19.ルヴァンツの傲慢(中)
ルドルフというのは、基本的に女性に優しく礼儀正しい少年である。
口調を乱すことも滅多にないし、手を上げるなどということはまずしない。
女性の部屋に招かれようものなら、三度は断り、それでも誘われた場合には扉を開け放して適切な距離を守る。
そういう教育を受けてきたし、彼自身それが当然だと思っていた。
しかし、今、ルドルフは初めて、目の前の高貴な女性の肩を掴み、揺さぶりながら詰ることができたらどんなにいいだろうと考えていた。
「――……つまり、あなた方の仰っていたリインラインとはライのことで、あなた方は、彼……いや、彼女の部屋に、私欲のために火を放ったと?」
緑を基調としてまとめられた、広く快適な部屋――イサベルの自室である。
ルドルフは、ベッドに横たえたサミュエルを、イサベルと共に見守りながら、話を聞いていたところであった。
「……その通りよ」
ぽつりと答えるイサベルの横顔には、薔薇と謳われる普段のような華やかさなど欠片も無い。
化粧も着替えもせずベッド脇に腰掛けた彼女は、ひどく弱々しい女性に見えた。
ライルが連れ去られた、その後。
ルドルフは、いつまで経っても戻って来ない友人のことを心配し、ひとまずベルタを学院の衛兵に預けてから、サミュエル達が駆けていった道を辿ってみたのである。
するとそこにライルの姿はなく、代わりに意識を失ったサミュエルが倒れ込んでいた。
「サミュエル様!?」
さてはライルが盛大に蹴りでも食らわして、彼を沈めたのか――事情はよくわからなかったが、友人はひどくこの青年から逃げたがっていたようだから――と一瞬思ったルドルフだったが、その疑いは、揺さぶられて意識を浮上させたサミュエルによって即座に否定された。
「ラ……イ……が、連れ去られ……。彼女を、助、け……」
「なんだって?」
不穏な発言に、思わずルドルフは敬語も忘れて呟く。
連れ去られたというのにもぎょっとしたし、「彼女」という単語にも、彼は違和感を覚えた。
そう。サミュエルは先程から、やたら友人の名前をこう呼んでいる。
――ライラ、と。
「まさか……」
嫌な予感が喉元までせり上がるのを感じ、ルドルフは眉根を寄せたが、
「ジーク、が……」
サミュエルの途切れ途切れの言葉に、慌てて耳を澄ませた。
「すみません、先輩、今なんて? ライルはどうしたんですか? ――というか、大丈夫ですか!?」
今すぐにでも揺さぶって事情を聞き出したいところだが、医者の息子として育ってきたこれまでの時間が、それを押しとどめた。
月光にもサミュエルの顔はひどく悪いし、とにかく彼をどうにかしなくてはならないだろう。
「痺れの、毒……。イサベルに……助けを」
サミュエルが無謀にも立ち上がろうとして、がくりとその場に膝をつく。
ルドルフは彼に肩を貸しながら、「イサベル様の元に行けばよいのですね!?」と聞き返した。
彼女が、下手な校医などよりもうまく毒を扱うことは、以前の騒動で知っている。
ルドルフは、校舎のすぐ近くで生徒が騒動に巻き込まれたことを学院に報告するべきかどうか、己の常識と素早く問答を交わしたが、結局はサミュエルの言葉に従った。
どうも火曜会の最後のもう一人がこの件には関わっているようだし、ライルが今どうなっているともわからないのに、報告に伴う煩雑な諸手続きをこなせる余裕が無いように思われたからだ。
寝静まった女子寮に初めて踏み入ると、既にゾルガーから絵画が偽物であったことを聞いていたイサベルは、真っ青になって二人を自室に引き入れた。
そうして、震える手で素早く解毒を施しながら、彼女はライルの正体と、火曜会が過去に何をしてきたのかを、語りはじめたのである。
「本当に愚かな……絶対にしてはいけないことを、してしまったのだと思っているわ。けれど、その時のわたくし達は、この先もずっと彼女と一緒にいられるというジークの言葉が、たまらなく甘美なものに思えた。だって、そうでもしなければ、彼女はすぐにわたくし達の元から飛び立って行ってしまいそうだったから……」
イサベルは、ジークハルトが放火計画を持ち掛けてきた、前日の遣り取りを思い出していた。
「ちょうど、彼女と出会って一年がたって、学年を一つ上がった時に、ジークが彼女に聞いたことがあったのよ。学院で過ごせる時間は短い。卒業したら、クラルヴァイン公爵家に来ないかと」
サミュエルもまたアルテンブルク侯爵家に来るよう誘いかけ、イサベルも、結婚して家は変わろうとも、破格の待遇で侍女に雇うことを提案した。
しかし、どれに対してもライルの答えはたった一言。
「『お断りです』と、そう言われたわ。卒業した暁には屋敷に戻ってきてよいと父から言われているから、そこで養子縁組を解消して、絵師にでもなる、放っておいてくれと」
ライルらしい答えに、ルドルフは黙って聞き入った。
「ふふ……。こう言うとあなたは眉を顰めるでしょうけれど、学院で最も権威ある三人からの申し出を、彼女は取りつく島も無く断ったのよ。ジークもサミュエルもちょっと残念そうな顔をしただけだったけれど、わたくしはとてもショックだった。――でも、きっと、顔に出さなかっただけで、ジークも傷付いていたのでしょうね。彼は翌日、ライの居場所を奪い、わたくし達の元に堕ちてくるよう、計画を持ち掛けてきた」
結果は、サミュエルが語ったとおりである。
「……ジークハルト様というのは、それほど……矜持の高いお方なのですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも。わたくしは、このやり取りが、ジークが動いたきっかけだと思っているけれど、もしかしたら他の何か要素があったのかもしれない。彼はいつも、心の中を他人には見せないわ。何を思い、何を得ようとして、わたくし達に話を持ち掛けてきたかはわからない。――ただ、ジークも強く彼女に執着していたことは確かよ」
イサベルは自嘲気味な笑みを浮かべると、汗を浮かべているサミュエルの額を、そっと濡らした布で拭った。
「――なぜあなた方は、ライにそこまで執着するのですか?」
ぽつりと、ルドルフが呟く。
額を拭っていた白い手の動きが、止まった。
「……心地よいのよ」
イサベルが布を盥に戻し、祈るように両手を組む。
彼女はそれを額に押し当て、まるで許しを乞う罪人のように、掠れる声を出した。
「……前にサミュエルも言ったとおり、わたくし達はひどく息苦しい世界で生きている。女であることに倦み、あるいは能力と時間を持て余し、でも顔では綺麗に笑って日々を過ごす……そういった人間にはね、彼女のきっぱりとした揺るぎなさが、たまらなく眩しく思えるの。彼女の飾らない言葉がすっと胸に入って来て、苦しくてたまらなかった呼吸を、楽にしてくれるのよ。……やがて、それなしには息の仕方すら覚束なくなる。そこらの毒以上によほど強力な、麻薬のような子よ」
ルドルフは、タコと傷でぼろぼろになった己の掌に視線を落とした。
イサベルの発言はわからないでもない――いや、わかりすぎるくらいだ。
自分もまた、ライルが何気なく放った言葉に、どうしようもなく救われた人間だったから。
「ジークも中毒になった一人。彼は公爵子息として、わたくし達以上の重圧を背負って生きてきた。貴族の娘の美貌が値踏みされる価値であるように、彼の場合は、その微笑みひとつ、いえ、視線の一かけらですら、取引の材料であり演出だった。ただ面白いから笑う、哀しいから泣くだなんてこと、彼はしたことがなかったのではないかしら」
イサベルはそっと目を伏せた。
彼女やサミュエルは幼いころから彼の友人であった。しかしそんな自分達であっても、彼の偽りない表情など見たことがなかったのだ――彼女が、学院に現れるまでは。
「ライと一緒にいる時、ジークは無表情か、せいぜい目元を和ませるくらいのことしかしなかった。他ではにこやかな、微笑みの貴公子なんて言われているにもかかわらずね。でもそれが、それこそが、彼の本当の、感情から湧き出た表情なのだとわたくしは思うわ」
「…………」
やがてイサベルは、ルドルフに向き直るとその両手を取った。
「お願いよ、ルドルフ。わたくし達がこんなことを言える義理でないのはわかっている。でも、わたくし達がライに再会できたように、ジークにも彼女を会わせてあげたい気持ちも、本音を言えばあったの。彼がライの命を危うくすることなど絶対にないわ。きっとジークの目的が果たされたなら、彼女は帰ってくる。だからどうか、この件はわたくし達に任せて――」
「なりません」
ルドルフは、涙すら浮かべる女性の懇願を、初めてきっぱりと退けた。
「私には、友人のライを探す資格があるし、あなた方には彼女を探し救い出す義務がある。――それも今すぐに、です」
「ルドルフ……」
「傍に置きたいからという理由で、部屋に火を放つ人物ですよ? いくら彼女を散歩に出るよう仕向けていたとしても、そうならない可能性だってあった。そもそも、乾燥した冬場に火を放たせたり、親を失った少女から更に居場所を奪おうとするだなんて、常軌を逸しています。確かに彼にはライを害するつもりはなかったのかもしれない。ですが充分、その行いは彼女を傷付けました。そんな人の元に、どうしてライを止め置けるのですか」
イサベルは押し黙った。
ルドルフは黒い瞳を彼女から引きもどし、横たわるサミュエルへと向ける。
「私たちがライをそのままにしていいのは、彼女がそう望んだ時だけです」
それは彼なりの、最大の譲歩だった。
ルドルフとて、簡単に人の心を解してしまうライルの魅力や、イサベルが幼馴染に肩入れしたい心境はわからないではない。
しかし、だからといって、彼女がそれを望まないのに、その自由な翼が捥がれるのを見過ごすわけにはいかなかった。
彼女はいつだって、したいことしかせず、したくないことはしない、そういう人物なのだから。
「まあ、彼女がいつまでも、大人しく捕まっているとも思えませんし」
「…………」
イサベルはしばらく口を閉ざしていたが、やがて泣きそうな、笑いそうな、複雑な表情を浮かべて、小さく頷いた。
「……そうね」
そうして、サミュエルに再び視線を落とす。
「わたくし達も、そろそろ彼女なしに呼吸できるように、ならなくては――」
琥珀色の瞳が見つめる先では、サミュエルが瞼をぴくりと動かし、意識を取り戻しはじめていた。




