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22.デザインかアートか(前)

 彼のことを嫌いかって?


 いえ、別に嫌いではありませんよ。まあ、彼のお陰で迷惑も被ってますし、好きでもないですが。

 むしろ、向こうが私のことを嫌っているのではないでしょうか。いつも私といる時だけ無表情だと思いません?


 ただ……そうですね、いじらしいとは思います。


 え、なんでそんなに驚かれるんですか。

 だって、あの笑顔を見ると思いませんか。


 綺麗に左右均等に持ち上がる口角、開かれた眉間。目元の筋肉も丁寧に解して、視線も落ち着けて、まるで微笑のお手本のようです。


 知っていますか、イサベル様。かの有名な微笑みの絵の女性だって、左右対称に微笑んでいるわけではないんですよ。

 顔の右半分は穏やかに笑みを湛えていますが、左半分は悲しげ。

 目の焦点すら左右で異なっています――まあ、それこそが、彼女の美しさの理由でもあるんですが。


 人はね、本当は左右対称の完璧な表情を浮かべることなんてできないんです。


 それができるというのは、一体どのような鍛錬の賜物でしょう。

 彼の笑顔は、彼の為の物ではない。常に他人の為に象られ、機能性を追求した「デザイン」です。


 赤子にだって自然に浮かべることのできる微笑を、そこまで意識的に鍛え操らねばならなかった境遇と、それを呼吸するようにやってのけている彼を思うと、ちょっとね、いじらしいと思うんです。


 え、本人に? 言いませんよ、そんなこと。


 魚に向かって、「あなたはえら呼吸していて健気だね」なんて言わないでしょう?

 きっと彼にとってはそれが自然だし、いじらしいなんて思うのは、本当は私の傲慢なんです。




 でも、そうですねえ。


 絵画を愛する身としては、デザインとしての微笑ではなく、アートとしての――ただ彼の気持ちを表現する為だけに形作られた、自然な表情を、ちょっと見てみたい気もしますかね。




***




「やあ、リインライン。とうとう壁にまで広がってきたね」


 どこまでも澄んだ声で呼びかけられ、ライルは手にしていた細い筆を下ろした。


 小指の爪の先程しかない小さな絵筆には、黄緑の絵の具。

 そして、たった今まで描いていた壁の上には、繊細なモザイク画が半分だけその姿を表している。


「――邪魔しないでいただけますか? 今ちょうど筆が乗ってきたところなんです」

「つれないな。確かにその模様は美しいけれど、黙々、黙々とそれを描きつづける君の姿はなかなか不気味だよ?」


 ジークハルトがひょいと覗き込んだそれは、無数の小片がひしめきあい、川のような模様を描き出している美しい図象であった。

 橙、黄緑、青、灰色とカラフルなのに、それらが細かく組み合わさることによって、どこか統一感のある落ち着いた色調をなしている。


 モザイク模様は、もとは西方の地で、直接は描くことのできない神を讃えるために編み出された幾何学模様だったが、ライルはその色彩を組み合わせる技術だけを活用して模様の枠を取り払い、ただひたすらに、不規則に波打つような柄を描き続けていた。


 最初は、用意されていたスケッチブックに。それを使い果たすと、メモ用紙、便箋、封筒に至るまで。

 そしてとうとう、その範囲は、机や壁にまで広がっていた。


「ここを聖堂にでも仕立て上げるつもりかい?」

「そんな意図はありませんが、精神統一にはなります。拉致監禁されている現実を、束の間忘れさせてくれるくらいにはね」

「はは、君の気が晴れるなら、画材を用意した甲斐もあったね。それにしても、君の絵心には驚かされる」


 描くというよりは、まるで壁の中に埋まっていた模様を浮かび上がらせるような迷いない手つきで、勢いよくモザイク画を広げていくライルを見つめて、ジークハルトが愉快そうに呟く。


 ライルはそれに軽く肩を竦めた。


「ジークハルト様だって、結構な腕前のくせに。あのヴァニタス、あなたが描いたのだと知った時は驚きましたよ」


 そう。

 「救済を」と走り書きのされたあの絵画は、ジークハルトの手になる物だったのだ。

 確かに、そう都合よく現実を暗示するヴァニタスは手に入らないだろうとはいえ、一流画家の作品と言われても何ら不自然ではない出来に、ライルは顔にこそ出さなかったがかなり驚いていた。


 まったく、なんでも完璧にこなさないと気が済まない御仁である。


「それは、まあ。物事の構図を決めたり、虚ろを鮮やかな色に塗り立てるのは、もともと得意とするところだからね」

「…………」


 そして、相変わらず黒い御仁である。


「さあ、もう昼だ。食事にしよう。今日は、君の好きな鮭のパイを持ってきたよ」

「……イーヴォにも、同じ物を」

「仰せのままに。君の望みには逆らえないからね」


 ジークハルトはやれやれといった息を吐くと、そのままテーブルに食事をセットしだした。


 捕らわれてから、およそ十日。

 陰で侍女や侍従の手も入っているようであるが、食事の準備をはじめとし、ここでの生活のほとんどは、彼自らが面倒を見ている。


 人質を取られ監禁されている状況とは裏腹に、ここでの暮らしは快適と表現して差し支えないほどであった。


 贅を尽くした食事に、柔らかな布団、温かい服に、もれなく麗しのジークハルトによる、理知的なサービストーク付きだ――これが最も不要なのだが。


 ただ一点、「ここから出たい」という要求を除き、ライルの要望は全て叶えられた。


 画材を望めばいくらでも用立てられ、希少な絵画が見たいと言えば、翌日には手元に届く。

 イーヴォの待遇の改善を望めば、鎖で繋がれている点を除けば劇的な生活環境の向上がなされ、今の彼はまるで、檻の中で惰眠をむさぼるただのゴリラである。


 試したいとも思わないが、世界が欲しいとでも嘯けば、翌日にはどこぞの王国のひとつくらい落としてくるのではないだろうか。


「それで?」


 皿に器用にパイを切り分けながら、ジークハルトがその美しい唇を持ち上げる。


「君が出した手紙によれば、今日明日にでも君はここを出ていくようだが。僕の申し出を、ようやく受け入れてくれるということでいいのかな?」

「……やっぱり読んでいましたか」


 しっかり封をしたところで、中身を検閲されるのはまったくの想定内だったので、ライルは眉ひとつ動かさずパイに手を付けはじめた。


「それはね。申し訳ないけれど、アナグラムの使われていたものと、あぶり出しの使われていたもの、あと何か暗号めいた単語が用いられていたものはこちらで処分させてもらったよ」

「……最低」

「だが、約束は守った。君の言うとおりに、ちゃんと手紙を出したろう? 僕は君に、なるべく不自由を強いるつもりはないからね」


 軟禁は、その「なるべく」の言葉で消化される部分であるらしい。


 ――願いの全てを叶え、差し出す。ただし、彼を拒絶しない限りは。


 ライルが眉を寄せていると、彼は食事のサーブを終え、ソファの近くのテーブルに置いてあった何かしらを取り上げた。大切そうに布に包まれた――小ぶりなキャンバスのようだ。


「昨日君が欲しがっていた、君の父君の作品だ。ルヴァンツ・アイグナーではない方の、ね」


 ルヴァンツの工房を逃げ出した後、生活に追われていた父が描いた絵画など数点しか無い上に、一向にうだつの上がらなかった彼が、自らの作品として絵画が売れたためしなどほとんど無い。

 無理難題を吹っ掛けるつもりで口にした要望が、この日もまたあっさり叶えられたことに、ライルはぐっと口を引き結んだ。


 中身を検めるまでもない。

 彼が父の作品を入手したということなら、間違いなくそれは真筆なのであろう。


「さて、他になにか欲しい物はあるかい? または、してほしいことは。なんでも言ってごらん」


 彼は穏やかに告げる。

 完璧に作られた笑顔も、無表情も、ライルにとっては同じことだ。真意が読めない。


(いや、読めないわけではない、か……)


 そう考えて、ふとライルは自嘲の笑みを漏らした。


 男が女の願いを叶える。その腕に閉じ込めるようにしながら。


 支配と暴力でしかないと思っていたその行動の意図に、自分は気付いてしまったから。


 ちらりと柵の向こうのイーヴォを見つめる。彼は瞳を閉じて寝入っていた。


「……ジークハルト様」


 やるべきことはした。後は、自分で戦おう。

 自分は、塔の上に閉じ込められたお姫様などではないのだから。


「もう、やめにしましょう」


 ライルがきっぱりと告げると、ジークハルトはその碧い瞳を軽く見開いた。


「リインライン?」

「私は何度も言ったはずです。お断りしますと。その心が変わることはありません」


 手にしていたフォークをそっと皿に戻す。好物のパイが、美味しそうに湯気を立てたまま横たわっているのを、ライルはじっと眺めた。

 そして、先程までそれを頬張ろうとしていた自分の、全身を包み込む高級なドレスをも。


 美しいドレスに、豪華な食事、女性側(ライル)の故郷に建てた、住み心地の良い部屋。


 ――プロポーズする際、男性が揃える衣食住。


「ねえ、ジークハルト様。あなたのこれは、拉致監禁に、支配の為の恫喝だと思っていましたよ。でも違った。あなたは――私に、傍にいてくれと、プロポーズしていたわけですね?」


 ジークハルトは、さも意外なことを言われたとでも言うように眉を上げた。


「一点の曇りもなくそのつもりだったけれど。今まで気付かなかったのかい?」

「いえ、拉致監禁が無ければもっと早く理解できたと思うんですけどね」


 いつもライルのことを美しく装うのは、それが厳粛な場だから。

 解放以外の全ての望みを叶えるのは、「愛しい女」のおねだりだから。


「だいたいあなた、一度だって私のことを好きだとか愛しているだとか、言わなかったじゃないですか」

「君だって、僕が君をどう思っているのか、尋ねてきたことはなかっただろう?」


 確かに、「そんなに憎んでいるのか」としか聞かなかった覚えはあるが、文脈という物があるだろう。

 ライルが渋面を作ると、


「男は傷付きやすく、根に持ちやすいんだよ」


 と事もなげに答えた。


「――いずれにせよ」


 脱線しかけた話を、ライルは強引に引きもどす。


「こんな趣味のいい(・・・・・)家まで用意してくださったところ恐縮ですが、私はあなたと結婚するつもりも、妾になるつもりもありません。何度でも言いますよ、お断りします」


 自分は、したいことをして、したくないことをしない。そういう風に生きるのだ。

 ライルが力強く言い放つと、ジークハルトは瞬間表情を消した。


「……リインライン」


 しかしすぐに、あの整った、完璧な笑みを浮かべる。


 ――いや、その表情は、今まで見たどの彼の笑顔よりも美しく、神々しいほどの禍々しさに満ちていた。


「そんなの、許さない」


 ライルの背筋に、すっと悪寒が走る。


 まずい。

 本音だったとはいえ、彼の逆鱗に触れるどころか、思い切り掻きむしってしまった。


 ジークハルトはそれまで掛けていた向かいのソファから立ち上がり、ゆったりとこちら側へと移動してくる。ライルは思いがけないことに、その迫力に飲まれて、身動ぎひとつできなかった。


 ――怖い。


 これまでの付き合いで、彼の人となりは大体把握しているつもりだった。

 美しい顔の下には、ぞっとするほどの冷酷さを持ち合わせていることも、充分知っているつもりだった。


 しかしその瞬間、ライルは、今まで自分がどれだけ手加減されていたかを痛感した。


 相手への害意を滲ませ、ほんの少しだけ、日ごろの穏やかさを剥がした彼は、ひどく強く、恐ろしい、見知らぬ男性に見える。


「何、を……」

「さて。何をしようか」


 ジークハルトはあくまでも穏やかに、まるで天使のような笑みを讃えて呟いた。


「文明的対話で理解が得られなかったのだから、もっと原始的な話し合いに移行するしかないかな?」

次回ぬるいR15です。念の為。

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