表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/26

17.埃の色彩(後)

 それはまるで、唸り声を上げ、今にも檻から飛び出して爪を立てんとする、獰猛な獣のようだ。


 しかしそれでも、彼女は微笑みを崩さなかった。


「だめ。そんな黒くて可愛い目で見つめられたら、撫でたいとしか思えません」

「……はあ!?」


 青年は今度こそ絶句した。


「嬢ちゃん、あんたどういう感性してんだよ」

「どういうって、至って普通の価値観の持ち主ですが」


 彼女はいけしゃあしゃあと答えると、問答に飽きたように笑みを消し、目を閉じた。


「……おい?」

「寝ます。あなたは居付くなり出ていくなり、盗むなり殺すなりご自由にどうぞ」


 ぎょっとしたらしい青年が、一纏めにしていた両腕から手を放した。


「なんだよ、それ!」

「なんですかね。緩やかな自殺ですかね。やっぱり今ここで寝たら凍死しますよね?」

「無邪気に質問してんじゃねえよ!」


 青年はよほど毒気を抜かれたようだ。二の句を告げずにいる彼に向かって、彼女は片方の目を開けた。


「おや。殺すんじゃなかったんですか?」

「……なんかそういう空気じゃねえよ」

「ふふ」


 雰囲気のせいにする青年がおかしくて、彼女は笑った。


「ほら。あなたは殺さないでしょう」


 そう言って、また目を閉じる。


 青年は押し黙って彼女を見つめていたが、やがてごそごそと巨体を起こすと、どこからか古びた毛布を持ってきた。


「おら」

「おや」

「埃っぽいのは我慢しろよ。これ一枚しかもう残ってねえんだから」


 ふん、と鼻を鳴らすと、彼は再び立ち上がった。踵を返し、どこかに向かうようだ。


 途端に、少女はすっと身を起こした。


「……行ってしまうんですか?」

「なんでそこで起きるんだよ」

「寂しいじゃないですか」


 口を尖らせると、青年は「はあ!?」と声を裏返らせた。


「おまえ、初対面の怪しげな男捕まえて何言ってんだよ!」

「そうですね。何かお話しましょう?」

「繋がってねえよ!」


 叫ぶ青年に、彼女は拗ねたように解説した。


「だから、初対面じゃなくするように、親睦を深めましょうよ」


 またしても、彼は毒気を抜かれたようだった。

 窓の向こうに視線をやり、いよいよ雪がひどくなってきていることを認めて溜息をつく。


 がしがしと、髭だか髪だかわからない辺りを掻いて、彼はどっかりと床に腰を下ろした。


「……何、話すんだよ」


 彼女は小さな唇に、ほのかな笑みを乗せた。


「……そうですね。じゃあ私から質問でも。あなたは犯罪者ですか?それとも性犯罪者?」

「何その二択!」


 のっけからぎょっと肩を揺らした青年は、唾を飛ばしながら叫んだ。


「両手が後ろに回るような人生は辛うじて歩んでねえよ! 傭兵だ傭兵」

「ほほう、動物園での扱いが酷かったために逃亡してきたと」

「噛み合ってない上にゴリラ説に舞い戻ってんじゃねえよ。――ま、職場環境が嫌で逃げ出したってのは合ってるけどな」


 彼はのそりと胡坐をかくと、そのいかつい肩を竦めた。


「職場……戦地でしょうか?」


 いよいよ指先が冷たい。組み合わせた両手を息で温めながら問うと、彼は「いんや」と首を振った。


「お陰さまで平和なきょう日、傭兵まで投じるような戦争はねえよ。せいぜい、お偉いさんの御用聞きだ。俺んとこは、一家で世話になってる太い客がいるんだが、そいつんとこがな」

「ブラックな環境であると」


 そ、と青年は頷いた。


「賃金は申し分ねえんだが、なんつーの、やーな感じなんだよな。人を人とも思わねえっての?」


 少女が同情的な視線を送ると、彼はすかさず「いやゴリラじゃねえよ」と言い返し、言葉を探しはじめた。


「選民思想、ってえのかな。そいつらは一家揃って、そりゃまあおきれいな顔にきれいな金髪、きれいな青い眼の持ち主なんだが、それ以外は人間ではないとでも思っていやがる。俺の髪や目なんてさ、埃の色だとよ」

「…………」


 少女は黙って話を聞いていた。


 今になって思えば、青年の話には無数の手掛かりが散りばめられていた。

 この国では、上位貴族でもなければ、金髪碧眼などという天使めいた色を宿すことは珍しい。

 しかし、学院で毎日のようにその希少な色を目の当たりにし、自らも翠眼とはいえ金髪を持っていた彼女は、そのことに気付かなかった。


「それを言うのが他の奴らならさ、俺もぶちのめしてやるんだけど、そいつらが本当に綺麗な生き物なんだよ。よく教会に宗教画ってあるだろ? あんな感じでさ。で、そいつらに淡々と、きれいな顔で、きれいな口調で『おまえは埃だ』って言われるとさ、なんだか本当にそんな気がしてきちまう」


 彼は、自らの分厚い掌をじっと見下ろした。


「実際俺も、そんな清らかな人生を歩んできたわけでもねえし、さ」


 二人の間に沈黙が降りた。窓の外から時折、どさっ、と雪の落ちる音が聞こえる。相当積もっているのだろう。


「……そんで、仕事もくさくさしちまって、国境にほど近いここいらまで息抜きに来て、今に至ると。ここまで宿が無い辺鄙な場所に来るつもりはなかったんだがな」


 青年が経緯の後半をだいぶ端的にまとめてみせても、彼女は黙ったままだった。


「で? 嬢ちゃんの方は? 見たとここの家の娘なんだろうが、なんで家族がいないんだ。訳ありか?」


 沈黙が苦手なのか、口をすぼめた青年が尋ねると、


「――……白い光には全ての色が含まれてましてね」


 少女は突然ぽつりと口を開いた。


「は……?」

「色料――絵具と言い変えましょうか。絵具というのは、その白い光から色の一部を吸収するんですが、その時吸収されず残った色が、その絵具の色として私たちの目に映るんです。例えば、紅色の絵具は、光から緑色を主に吸収する。それで光の中に残った赤や青の色が混ざり合って、私たちの目には青みがかった赤――紅色に見えると、そんな具合に」


 いきなりの色彩講義に、青年はあからさまに怪訝な表情を浮かべた。


「な、なんなんだよ……?」

「ですから、色々な絵具を混ぜれば混ぜるほど、光から吸収する色の種類が増えていき、残る光の量が減っていく。色は次第に暗く、黒く見えていくというわけですね」


 つらつらと説明し、彼女は「そう」と誰へともなく頷いた。


「これがかの有名な滅法混色です」

「いや知らねえよ!?」


 青年の突っ込みを聞き流した彼女は、細い指先でそっと床を擦った。


「埃がどうして黒や灰色に見えるか、わかりましたか?」

「あ……?」

「つまりそういうことです。色が混ざっているんですよ。顕微鏡で見れば、埃は大変カラフルです。あまりにも多くの色が混ざっているから、暗い色に見えるだけなんですよ」


 指先に残った灰色を、じっと見つめる。

 彼女は、そこに人の営みの名残があるとでも言うように、そっとそれを撫でた。


「かつて女性の肌に塗られた白粉、こんがり茶色く焼いたパンの屑、使い古した青いエプロンの糸、頬紅の粉、犬の毛、花粉。そういう、日常生活を彩っていた色たちがぎゅっと詰まったのが、この埃の色彩です」

「…………」


 目を見開いた青年に向かって、彼女は再び微笑んだ。


「今度その胸糞悪い雇い主に会ったら、言っておやりなさい。『埃の色、ああその通りだ。あんたらみたいに底の浅い色しか持たない輩と違って、自分の人生は深みがあるものでね』と」


 そして彼女はまた、自分に対しても頷いた。


 ――そうとも。


 埃のように、あっさりと摘まみ上げられ、自身にさえ捨てられたかの人生。しかし、その埃の中には、目にも鮮やかな色彩が息づいている。目には見えなくとも、確かにある(・・)のだ。


 それを、自分自身で否定してどうする。


「……あー……」


 ややあって、彼女は膝に掛けていた毛布を掴み、勢いよく立ち上がった。


「気が変わりました」

「あ?」


 青年がぽかんとした顔でこちらを見ている。

 その愛嬌のある表情に向かって、彼女はふふっと微笑んだ。


「私、やっぱりしぶとく生きることにします」

「死ぬつもりだったのかよ? っていうかさっきまでは、しぶとくないつもりだったのかよ?」

「こんなにもしおらしい少女を捕まえて何を言うんです、失敬な」


 口の端に笑みを浮かべたまま、ぐるりと家中を見回す。


 キャンバス。イーゼル。埃をかぶった、けれど未開封の絵具に、絵筆、溶剤、ナイフ。


 彼女は筆と一緒に突っ込まれていたナイフを手に取ると、


 ――ザクッ


 長い金色の三つ編みに押し当て、無造作に横に引いた。


「おい……っ!」


 青年がぎょっとして立ち上がる。

 しかし彼女は、その声にも、落ちた三つ編みが立てたどさっという音にも全く動じることなく、ざくざくと髪を切り続けた。器用な手先はあっという間に、彼女の頭髪を少年のそれへと変えていく。


「――こんなものですかね?」


 数分の後、そこには悪戯っぽく目を輝かせた、金髪の少年が出現した。


「……勿体ねえことを」

「やだな、ちゃんと掻き集めて売りますよ。値がつくものはしっかり市場に回さなくては」


 彼女はにこにことして、家中をめぐり歩く。

 そうして、めぼしい画材や絵画の習作を、次々と拾い上げていった。


「この絵具集はいいですね。これも売れそうです。イーゼルも、少し表面を削ればいけますか」

「……おい、何するつもりだ」

「売ります」


 低い声で問いかける青年に、彼女はきっぱりと言い切った。

 ただし、と続ける。


「私がこれから営む、文具店で」

「は?」


 青年はもはや、狂人を眺めるような目付きである。

 しかし、そんなことには全く頓着せず、彼女は思い付きを上機嫌に語り続けた。


「決めたんです。私は、私を否定しない。これからは、やり過ごすことなんてもうしません。したいことをして、したくないことはしない。そういう生き方をするんです」

「嬢ちゃん、あんた……」

「ライルです」


 彼女はぴしゃりと遮った。


「私はもう、親を求めて途方に暮れる女の子じゃない。自分の名前は自分で決めたい。だから、私の名前は、今この瞬間からライルです」


 青年はまだぽかんとしている。そんな彼に向かって、彼女――ライルは、首を傾げて微笑んだ。


「そしてね。私はあなたともう少し一緒にいたい。あなたも、一緒に文具店で働きませんか?」

「なんだって?」

「だって、今の仕事はつまらないのでしょう? なら、私と働いたっていいじゃないですか。あなたは怪力そうですし、ここにある売り物になりそうな画材を、ヴェレスまで運ぶのを手伝ってくださいよ」


 ――大丈夫、ちょっと実入りのいい仕事も検討しているので、そこそこ儲かるはずです。


 そう告げると、青年はひとしきり呆然とした後、


「――……ははっ」


 やけに愉快に笑い出した。


「なんだそれ、めちゃくちゃだな」

「いいんです。私がそうしたいから」


 ライルはたっぷりと画材を抱え込んだまま、すっと右手を差し出した。


「私が寂しくなくなるか、あなたが飽きるまで。ヴェレス裏通り文具店で、働きましょう?」


 青年はくっと噴き出し、彼もまた分厚い手を差し出してくる。

 二人は、すっかり暗くなった家の中で、固い握手を交わした。


「よろしく頼むよ、ライル」

「いっそのことライでもいいですよ。で、あなたは……?」

「おいおい、今さらだな」


 そういえば名前すら聞いていなかったことを思い出し、ライルが首を傾げると、彼はそのゴリラめいた顔に苦笑を浮かべた。


「俺もちょうど、名前を捨てたい気分だったんだ。あんたが好きに決めていいぜ、ライ。したいように、するんだろう?」


 破格な申し出に、ライルは「おや」と目を見開いた。


「いいんですか? 遠慮なく決めちゃいますよ?」

「いいぜ。どうせ『飽きるまで』だしな」

「そうですか、なら……」


 ――イーヴォ。


 ライルは、まるで恋人の名を呼ぶようにその響きを口にした。


「……って待てよ、それ、さっき犬っぽい文脈で出てきた名前じゃね?」

「いいじゃないですか。ふさふさの毛、つぶらな黒い瞳、抱きつきがいのありそうな大きな体。あなたは私の、大切なイーヴォです」

「なんら嬉しくねえ!」


 青年――改め、イーヴォは絶叫したが、ライルはもはや取り合わなかった。


 いいのだ。

 だって、自分はこれから、したいことを、したいように、するのだから――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ