17.埃の色彩(後)
それはまるで、唸り声を上げ、今にも檻から飛び出して爪を立てんとする、獰猛な獣のようだ。
しかしそれでも、彼女は微笑みを崩さなかった。
「だめ。そんな黒くて可愛い目で見つめられたら、撫でたいとしか思えません」
「……はあ!?」
青年は今度こそ絶句した。
「嬢ちゃん、あんたどういう感性してんだよ」
「どういうって、至って普通の価値観の持ち主ですが」
彼女はいけしゃあしゃあと答えると、問答に飽きたように笑みを消し、目を閉じた。
「……おい?」
「寝ます。あなたは居付くなり出ていくなり、盗むなり殺すなりご自由にどうぞ」
ぎょっとしたらしい青年が、一纏めにしていた両腕から手を放した。
「なんだよ、それ!」
「なんですかね。緩やかな自殺ですかね。やっぱり今ここで寝たら凍死しますよね?」
「無邪気に質問してんじゃねえよ!」
青年はよほど毒気を抜かれたようだ。二の句を告げずにいる彼に向かって、彼女は片方の目を開けた。
「おや。殺すんじゃなかったんですか?」
「……なんかそういう空気じゃねえよ」
「ふふ」
雰囲気のせいにする青年がおかしくて、彼女は笑った。
「ほら。あなたは殺さないでしょう」
そう言って、また目を閉じる。
青年は押し黙って彼女を見つめていたが、やがてごそごそと巨体を起こすと、どこからか古びた毛布を持ってきた。
「おら」
「おや」
「埃っぽいのは我慢しろよ。これ一枚しかもう残ってねえんだから」
ふん、と鼻を鳴らすと、彼は再び立ち上がった。踵を返し、どこかに向かうようだ。
途端に、少女はすっと身を起こした。
「……行ってしまうんですか?」
「なんでそこで起きるんだよ」
「寂しいじゃないですか」
口を尖らせると、青年は「はあ!?」と声を裏返らせた。
「おまえ、初対面の怪しげな男捕まえて何言ってんだよ!」
「そうですね。何かお話しましょう?」
「繋がってねえよ!」
叫ぶ青年に、彼女は拗ねたように解説した。
「だから、初対面じゃなくするように、親睦を深めましょうよ」
またしても、彼は毒気を抜かれたようだった。
窓の向こうに視線をやり、いよいよ雪がひどくなってきていることを認めて溜息をつく。
がしがしと、髭だか髪だかわからない辺りを掻いて、彼はどっかりと床に腰を下ろした。
「……何、話すんだよ」
彼女は小さな唇に、ほのかな笑みを乗せた。
「……そうですね。じゃあ私から質問でも。あなたは犯罪者ですか?それとも性犯罪者?」
「何その二択!」
のっけからぎょっと肩を揺らした青年は、唾を飛ばしながら叫んだ。
「両手が後ろに回るような人生は辛うじて歩んでねえよ! 傭兵だ傭兵」
「ほほう、動物園での扱いが酷かったために逃亡してきたと」
「噛み合ってない上にゴリラ説に舞い戻ってんじゃねえよ。――ま、職場環境が嫌で逃げ出したってのは合ってるけどな」
彼はのそりと胡坐をかくと、そのいかつい肩を竦めた。
「職場……戦地でしょうか?」
いよいよ指先が冷たい。組み合わせた両手を息で温めながら問うと、彼は「いんや」と首を振った。
「お陰さまで平和なきょう日、傭兵まで投じるような戦争はねえよ。せいぜい、お偉いさんの御用聞きだ。俺んとこは、一家で世話になってる太い客がいるんだが、そいつんとこがな」
「ブラックな環境であると」
そ、と青年は頷いた。
「賃金は申し分ねえんだが、なんつーの、やーな感じなんだよな。人を人とも思わねえっての?」
少女が同情的な視線を送ると、彼はすかさず「いやゴリラじゃねえよ」と言い返し、言葉を探しはじめた。
「選民思想、ってえのかな。そいつらは一家揃って、そりゃまあおきれいな顔にきれいな金髪、きれいな青い眼の持ち主なんだが、それ以外は人間ではないとでも思っていやがる。俺の髪や目なんてさ、埃の色だとよ」
「…………」
少女は黙って話を聞いていた。
今になって思えば、青年の話には無数の手掛かりが散りばめられていた。
この国では、上位貴族でもなければ、金髪碧眼などという天使めいた色を宿すことは珍しい。
しかし、学院で毎日のようにその希少な色を目の当たりにし、自らも翠眼とはいえ金髪を持っていた彼女は、そのことに気付かなかった。
「それを言うのが他の奴らならさ、俺もぶちのめしてやるんだけど、そいつらが本当に綺麗な生き物なんだよ。よく教会に宗教画ってあるだろ? あんな感じでさ。で、そいつらに淡々と、きれいな顔で、きれいな口調で『おまえは埃だ』って言われるとさ、なんだか本当にそんな気がしてきちまう」
彼は、自らの分厚い掌をじっと見下ろした。
「実際俺も、そんな清らかな人生を歩んできたわけでもねえし、さ」
二人の間に沈黙が降りた。窓の外から時折、どさっ、と雪の落ちる音が聞こえる。相当積もっているのだろう。
「……そんで、仕事もくさくさしちまって、国境にほど近いここいらまで息抜きに来て、今に至ると。ここまで宿が無い辺鄙な場所に来るつもりはなかったんだがな」
青年が経緯の後半をだいぶ端的にまとめてみせても、彼女は黙ったままだった。
「で? 嬢ちゃんの方は? 見たとここの家の娘なんだろうが、なんで家族がいないんだ。訳ありか?」
沈黙が苦手なのか、口をすぼめた青年が尋ねると、
「――……白い光には全ての色が含まれてましてね」
少女は突然ぽつりと口を開いた。
「は……?」
「色料――絵具と言い変えましょうか。絵具というのは、その白い光から色の一部を吸収するんですが、その時吸収されず残った色が、その絵具の色として私たちの目に映るんです。例えば、紅色の絵具は、光から緑色を主に吸収する。それで光の中に残った赤や青の色が混ざり合って、私たちの目には青みがかった赤――紅色に見えると、そんな具合に」
いきなりの色彩講義に、青年はあからさまに怪訝な表情を浮かべた。
「な、なんなんだよ……?」
「ですから、色々な絵具を混ぜれば混ぜるほど、光から吸収する色の種類が増えていき、残る光の量が減っていく。色は次第に暗く、黒く見えていくというわけですね」
つらつらと説明し、彼女は「そう」と誰へともなく頷いた。
「これがかの有名な滅法混色です」
「いや知らねえよ!?」
青年の突っ込みを聞き流した彼女は、細い指先でそっと床を擦った。
「埃がどうして黒や灰色に見えるか、わかりましたか?」
「あ……?」
「つまりそういうことです。色が混ざっているんですよ。顕微鏡で見れば、埃は大変カラフルです。あまりにも多くの色が混ざっているから、暗い色に見えるだけなんですよ」
指先に残った灰色を、じっと見つめる。
彼女は、そこに人の営みの名残があるとでも言うように、そっとそれを撫でた。
「かつて女性の肌に塗られた白粉、こんがり茶色く焼いたパンの屑、使い古した青いエプロンの糸、頬紅の粉、犬の毛、花粉。そういう、日常生活を彩っていた色たちがぎゅっと詰まったのが、この埃の色彩です」
「…………」
目を見開いた青年に向かって、彼女は再び微笑んだ。
「今度その胸糞悪い雇い主に会ったら、言っておやりなさい。『埃の色、ああその通りだ。あんたらみたいに底の浅い色しか持たない輩と違って、自分の人生は深みがあるものでね』と」
そして彼女はまた、自分に対しても頷いた。
――そうとも。
埃のように、あっさりと摘まみ上げられ、自身にさえ捨てられたかの人生。しかし、その埃の中には、目にも鮮やかな色彩が息づいている。目には見えなくとも、確かにあるのだ。
それを、自分自身で否定してどうする。
「……あー……」
ややあって、彼女は膝に掛けていた毛布を掴み、勢いよく立ち上がった。
「気が変わりました」
「あ?」
青年がぽかんとした顔でこちらを見ている。
その愛嬌のある表情に向かって、彼女はふふっと微笑んだ。
「私、やっぱりしぶとく生きることにします」
「死ぬつもりだったのかよ? っていうかさっきまでは、しぶとくないつもりだったのかよ?」
「こんなにもしおらしい少女を捕まえて何を言うんです、失敬な」
口の端に笑みを浮かべたまま、ぐるりと家中を見回す。
キャンバス。イーゼル。埃をかぶった、けれど未開封の絵具に、絵筆、溶剤、ナイフ。
彼女は筆と一緒に突っ込まれていたナイフを手に取ると、
――ザクッ
長い金色の三つ編みに押し当て、無造作に横に引いた。
「おい……っ!」
青年がぎょっとして立ち上がる。
しかし彼女は、その声にも、落ちた三つ編みが立てたどさっという音にも全く動じることなく、ざくざくと髪を切り続けた。器用な手先はあっという間に、彼女の頭髪を少年のそれへと変えていく。
「――こんなものですかね?」
数分の後、そこには悪戯っぽく目を輝かせた、金髪の少年が出現した。
「……勿体ねえことを」
「やだな、ちゃんと掻き集めて売りますよ。値がつくものはしっかり市場に回さなくては」
彼女はにこにことして、家中をめぐり歩く。
そうして、めぼしい画材や絵画の習作を、次々と拾い上げていった。
「この絵具集はいいですね。これも売れそうです。イーゼルも、少し表面を削ればいけますか」
「……おい、何するつもりだ」
「売ります」
低い声で問いかける青年に、彼女はきっぱりと言い切った。
ただし、と続ける。
「私がこれから営む、文具店で」
「は?」
青年はもはや、狂人を眺めるような目付きである。
しかし、そんなことには全く頓着せず、彼女は思い付きを上機嫌に語り続けた。
「決めたんです。私は、私を否定しない。これからは、やり過ごすことなんてもうしません。したいことをして、したくないことはしない。そういう生き方をするんです」
「嬢ちゃん、あんた……」
「ライルです」
彼女はぴしゃりと遮った。
「私はもう、親を求めて途方に暮れる女の子じゃない。自分の名前は自分で決めたい。だから、私の名前は、今この瞬間からライルです」
青年はまだぽかんとしている。そんな彼に向かって、彼女――ライルは、首を傾げて微笑んだ。
「そしてね。私はあなたともう少し一緒にいたい。あなたも、一緒に文具店で働きませんか?」
「なんだって?」
「だって、今の仕事はつまらないのでしょう? なら、私と働いたっていいじゃないですか。あなたは怪力そうですし、ここにある売り物になりそうな画材を、ヴェレスまで運ぶのを手伝ってくださいよ」
――大丈夫、ちょっと実入りのいい仕事も検討しているので、そこそこ儲かるはずです。
そう告げると、青年はひとしきり呆然とした後、
「――……ははっ」
やけに愉快に笑い出した。
「なんだそれ、めちゃくちゃだな」
「いいんです。私がそうしたいから」
ライルはたっぷりと画材を抱え込んだまま、すっと右手を差し出した。
「私が寂しくなくなるか、あなたが飽きるまで。ヴェレス裏通り文具店で、働きましょう?」
青年はくっと噴き出し、彼もまた分厚い手を差し出してくる。
二人は、すっかり暗くなった家の中で、固い握手を交わした。
「よろしく頼むよ、ライル」
「いっそのことライでもいいですよ。で、あなたは……?」
「おいおい、今さらだな」
そういえば名前すら聞いていなかったことを思い出し、ライルが首を傾げると、彼はそのゴリラめいた顔に苦笑を浮かべた。
「俺もちょうど、名前を捨てたい気分だったんだ。あんたが好きに決めていいぜ、ライ。したいように、するんだろう?」
破格な申し出に、ライルは「おや」と目を見開いた。
「いいんですか? 遠慮なく決めちゃいますよ?」
「いいぜ。どうせ『飽きるまで』だしな」
「そうですか、なら……」
――イーヴォ。
ライルは、まるで恋人の名を呼ぶようにその響きを口にした。
「……って待てよ、それ、さっき犬っぽい文脈で出てきた名前じゃね?」
「いいじゃないですか。ふさふさの毛、つぶらな黒い瞳、抱きつきがいのありそうな大きな体。あなたは私の、大切なイーヴォです」
「なんら嬉しくねえ!」
青年――改め、イーヴォは絶叫したが、ライルはもはや取り合わなかった。
いいのだ。
だって、自分はこれから、したいことを、したいように、するのだから――




