18.ルヴァンツの傲慢(前)
目覚めは滑らかだった。
ふと意識が浮き上がる感覚に合わせて目を開くと、まず飛び込んできたのは豪奢なシャンデリア。
焦点が合うのを待ちながら、ライルはぼんやりと周囲に視線を投じた。
落ち着いた色合いの壁に、埋め込まれるようにして飾られた大量の絵画。
柔らかそうなソファに、アンティークのテーブルセット、物書き机。
今自分が寝かされているベッドも、体が沈みこみそうな程に柔らかく、温かい。
(ここは……――?)
これまでの経緯を手繰り寄せて、ライルは眉を寄せた。
確か自分は、学院を出ようとしたところを、サミュエルのいざこざについ駆けつけてしまい、そこで揉み合った後――ジークハルトに捕まったのだ。
「――……い、……イ!」
布を当てられた瞬間意識を失ってしまったため、今が何時で、どこにいるのかさっぱりわからない。サミュエルは無事だろうか。
「……おい、ライってば!」
いや、相当鍛えているようであるサミュエルはともかくとして、ルドルフも置いてきてしまった。
さぞ心配しているだろう。心労のあまり禿げたりしていなければいいが。
「ライ!」
野太い声で呼ばれ、ライルはようやく我に返った。
声のした方に顔を向け、そこで更に目を見開く。
「――……イーヴォ」
そこにいたのは、夢に出てきたのと同じ、髪と髭がすっかり繋がった獣がごとき従業員だった。
「おい、だいぶ魘されてたぞ? それはまだしも、最後の辺りで急ににやにやしだしたから、起こしちまったぜ。どうしたんだ」
「そこは魘されている時点で起こしましょうか。ヒト社会の常識ではそちらが正解です」
脊髄反射で答えてから、ライルはぐっと眉を寄せた。
「……なんなんですか、この状況は?」
そう呟くのも無理はない。
それだけ、ライルたちを取り巻く環境は異様であった。
彼女がいるのは、豪奢に設えられた快適な部屋。
しかし、美しい室内には窓が一つも無く、あるのは鉄製の扉だけ。
扉の反対側には今ライルが寝かされているベッドがあり、そのベッドの側面には壁ではなく、天井から床まで突き刺さった、強固な鉄柵があった。
柵の向こうには石が剥き出しの牢。
ちょうど一つの巨大な密室が、柵によって快適な部屋と牢屋に二分されているような格好だ。
そしてその牢屋の方には、――両手を鎖につながれたイーヴォが、床に座り込んでいた。
彼は、最後に会った時よりもだいぶ伸びた髭に埋もれるように、「わりわり」と笑みを浮かべた。
「しくっちまったぜ」
「…………」
その言葉で、ライルは一通りのことを悟った。
ベッドから身を起こし、二人を隔てている柵に向かって腕を伸ばす。
鉄の塊にそっと触れて、ライルは静かに問いかけた。
「……あなたは、クラルヴァイン家の傭兵だったんですね」
「…………」
「なぜ私を学院に向かわせたんです? 次期当主が望んだ獲物を、今頃になって差し出すため?」
イーヴォが静かに肩を竦めたのを見て、ライルは「嘘ですよ」と呟く。
「それなら、もっと早くできたはずだし、文具店であなたが戦う必要もなかった。あなたは、下町の店まで嗅ぎつけた追手と私の代わりに戦ってくれたばかりか――私を学院に差し向けることで、逃がそうと……してくれたんですよね」
「…………」
「……ばか」
ライルはイーヴォを見つめた。
大きな傷こそ見えないが、天井から吊るされた鎖に自由を奪われ、頬をこけさせた男の姿を。
「せっかく髪を整えて、シティゴリラくらいにはなったのに。また髪と髭が繋がって、すっかり野生化してしまってるじゃないですか」
「ワイルドな男の魅力が迸ってるだろ?」
「…………」
なんだよ、とイーヴォは大きな口の端を引き上げた。
「今のは笑うとこだよ。ほら、泣いてんじゃねえよ。せっかく可愛い格好してんのに、もったいねえぜ?」
「……泣いて、など」
咄嗟に目尻を拭ってから、ライルは今の自分の姿をまじまじと見下ろした。
「……なんですか、これ」
身につけているのは、グリーンを基調とした、刺繍の美しいドレス。今は布団に隠れて見えないが、恐らくは足までたっぷりと覆う丈の物だろう。
首元には繊細なつくりの金細工が掛けられ、極め付けに、艶のある長い金髪がさらりと肩を覆っていた。
「普通の化粧してるとこ、そういや久々に見たよ。やっぱあんた、美人だな」
「鬘に、化粧まで……?」
警戒も露わに翡翠の目を細めた、その瞬間。
「そう。とても美しいよ、リインライン」
扉の元から穏やかな声が響き、ライルはぱっと振り返った。
一瞬遅れて、蜂蜜色の髪が頬を打つ。
「――……ジークハルト、様」
そこには、立ち姿すら一幅の絵画のような、美貌の貴公子の姿があった。
「よく眠れたようだね」
彼はすらりと長い脚を優雅に動かし、ゆったりとこちらに近付いてくる。
無意識にじり、と後ずさったライルの背中に、鉄柵ががしゃんとぶつかり音を立てた。
「そんなに険しい顔をしたら、せっかくの愛らしい顔が台無しだ。痺れはないだろう?」
そう調合したから、と彼が嘯いたその言葉は、きっと事実なのだろう。
彼は、呼吸するように陰謀を巡らし、笑顔で人の部屋を焼き払い、まるで紅茶の葉をブレンドでもするように毒を調合する、そういう男だから。
「……一体、どういうおつもりで?」
「まあこちらへお座り」
ジークハルトが優しい顔でソファを勧める。
ここで争っても、多大な労力を費やした挙句彼に従うことになるのは目に見えていたので、ライルは無言で移動し、腰を下ろした。
「こうやって君と話すのも久しぶりだ。何か淹れよう。君はレーベルクの茶葉が好きだったね?」
「……いえ、結構です」
「そう、そして砂糖は入れない。愛らしい顔に反して、君の好みはいつでも男らしいね」
ジークハルトはあくまで優しげな口調を崩さず、滑らかな動作で紅茶を淹れてみせた。
ライルはそれに口を付けることはしなかったが、それでもわかる。きっとこの紅茶は、一流の茶匠が淹れたかのような完璧な味と香りがするのだろう。
「……ここは、どこですか?」
「新たに作った『隠れ家』だ。なかなか快適だろう?」
君は冬が嫌いだったようだから、寒さ対策には万全を期したんだ。
彼のその言葉通り、部屋からは何一つ、凍えるデンブルク王国の初冬の気配は感じられなかった。
――いや、厳密に言えば、太陽の光や、風の音さえも。
「……私を、そして無関係の彼までをも監禁して、どうするおつもりです?」
「おやおや、この状況で他人のことまで気に掛けるなんて、君はやはり優しいね」
白く長い指でカップを摘まみ上げ、優雅に紅茶を味わう彼に、ライルはきっと眦を釣り上げた。
「――あなたはすぐ、そうやって人の性格や行動を描写する言葉を口にする。意識的か無意識か知りませんが、人の行動を操ろうとするのはやめてもらえませんか? 鬱陶しい」
そう、ジークハルトが穏やかな笑みを湛えて人を褒める時は、相手にその通りの行動を期待する時だ。
綺麗だね、愛らしいね、優しいね。
神が丹精込めて創り上げたかの美貌を持つ彼は、無表情だととても近付きがたい。
しかし、いや、だからこそ、彼がひとたび表情を綻ばせ、相手を肯定するような言葉を紡ぐと、人は有頂天になり、その通りに振舞おうとしはじめるのだ。
一方で、彼が軽蔑するような顔で相手を切り捨てると、人はその身の全てを捧げて慈悲を乞おうとする。
そうして彼は、それを存分に行使し、微笑み一つ、囁き一つで、人を自由に操って来ていた。
他人がそれに気付いているかは知らない。
だがライルは、まるで美しい絵画が人の視線を引きつける様を観察するかのように彼を分析し、その事実に気付いていたのだ。
「……手厳しいな」
彼は苦笑し、肩を竦めた。
「人を拉致して、監禁するような人物を相手に、お手柔らかに臨む人がいますか。はぐらかさずに教えてください。ここはどこです。あなたは……火を放ち、無関係なイーヴォを巻き込んで監禁する程、私のことを憎んでいるのですか」
「イーヴォ? ……ああ、十三番のことか」
ジークハルトは金色の睫毛を瞬かせると、軽く首を傾げた。
「関係ならあるよ。君も気付いているんだろう? 十三番は我が家の傭兵だ。末席だけどね」
「十三番ですって?」
ライルは眉を顰め、背後の柵の奥に座すイーヴォへと振り返った。
「……ほんと、ブラックな場所にお勤めだったんですね」
「言ってくれるな。社員番号のようなもんだ」
名前すら呼ばれない環境を、イーヴォは事もなげに片づけた。
「そうだね、彼は我が家に忠誠を誓い、永らく仕えてきてくれた一家の一人だ。実に真面目な働きぶりだったんだよ――君に会うまではね」
「…………」
あくまでも穏やかに、聞き惚れるような声で説明を続けるジークハルトを、ライルは黙って見つめた。
彼はカップをソーサーに戻すと、持って来たらしい焼き菓子の包みを開けて、彼女にも「お食べ」と勧めた。
「……なぜ今頃になって、彼と私を捕まえに来たんですか」
「食べないのかい? なら次は違うものを持ってこよう」
「ジークハルト様!」
声を荒げるライルに対し、彼は用無しとなったクッキーをゴミでも眺めるかのような目で見つめ、「そうだね」と呟く。
「本当ならもっと早く再会できるはずだった。しかし十三番は、その大ぶりな外見とは裏腹に、実に細やかな隠蔽工作が得意でね。一年もの間、君達の居場所はごまかされ、裏を掻かれ……先日になってようやく居場所を突き止めたという、大変肩身の狭い話だ」
ライルの脳裏に、めちゃくちゃに破壊された店内の光景が蘇った。
裏通りの文具店はジークハルトに目を付けられた。だからこそ裏をかいて、イーヴォは自分を学院にやったのだろう。
「けれどお陰で、あまり物事に動じない君の弱点がわかったよ。彼だ」
「……どういう意味ですか?」
翡翠の瞳をぐっと細める。
しかしジークハルトは、その美しい笑みに一つの動揺すら浮かべず、すっと牢を指した。
「彼が捕らわれている限り、君はここを逃げ出そうとしないだろう」
「……彼のゴリラめいた力を舐めない方がいいですよ。いざとなれば、私が逃げようが逃げまいが、彼は自身の力でこんな場所を脱出できる」
「さて、どうかな」
彼は長い脚を組むと、そこに肘をついた。
「彼のね、両手を封じている鎖があるだろう。頑丈な、鉄製の」
「そして悪趣味な、ね。でもそれだって、彼の手に掛かれば濡れた紙も同然です」
「そう。しかし、その鎖が切られると、今僕たちの頭上にあるシャンデリアが落下する」
ライルは「は?」と眉を寄せた。
「わからないかい? あの鎖は牢の天井に繋がり、そこから柵をまたいでこちらの部屋の天井へと渡され、この巨大なシャンデリアを吊り下げているんだ。彼が体重を掛けてくれているおかげで、この美しい照明器具は天井にあって君を照らしてくれているわけだね」
「……それって」
さっと血の気が引くのを感じる。
シャンデリアは天井の大部分を占めるほどの巨大さだ。それが落下してきたらひとたまりもない。
「もし十三番が鎖を解こうものなら、残念ながら君の命が危険に晒される。シャンデリアの先端――ほら、あそこの部分には、揮発性の高い毒を仕込んであってね。部屋の隅に逃げていたとしても、薄い硝子が割れてしまったら、部屋中にも牢中にも、それが充満するというわけだ」
「ど……っ」
ライルは絶句した。
「ど?」
「ドン引きですよ!一体どれだけの人間性をかなぐり捨てれば、そんな悪趣味な仕掛けが思い付くんですか!?」
ジークハルトはきょとんとした後、照れたように微笑んだ。
「人間の域を超えているだなんて、さすがに面と向かって言われるとね」
「神の方向にじゃないですよ!? 獣か悪魔の方向に逸脱してるっつってんですよ!」
不要なポジティブさを見せた彼に、ライルは盛大に声を荒げた。
「さて」
と、ジークハルトは空気を切り替えるように手を払うと、話を元に戻す。
「どうするつもりか、という君の問いに答えていなかったね。――簡単だ、僕はこの落ち着いた環境で、君に提案と説得を続けるつもりだよ」
「提案と、説得……?」
「そう。僕の傍に、これからも居てくれないかとね」
その透き通るような碧の瞳に、真剣な光が宿った。
「何を……」
ライルは困惑を隠せなかった。正直なところ、彼女には、ジークハルトの考えがさっぱり理解できなかったのだ。
確かに一時期、火曜会のメンバーから自分は執着されていた。
イサベルはあからさまにライルを傍に置きたがったし、サミュエルだっていつも時間を独占しようとしてきた。
しかしその中にあって、ジークハルトは常に、自分に対して冷静に振舞っていたように思うのだ――もっとも、学院では彼へのファンが一番多かったため、迫害に遭った原因の大半はそれでも彼にあったが。
そして、一度だけ彼がライルに、卒業後もこうして一緒に過ごさないかと誘いかけてきた時、ライルはそれを断った。
するとその翌日、火が放たれた。
つまり自分は、彼にとって、懐かないばかりか彼のプライドを傷つけた、苛立たしい存在でしかないはずなのだ。
ジークハルトは真意の見えない表情で告げた。
「君は義理堅い。一度交わした約束を違えることはないだろう。だから、一度でいい。これからも傍にいると、そう誓ってくれたなら、君をこの部屋から解放しよう」
「…………」
ライルは再び押し黙った。
舌先だけで、彼が求めることを誓ってみせるのは容易い。
しかし、彼はジークハルト・フォン・クラルヴァイン。悪魔のような男だ。
その言質が、一体どんな禍をこれからもたらすことになるのか想像もつかなかったし、――それに、自分はもう、したくないことはしないと、そう決めたのだ。
ただ諾々と、瞳に諦念を浮かべながら、親や周囲の都合に流されてきたこれまでとは違う。
自分は、自分だけは、自らの信念を否定してはならないのだ。ライルはそう考えた。
「――まあ、即答が難しいというなら、それでかまわない。時間はたっぷりあるから、ゆっくり考えるといいさ」
紅茶を飲み終えたジークハルトは、そう嘯くとソファから立ち上がった。
「食事や着替えは都度届けよう。君が望むなら画材道具も用意する。暇は嫌いだろう? また来るから、それまで、十三番――イーヴォと言ったっけ。彼と久しぶりの会話を楽しむといい」
ではおやすみ、リインライン。
最後にそう告げて、彼は手本のように美しい立ち姿で部屋を去った。




