21.モザイク模様の手紙
一点の曇りもなく磨かれた窓ガラスから、穏やかな冬の陽射しが差し込む。
柔らかい光は白い壁をつたい、そこに飾られた鮮やかな絵画や、透き通るような宝石、生きているかのような彫刻を静かに照らしていたが、残念ながら今、それに目を向け愛でようとする人物はいなかった。
「――ここも、だめだ……」
日当たりのよい南翼の三階。
火曜会のサロンである。
ライルが連れ去られて一週間経った今日もまた、イサベル、サミュエル、そしてルドルフの三人は、それぞれの伝手では何の手掛かりが得られなかったことを報告し合い、肩を落とした。
サミュエルが、バツ印を付けた地図をどさりと卓上に放り投げる。
「これでもうヴェレス市内は全滅。目撃情報のもの字も出てこなかった」
「わたくしも、クラルヴァイン邸に、伯爵家としても使用人同士の伝手を使っても問い合わせているけれど、相変わらずジークの足取りは一向に掴めていないわ」
「文具店にも、戻った様子は見られませんでした」
三人の間に気づまりな沈黙が流れる。
ややあって、イサベルが自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……ジークは、すっかりわたくしたちのことも『部外者』と見なしてしまったのね」
「…………」
サミュエルは何も言わない。
イサベルが、ほんの一週間とはいえ、ライルの存在を他の二人から秘匿していたのは事実だ。
もしイサベルがあと少し早く自分にも真実を打ち明けてくれていたら、という気持ちは彼の胸の内にもあったし、一方でもし彼がイサベルの立場だったとしたら、同じようにライルの存在を自分だけで独占したろうとも思う。サミュエルの心境は複雑であった。
「状況を悔やんでも仕方ありません。彼女の手掛かりを、何か一つでも掴まなくては」
ルドルフはきっぱりと告げる。
「幸い先輩方は、市内をしらみつぶしに探せるだけの財力と機動力、貴族や警邏隊にも顔が利く権力をお持ちです。場所さえ特定できれば、あとはこちらのものだ」
最後の方で敬語が取れてしまったのは、彼が自分に向けた言葉であるためだ。
冷静に見えて、彼もまた焦っていた。
ライルと出会ってから、わずか三週間。
しかし、寝食を共にし、絵画という新たな世界を導いてくれ、彼の心の奥の冷え固まった部分をそっと解してくれた彼女は、もはや彼にとってかけがえのない人物になっていたのだ。
「……わかってるさ。しかし、こうも手掛かりが無いとなると……」
苛立たしげにサミュエルが息を吐き、艶やかな茶色の髪を掻き上げようとしたその時。
「あのう…――」
控えめなノックと共に、窺うような男性の声が掛かった。
イサベルとサミュエルが怪訝そうに顔を見合わせる。しかし、イサベルは扉に向かって「どうぞ」と声を掛けた。
「失礼いたします」
果たして、ひょこひょこと忙しない足取りで現れたのは、今日もでっぷりとした体形を外套で覆い隠した――ゾルガーであった。
「まあ……ゾルガー様。今日はどのようなご用件で?」
「そ、そんなイサベル様! 先日のわたくしめの失態へのお怒りは、まだ解けていらっしゃらないのでしょうか! 挽回の機会をくださると、そう仰ったではございませんか……!」
しょぼくれた目を精いっぱい瞬かせて、ゾルガーが大袈裟な身振りで訴えかける。
その仕草と叫びを数秒吟味し、イサベルは「ああ」と眉間の皺を消した。
「……そうでしたわね。先週のサロンに間に合わなかったヴァニタスの代わりに、今日新たな絵画を持ってくるよう、言ったのでしたっけ」
「はい!はい!さようでございます!」
ゾルガーは我が意を得たりといった様子で頷いたが、周囲の反応が一様に薄いことに視線を彷徨わせた。
「ええと……。私、またサロンに遅れたなんてことはございませんよね?」
「――……ああ」
彼と面識のあるサミュエルが、実に面倒そうに頷く。
ぞんざい、としか言いようのない相槌だったが、ゾルガーはほっとしたように再び叫んだ。
「サミュエル様!よかったです! あなた様の忠実なる僕、ゾルガーは、本日このサロンにて新作を披露できるのをどれだけ楽しみにしていたことか。――ああっ、あなた様は先日の、ルドルフ・クレンペラー様ですな! その節はどうもありがとうございました!」
沈鬱な空気をものともしないゾルガーは、ある意味勇者だ。
彼はにこにこと部屋に踏み入りながら、「お借りしますよ」と断りを入れ、イーゼルに新作の絵画を立て掛けた。
「こちらが、わたくしめの新しいヴァニタス、『果物のある風景』でございます。まず意識したのは、画面全体を彩る、生命を思わせる赤の色彩と、それが爛熟を迎え徐々に沈んでいくことを意識した暗い色調へのグラデーションでして、中央にあります林檎は――」
彼はよほど舞い上がっているのか、許しも得ず勝手に解説をしはじめる。
しかし、その場にいた誰もが、彼の説明に耳を傾けないどころか、その作品に視線すら向けていなかった。
というのは、
「ゾルガー。その手紙は……?」
彼がキャンバスを包んでいた布を開いた瞬間、はらりと落ちた手紙に、皆の注目が集まったからである。
ゾルガーは一瞬きょとんとした後、「やや!」叫んでそれを拾い上げた。
「申し訳ございません!こちら、先程受付を済ませた際に、サロン宛てということで特別に託ったのであります。なんでも、お三方に宛てた手紙ということで」
「…………!」
ルドルフ達は一斉に顔を見合わせた。
イサベルとサミュエルの両名宛てならまだしも、会に加わったばかりのルドルフまで含めた手紙など、そうそう来るはずもない。
まさか、という予感が、瞬時に三人の脳裏に走った。
「か、貸してちょうだい!」
イサベルが慌てて立ち上がり、普段の滑らかなマナーもかなぐり捨てて走り寄る。
目を白黒させているゾルガーから手紙を奪った彼女は、差出人の名前を見てさっと顔色を変えた。
「ライラからよ……!」
「なんだって!」
「本当ですか」
ルドルフ達も血相を変えて立ち上がる。イサベルは封筒を開けるのももどかしいといった素振りで、手早く封蝋を弾き、便箋を引き出した。
途端に手から滑り落ちた美しい柄の封筒も、そのままにする程の慌てぶりである。
ゾルガーがわたわたとそれを拾い上げていたが、ルドルフもサミュエルも、彼をよそにイサベルの手元を覗き込んだ。
「なんて書いてありますか?」
「……待って。……そう、彼女は……。……なんですって?」
素早く文面に視線を走らせたイサベルが、驚いたように目を見開く。
「なんですって……?」
彼女は片手を額に当ててもう一度同じことを呟くと、呆然とした表情のまま手紙を二人に差し出した。
「あなた方も、直接読んでみてちょうだい……」
サミュエルとルドルフが奪うようにして手紙に齧りつく。
そこには、ものぐさな彼女にしては意外なほど綺麗な筆跡で、こう綴られていた。
前略 イサベル様、サミュエル様、ルドルフ
お元気でしょうか。私は元気です。
先日からすっかり失踪してしまい申し訳ございません。
心配されているかと思い、念の為筆を取らせていただきました。全ての苦情はジークハルト様までご連絡ください。
一年ぶりにジークハルト様と再会して別荘に招かれ、積もる話をしてみたのですが、思いの外それが楽しく、気付けば時間を過ごしてしまいました。
特にギャラリーの充実度は素晴らしく、ルヴァンツの初期の作品もあるというそうなので、あともう一週間ほど滞在したら帰ります。
どうぞご心配なく。
草々
「……なんだ、これ」
サミュエルがぽかんと口を開ける。
それほどに、能天気なそれは内容であった。
「は? 何? ジークとすんなり和解してるって?」
「しかも、あと一週間したら帰ってくるですって……?」
その時の彼らの表情を言葉に置き換えるなら、「脱力した」というのが最もふさわしいであろう。
念の為イサベル達が検めたが、筆跡は確かに彼女のものだったし、あぶり出しやアナグラムが使われている様子も無い。
そもそも、こんなふてぶてしい文面が紡ぎだせるのは彼女くらいのものだった。
「……脅されて書いているとか?」
「だとしたら、もうちょっと何か匂わせるようなことを書くでしょう、彼女ならば」
サミュエルが最後の可能性を上げるが、イサベルがそれを取り下げる。
ちなみにすっかり会話に取り残されたゾルガーは、封筒を握り締めたまま、おどおどと部屋の隅で出番を窺っていた。
「…………いえ」
しかし、ルドルフがぽつりと告げる。
「やはり、おかしいです」
「え?」
イサベルが振り向く。不思議そうに瞬いた琥珀色の瞳に向かって、ルドルフは小さく頷いた。
「彼女は、ルヴァンツなんて大嫌いなはずだ」
「なぜ?」
サミュエルが戸惑ったように声を上げた。
「ルヴァンツと言えばヴェレスが誇る大画家だし、君は知らないかもしれないが、彼はライラの義父君だ」
「……今、なんて?」
ライルは下級貴族に引き取られた、としか聞いていなかったルドルフは、その正体がルヴァンツであると知って瞠目した。
「そうよ。ライルは学院で隠し通そうとしていたけれど、アイグナー男爵はかの有名なルヴァンツ画伯。その……下町に住んでいたライラのお母様とライラを引き取り、お母様が病死された後も純愛を捧げて結婚せず、養女のライラに一流の教育を与えるべく学院に導いた、人格者として知られる人物よ」
「……それは」
ルドルフは眉を顰めた。彼がライルから聞いた話と、だいぶ異なる。
「本人から聞いた話ですか?」
「……いや、ライラは学院で彼の話をしようとしなかったから。これは、ライラの母君の元仕事仲間から聞いた話だ」
つまり、娼婦からということだろう。
苦界から足を洗い、男爵夫人に収まったライラの母への嫉妬が混ざっている可能性をもルドルフは瞬時に考慮し、
「……ならば、尚更それは間違いです」
きっぱりと言い放った。
「……なんだと?」
「彼女は、ルヴァンツ――アイグナー男爵に引き取られる前の生活を気に入っていました。しかし、それを彼が引き裂いた。母君が自殺し、もう自分は用済みになったから学院に放り込まれたと言っていましたし、彼女は『ルヴァンツは大嫌い』というのを合言葉にして裏通りで働いていたのです」
本人から直接聞いたのだから、こちらの方が正しいはずだ。
力強く告げると、イサベル達は「そんな……」と呟いた。
「つまり、この手紙の内容は嘘。少なくとも、何か手掛かりを散りばめているに違いありません」
ルドルフは改めて便箋を手に取り、それを矯めつ眇めつした。
ライルがジークハルトの元にいるのは間違いない。そして、彼女が助けを求めているというのも。
手紙を出してこれたということは、ジークハルトもこの手紙を検めているということだ。つまり、額面通りの内容からは、手掛かりは読み取れない。
かといって、アナグラムでもなく、あぶり出しでもなかった。
ならば彼女は、一体どういう手段で自分たちにメッセージを寄越そうとしたのだろう。
(ライの性格をよく考えろ)
ルドルフは自分に命じた。
人は、思い付ける範囲でしか表現をすることはできない。
彼女が何らかの手法を取ったなら、それは彼女にとってなじみ深いものであるはずだ。
(単語に寓意を込めた? いや、何かを描写するような文章ではない。ではルヴァンツの絵にヒントが? ――しかし、どの作品かもわからない)
思い出せ。彼女は今まで自分に何を教えてくれたか。
ルドルフがぐっと眉を寄せていた時、
「あのう……」
すっかり存在を忘れられていたゾルガーが、そっと呼び掛けてきた。
「どうも、本日はお取り込みのようで……」
媚びと拗ねを絶妙にブレンドした囁きに、ルドルフ達はぱっと振り返る。
彼はようやく集まった注目にほっと胸を撫で下ろしながら、首を傾げた。
「もしお忙しいようでしたら、本日は私、お暇いたしましょうか?」
「――ええ。悪いけれど、そうしてくださる?」
本当はもう少し居たいのだが、といった含みを持たせた彼の発言は、ばっさりとイサベルによって切り捨てられた。
「そ、そうですか……。かしこまりました。それでしたら、あの、本日はこの絵、こちらに置いてまいりますので。あっ、こちらの封筒も……」
そう言って、しょんぼりと握り締めていた封筒を差し出す。
イサベルは、封筒の方にも何か手掛かりがあるかもと考え、改めてそれをひっくり返したが、しばらくして溜息を吐いた。
「彼女の名前以外には消印すら無いわね」
「それでも、受付から辿ってみよう。これだけ色鮮やかな封筒だ。何か印象に残っているかもしれない」
サミュエルが躊躇いがちに申し出る。
ルドルフは、彼らが卓に伏せた封筒を手に取り、まじまじとそれを眺めた。
モザイク模様というのだろうか。色とりどりの小片が、無数にひしめきあっている柄である。
桃色、若草色、黄色、枯葉色、灰色。
先程サミュエルは色鮮やかと表現していたが、自分にはあまりその色味の差がわからない。
中でも恐らく黄緑と橙が多用されているのだろうが、その二つは、ルドルフにとっては非常に近しい色に見えるのである。
「――……」
と、封筒を見つめていたルドルフの目が大きく見開かれる。
「ルドルフ?」
突然硬直しだした彼を見て、イサベルが怪訝そうに眉を寄せた。
「どうなさって?」
「……は、どこですか」
「え?」
ルドルフの青灰色の瞳がきらりと光を弾く。
そこには、衝撃と、驚愕と――紛れもない歓喜の色があった。
「セルスローの町とは、どこにありますか」
彼は、他の皆にとっては美しいモザイク模様でしかないその封筒をぎゅっと握りしめ、力強く問うた。




