアだ。僕の言動は全て解釈の対象で、この血の一滴、眼差しの一つすら、僕が自由に扱っていいものではない。デザインというのが、機能を求められる手段だという意味なのであれば、確かに僕の表情はデザインだ。人を操作する目的以外で浮かべる表情なんて、すっかり忘れてしまったよ」
彼はぐっと力を込めてライルからナイフを奪うと、それを床に放り投げた。
ライルの両腕は自由になったが、彼女は逃げ出そうとはしなかった。――いや、できなかった。
「僕は常に支配者の側にあらねばならない。他人と同列、同次元に立つのではなく、いつも高みから局面を見渡せるようでなければならない。僕は他人を見下ろして、最初の歯車を押す。それだけで大抵のことは滑らかに回転していく。……ただ君だけが、いつも僕の計画を狂わせる」
彼はぼんやりと傷付いた手を持ち上げると、そこに広がる赤を眺めた。
「君は媚びない。僕の笑みにすら、一瞥はくれるが感情をちらりとも動かさない。そしてするりと逃げていく。僕は君を前にすると、どんな顔をしていいかわからなくなる」
だから、と彼は呟いた。
「だからその瞬間、僕の顔はデザインの呪縛を逃れる。王族のスペアでも、貴族社会の歯車の一つなんて無機的なものでもなく、一枚の美しい絵画のように存在していられる気がするんだ」
「…………」
「君が僕に、無意味で、美しい絵画の世界を教えた」
ジークハルトが、ゆっくりと手を差し伸べる。彼は血の滴る手でライルの金の髪を掬い、そっと口づけた。
「なのに君は、また僕を置いていくのか?」
そうして、ゆっくりと、口の端を持ち上げる。
彼のその表情を見て、ライルは大きく目を見開いた。
「あ……」
完璧な左右対称の笑みが、初めて崩れるのを見たのだ。
――顔の右半分は穏やかに笑みを湛えていても、左半分は悲しげ。目の焦点すら左右で異なる。
まるで泣くのをこらえ、強がっているような。透徹した覚悟を示すような。
目の前の少女を睨みつけるような、いや、遠く過去の思い出を懐かしむような。
彼が心のままに浮かべた表情は、複雑で、繊細で、見る者の心を激しく揺さぶり言葉を奪う程に、――鮮やかだった。
「ジークハルト、様……」
思わず、彼に向かってライルがそっと手を差し伸べた、その時。
――バン!
「ライ、無事か!」
勢いよく扉の開く音と共に、ルドルフの鋭い声が響いた。




