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16.埃の色彩(前)

 夢を、見ていた。


 幌も無いおんぼろの乗合馬車から、暗い瞳をして一人降り出した少女。


 肩を覆う金色の髪は素っ気ない三つ編みに引っ詰められ、抜けるように白い肌の、その小さな鼻と頬だけを寒さに赤らめて、切るように冷たい冬の風を、睨みつけるようにして歩きはじめる。


 次第に雪混じりとなってきた田舎道を、小さな足で懸命に歩く少女は――二年前の自分だった。


 当時の自分を、どの名前で呼ぶべきかライルにはわからない。


 生まれた時、母から与えられた名前はリンネだった。

 それがあの鼻持ちならない画家男爵に引き取られた途端、その名前はリインラインに変わった。理由は簡単、母の名前がカロラインだったからだ。

 やがて学院に放り込まれると、一部の者からはライラと呼ばれ、しかし自分はそこから逃げ出した。

 その日からは、毎日違う名を名乗って生きていた。


 あの炎の中、唯一の宝物である父から貰った画集を抱きかかえ、いくつかの貴重品をドレスの袖に突っ込んで逃げ出した彼女だったが、逃亡生活は思った以上に難航していた。


 それもそうだ。

 翌日どころか、火事の当日から、ヴェレスのあらゆる場所に彼女の人相書きを持った私兵たちが目を光らせはじめたのだから。


 最初は、貴重品を売り払って当座の生活資金を得ようとしていた。

 しかしその貴重品は、ほとんど火曜会のメンバーから贈られた小物だったり、学院で彼らに幾度となく目撃された宝飾品だったりしたため、売ればすぐに足がつくことは明らかだった。


 では食堂で給仕の仕事でも、と職を求めれば、幼い少女の外見から良識的な店では採用を断られてしまう。

 かといって娼婦に身を落とすのも躊躇われた彼女は、時に軒先に積まれた果物を拝借し、また時に農夫の納屋に泊まらせてもらいながら、なんとかその日を生きていた。


 一度気のいい鍛冶屋にお世話になった時、金のブレスレットを溶かして塊に変えてもらい、それを売り払ってようやく日銭を得ると、彼女はおんぼろ馬車に乗って、ある場所を目指した。


 ヴェレスから、北に向かって二日。

 セルスローと呼ばれる下町には、彼女が幼少期を過ごした家がある。


 彼女は、ただ無性に、あの弱気でうだつの上がらない父に会いたかった。


 雪の染みだしたブーツに、足が凍るような思いをしながら、歩き続け。

 やがて、小ぢんまりとした石造りの家に辿り着いた。


 細い喉を小さく鳴らし、寒さに色を失った手を、そっと扉に伸ばす。


「――……ただいま、……」


 その先をなんと呼び掛けたものか、一瞬彼女は悩んだ。


 自分はかつて、父をなんと呼んでいたのだったか。

 父さん? お父さん? ――少なくともあの画家に向かって呼ばされているように、「お父様」などではなかったはずだ。


 この辺りでは、家に鍵を掛ける習慣などない。彼女がそっと押すと、木製の扉は簡単に奥に開いた。


 ギ……――


 すっかりペンキの色も褪せ、枯れるように乾いた扉が、細い悲鳴のような音を上げる。

 その奥に広がっている光景を見て、彼女は翠の瞳をゆっくりと見開いた。


 ――何も、無かった。


 いや、同じく画家であった父の存在の、名残はそこここにある。絵具で汚れた壁、あちこちに散らばったキャンバスやイーゼル、空き瓶にぎゅうぎゅうと詰め込んでいた絵筆や、使い古しの絵具。


 しかし、父が愛用していたソファやテーブルセット、母が織りあげたタペストリー、自分が飼い犬の為に用意したちょっとした遊び道具、そういった、人の温もりを感じさせるものが、そこには何一つ無かったのである。

 せいぜいあるのは、彼女が小さい頃に刻んでいた、身長を示す石壁の傷だけ――。


(ああ、そうか)


 その時彼女は、今まで懸命に目を逸らしてきていた現実が、否応なく心のあらゆる場所に広がるのを感じた。


 父は、逃げたのだ。


 翡翠の瞳が、床に散らばる画材を無感動に見つめた。


 ――画家であることすら、放り投げて。


 ぺたん、とその場に座り込む。

 久々に触れた我が家の床は、すっかり埃が積もって、ざらざらとしていた。


「…………ふ」


 漏れたのは、溜息とも笑いともつかない、あえかな吐息だった。

 彼女は寒く薄暗い室内を見上げて、ぼんやりと口の端を引き上げた。


 子どもを置き去りにしてあっさりと逝った母。

 権力と暴力に逆らえなかった父。

 愛する女を引き止められなかったと知るや、その子どもを学院に放り込んだ画家。

 無力な下級貴族の娘を手元に置いておきたがったあげく、懐かないとわかると掌を返したように部屋を焼き払った「友人」達。


 そして、彼らと対決することを放棄し、炎に紛れて逃げ出した、自分。


 みんなみんな、身勝手だと思った。

 けれど同時に、みんなみんな、憐れで惨めだと思った。


 母は愛を求めた。

 父は穏やかな生活と、恐らくは娘に迷惑を掛けないことを選んだ。

 画家はありもしない女の愛のひとかけらを探し求め、火曜会もまた(かつ)え子のように少女の友情を欲しがった。

 そして自分は、ただ自由になりたかった。


 切実な感情に顔を歪め、泥濘に足を取られそうになりながら、欲しい物に必死に手を伸ばす彼らを――そして自分を、一体誰が責められるだろう。


「――……笑えますね」


 そうとも、実に滑稽で、実に愉快だ。

 彼女は膝を引き寄せ、そこに顔を埋めると肩を揺らした。


「ああ、おかしい」


 きっと母ならこんな時、艶やかに笑ってみせただろう。皮肉気に細い眉を上げ、猫のように目を細めて。


 だから笑え。自分も、母のように。


「なんて、おかしい」


 声が震える自分の弱さを、彼女は見て見ぬふりをした。


 素晴らしいことではないか。

 一介の娼婦の娘に過ぎなかった自分が大画家に引き取られ、誰もが憧れる学院に入学して最高水準の教育を受け、雲上人の貴族たちに見初められ、一瞬とはいえ栄華と、この世の素晴らしい美を目の当たりにした。


「あはは。おか、し……っ」


 ただしそれは、彼女から平穏な時間と、素朴な言葉遣いを奪った。


 教養はその身に沁み込む、呪いだ。一度矯正された仕草は、言葉は、容易に戻すことも叶わない。


 もはや彼女は、こんなときに町娘がどう泣き叫ぶのか、そんな作法すら思い出せなかった。


 自分を構成していたものは、名前から言葉から全て他のものに作り替えられ、染め上げられ、挙句に、不要になった途端、糸くずのように捨てられたのだ。

 埃を摘まみあげるように、いとも容易く彼女の人生を葬ったのは、家族であり、友人であり、そして自分自身だった。


 ――怠惰だったのだ、と思う。


 いつだったか友人は、いつも彼女は泰然としていると言った。そこが好きだとも。

 しかし本当は違う。自分はただ傍観者であり続けただけだったのだ。


 母が死んだ時も、人格を歪められた時も、学院に入れられた時も、ただやり過ごすことでそれに耐えた。

 叫ぶより、泣いて立ち向かうより、「そうですよね」と肩を竦めることで、自分の心を守ってきた。それが彼女の処世術だった。


 切実に何かを希求したのは、せいぜい炎に紛れて脱走したあの時だけ。

 それだって結局は、歪んでしまった自分の人生を、投げ出しただけだ。


 その結果、今、自分は自分を、持て余してしまっている。


 膝に頭を埋めたまま、どれだけの時間が経ったことだろうか。


「――……あのー、お取り込み中、悪いんだけどよ」


 柱の陰からぼそっと掛けられた声に、彼女はぎょっと顔を上げた。


「だ……っ!」


 誰、と問い掛けたのだが、もしかしたら、「何」の方が正しいのかもしれない。

 暖炉の奥の暗がりから現れた彼は、それ程人間離れした容貌をしていた。


 天井に頭がつきそうな程巨大な体躯に、髪と髭の区別がつかないほどの、毛むくじゃらの顔。

 灰色っぽくくすんだ毛の中から窺える目は黒々とし、額は狭く、鼻と口はやたらと大きい。


「……ゴリラが、なぜこんなところに?」

「誰がゴリラだごるぁ!」


 意外にも相手は、人語でノリ良く返して来る。――いや、先程から彼は人語を話していたか。

 声には張りがあり、外見からでは窺い知れないが、まだ年若いオス、いや違う、青年であるようだった。


 彼女はごそごそと服を漁り、渋面を作った。


「申し訳ないですが、さすがにバナナの類は持ち歩いていませんよ」

「なんでバナナだよ!」

「おや、食料はお望みではないと」


 ことんと首を傾げる。

 無人の家に潜むとなれば、暖を求めた野良犬か野良ゴリラ、――そうでなければ食料を求めた逃亡者か強盗犯くらいのものだ。


 彼が眉と思しき部分を顰めて黙り込んだので、彼女は他の候補を挙げてみた。


「ではこう、キラキラしたものをお探しで? 残念ながらこの家にはそんなものありませんよ。ちなみに、メスに飢えているとかであれば、私は全くお勧め致しかねます。顔はそこそこですが、体はガリガリで楽しめないと思いますよ」

「どっちもいらねえよ!さすがにこんな子どもに欲情する程飢えてねえわ!」

「ははあ、繁殖期ではないんですね。大変安心しました」

「発想をゴリラから解放しろよ!」


 打てば響くような、なかなかに切れのある突っ込みだ。

 内容に意外性は無いが、その勢いを評価し、彼女は「6点」と呟いた。ちなみに10点満点である。


「……なんかすっげえむかつくんだけど。今俺は何を評価されたんだ?」


 青年はぶつぶつと呟いている。

 巨体を丸めたその姿に妙に、なんというのだろうか、懐かしさのようなものを覚えて、彼女は目を細めた。


「イーヴォ……」

「あ?」


 青年が訝しげに振り返る。その拍子にふわっと髪がそよぐ様子が、ひどく胸に迫った。


「だいぶ毛が伸びていますね。刈らないと……」

「いやいやいや、何の話だよ」


 飼っていた犬の話である。


 彼女がずっと昔拾ってきた犬は、イーヴォと名付けられ家で飼われていた。

 毛は埃の塊かというような薄汚れた色で、体格ばかり無駄に大きく、臆病者でしょっちゅう辺りに吠え散らしていた。

 悪戯で家をめちゃめちゃにする一方で、芸の覚えはすこぶる遅かった。

 それでも、彼女にだけはよく懐き、黒い瞳をうるうるとさせながら、濡れた鼻をこすりつけてきたものである。


「……少しくらい、信じさせてくれたっていいのに」


 例えば、イーヴォがゴリラの姿を借りて戻ってきてくれたとか。

 自分の帰りを待ち続けてくれたイーヴォが、亡霊となって青年にとりついたとか。


 不穏なことを呟く彼女に、青年が引き攣った顔をした。


「ていうかよ、無人の家に大の男が潜んでたんだ、もっと別の反応があるだろうが」

「……なんですっけ。死んだふり? いや、目を合わせたまま後ずさるんですっけ」

「今度は熊かよ!――まあ、でも、そっちの方がまだ近いか? もっとこう、怖がるとか、怯えるとかよ」


 青年が文句を垂れるように言うので、彼女はひとまず謝った。


「すみません、初対面の男性には、まず警戒しながら膝蹴りなり目潰しなり食らわせるべきでしたね。なにぶん荒事が不得手なもので、ご容赦ください」

「おかしいな、俺の常識と違え……」


 彼はがしがしと頭を掻きながら、彼女の傍に近付いてきた。


 そうして、膝を抱えていた彼女の肩を押し、ごろんと床に転がした。両手首を大きな右手で掴み、それを床に押し付けたまま、傍らに膝をつく。


「ほら、嬢ちゃん。こういう目に遭うかもしれないんだぜ? 女が狙われるのは何も体だけじゃねえ。命だってそうだ」


 彼女は無抵抗のまま、ふ、と笑みを漏らした。


「……何がおかしい。少しは暴れてみろよ」

「いえ、だって。か弱い少女を手折るなり殺すなりするなら、何もこんな会話は必要なかったはずですから。害意の無い相手に、抵抗してみせても無駄でしょう?」

「害意がない、だと?」


 明快に言い切った彼女に、青年は驚いたようだった。

 しかし、何を思ったかふと黙り込む。


 次の瞬間、


「……これでも、か?」


 刺すような殺気が、彼の全身から放たれた。

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