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14.娼婦の絵札(中)

 サミュエルは、吐く息がすっかり白くなっていることに気付き、ぼんやりと壁に背を預けたまま、腕を外套のポケットに突っ込んだ。


 ヴェレスの秋は冷える。

 いや、もう時期としては冬と呼んで差し支えない。


 月があともう一度満ち欠けを繰り返したら、小雪が舞いはじめる季節になるだろう。あるいは、風を受けた頬が切れる程の、乾き凍える季節になる。


 大切な少女が、姿を消した日と同じように。


 サミュエルは、満月を見るたびに思い出す光景を、この日もまた脳裏に蘇らせていた。


 ――鳥籠が必要だと思わないかい?


 真っ先に像を結ぶのは、完璧な形に整った唇が、薄く笑みを刷く様子だ。


 貴公子中の貴公子、囁き一つで人を従わせると評判の彼は、その音楽のように抑揚の利いた口調で、実に滑らかに提案を紡いだ。


 ――「彼女」は僕たちによって守られるべきだ。美しいものと、心地よい音に溢れた空間で、目を輝かせているべき存在だ。そうだろう?


 真っ先に反論したのはイサベルだった。

 彼女は、女性が女性というだけで、枷を嵌められ檻に閉じ込められることを何より嫌う。

 しかし彼は、檻を柵と言い換えることによって、イサベルの反論を難なく封じてしまった。


 閉じ込めるのではない、守るのだ。恐るべき害悪から。保護者たる我々が。


 発言したのが彼でなければ、あっさりと欺瞞(ぎまん)が見抜けるようなそれは内容だった。

 しかし、イサベルも、そして傍で聞いていたサミュエルもまた、耳触りのよい彼の言葉を否定する気にはなれなかった。


 いや、彼の声のせいだけにするのは不公平だろう。

 自分達は夢中になったのだ。少女を――ライラをこの手に閉じ込められる、という構想に。


 ライラはいつも自由だった。

 自分たちがどれだけ権力をちらつかせようと、甘言を囁こうと、恐喝じみた真似をしてその行動を制限しようと、彼女はただ風が吹きすぎるのを見送るような目をして、けして媚びた視線を寄越してくることはしなかった。


 彼女はたとえ靴を隠されようが、学院中の誰もが憧れる人物に構われようが、ひどい陰口を叩かれようが、ただ美しいものに陶然とし、そうでないものには冷えた無関心の一瞥をくれるだけだった。


 サミュエル達は焦れた。

 すり寄って来ない、凛と美しい生き物を求めてやまなかったくせに、いざ関心のひとかけらももらえないとなると、途端に戸惑い、不安になった。


 彼女が望むならと古今東西の名画を集め、校舎を作り替えて居場所を作り。

 無感動な翡翠の瞳に、時折忽然と喜びの色が走るのを、一滴の雨に喜ぶ砂漠の民のように待ちわび続けた。


 相手のことを知りたいと思うあまり、少女の家のことを調べ出したのはサミュエルだった。


 その時から花街に足を向けることもあった彼は、ライラの母親が娼婦であることを真っ先に知った人物であった。

 サミュエルはまた、少女を学院に送り込んだ男爵が、ルヴァンツの名で知られた画家であることも、彼がライラの母に相当入れ込んでいたことをも突き止めた。


 ルヴァンツは、少女の母が死んだ後も、彼女の遺品には一切手を付けず、彼女の為に用意していた屋敷の一室もそのままに保存しているのだと聞いた。

 一方で、少女の元の父親が描いたという、少女の母の肖像画は早々に処分していた。自分以外の者が彼女を描くことすら許さない、ということだろう。


 その強い執着を、最初はサミュエル達も笑っていた。

 しかしその内に、少しずつルヴァンツの行動にも理解できる点があるように思え、少女が入学して一年経つ頃には、すっかり自分たちと彼が同類であるように思われた。


 ――リインラインと、いつまでも一緒にいられたら、それはとても素敵なことだと思わないかい?


 美しい金髪と、冬の湖面のような青い瞳を持つ彼は、まるで悪魔のように完璧な笑みを浮かべて囁いてきた。

 彼はライラのことを、蜂蜜を溶かし込んだような声でリインラインと丁寧に発音した。


 ――少しね、方法があるんだ。うまくいくかどうかは運次第。でも、うまくいったら、それこそがリインライン自身の運命だということだろう?


 運次第。リインライン自身の運命。

 その不確定な響きは、むしろサミュエル達の心をほぐした。


 彼の話はこうだ。


 ある冬の日に、少女の部屋は「偶然」燃えてしまう。彼女は「たまたま」散歩に出ていたため、命は助かる。

 しかし失火は彼女が原因だ。寮全体を巻き込んだ火事の責任は彼女と家族が取らねばならない。しかし、そうなれば父親は少女を切り捨てる。

 だからそこで、よしみのある自分たちが、家を失った彼女に救いの手を差し伸べる――


 学院で過ごせる時間は僅かだ。

 男爵家の彼女と自分たちでは、家格が離れすぎて結婚することもままならないし、イサベルが侍女として召し上げるには、学院出の貴族令嬢というのは身分が過ぎた。

 ただの友情で結ばれていただけでは、やがて彼女は父親の命じるまま、どこかに嫁がされてしまう。


 ライラが、家から離れられれば。


 ただの、とことんまで無力な少女であれば。

 彼女の翼を徹底的に()いでしまえれば。

 自分達は今度こそ、彼女を傍に縫いとめることができるのではないか。


 最初は、良心がかすかな警鐘を鳴らしてもいたのだ。

 それはおかしい。何かが間違っていると。


 しかし、彼がサミュエル達に求めたのは、ごくごく僅かな手伝いだった。


 ライラに、手際良く引っ越せるよう、アドバイスをすること。

 隠れて喫煙する者たちに、格好の隠れ家を教えること。

 そして、彼らが喫煙しているであろう最中に、寮監の見回りをぶつけて、慌てさせること。


 サミュエルやイサベルは、ただ一言、囁くだけでよかった。

 しかもそれは、ライラの命を、なんら直接危険に晒すようなものではなかった。


 偶然が、よほどうまく積み重ならない限り、彼女は手には入らない。

 けれどその気安さが、サミュエル達を行動に駆り立てた。


 果たして、偶然はまるで精巧に作られたドミノのように積み重なり、真冬の大火は起こった。


 ただし、誤算もあった。


 少女はそのおぞましい「偶然」を鼻で笑うように、姿を消してしまったのだ。


「……悪かったよ」


 サミュエルはぽつりと呟いた。


 ただ、少女と一緒にいたいだけだった。

 彼女と過ごす時間はあまりに楽しく、あまりに鮮やかだったから、これが永遠に続くという甘美な発想に、自ら爪先を浸してしまった。


 そうして、越えてはいけない一線を、自分達は越えてしまったのだ。


 自業自得。因果応報。

 今の自分たちを表現する言葉はいくらでもある。

 置いていかれたと彼女を責める資格など、自分たちに無いことはわかっていた。


 ただ、寂しかった。


 寂しくて、彼女のあの素っ気ない笑みが恋しくて、つい身勝手に腕を伸ばしてしまうのだ。あの月が欲しいと泣き叫ぶ子どものように。


「……寒」


 ぽつりと漏らした言葉は、闇に溶けて消えた。


 そう、だからこんな夜は、一層肌の温もりが恋しくなってしまう。

 ちょうど月を見上げるのを止め、門の向こうに視線を巡らせた時、待ち人がこちらに向かってきたのが見えた。


 夜目にも艶やかな、動物の毛皮を使ったコートが覆う豊満な肢体、白い顔、濡れた赤い唇。

 商業的に女性の記号を強調した彼女は、自慢の金茶の髪を揺らしながらこちらに近付いてくる。


 彼女――娼婦のベルタが駆け寄るのを、サミュエルは片手を上げて出迎えた。


「やあ、ベルタ。『偶然』だね。こんなところで出会うなんて」

「ふふ、『偶然』ね、サミュエル様。敬虔なあたしの祈りが通じたのかしら」


 ベルタは、緑がかった茶色の瞳をきれいな笑みの形に細めて、サミュエルの指に自らの繊細なそれを絡ませた。


「俺なんかに会うために、祈りを捧げてくれていると? なんともったいない」


 軽やかにその手を取り、小さくキスを落とすと、ベルタは「あん」と甘えた声を上げた。


「相変わらず、酷い人。イーリスの館にいる女たちは、みんなサミュエル様の訪れを祈っているに決まってるわ。わかっているくせに」

「おや、俺が歓迎されるのは月末だけかと思っていたよ」


 彼がそうおどけるのは、彼女たちが月ごとに「売上」を競い合っているためだ。

 金払いのいい上得意をどれだけ月末にかけて招けるか――それが彼女達の魅力を図る物差しであり、そして花街で生き延びるための財産であった。


 ベルタは細く整えた眉をきっと釣り上げ、あえて怒っているような表情を浮かべた。


「んもう、嫌味な人。そりゃ、月末のあたし達が切羽詰まっているのは事実だけれど、それをからかったりなんかして。現に、あたしがこうして会いに来た今日は、今月が始まってまだ三日よ」

「悪かったよ。自分に自信がないものでね。君に慰めてもらいたかったんだ」


 サミュエルはさりげなくベルタの肩に手を回す。

 すると彼女は実に自然な動きで体の向きを入れ替え、サミュエルの広い胸に顔を埋めるようにして抱きついた。


「ああ、会いたかったわ、サミュエル」

「俺もだ」


 優しく彼女の背中を擦る。その時、ふとサミュエルは、コートの内側の感触がやけに滑らかであることに気が付いた。


「随分薄着だね、ベルタ。寒くないの?」

「――寒いわ。とても寒い。温めてくれる?」


 首だけ起こし、こちらを見上げてくる彼女は、あどけない少女のようだ。

 ベルタはゆったりとした動作で右手を自らの襟元に差し込むと、コートの合わせを少しずつ寛げてみせた。


「前月の売り上げが最低だったせいで、いよいよ着る物も揃えられなくなってきたの。ほら、可哀想なあたしの体を、見て……?」

「おいおい、積極的だな」


 さすがに野外でことに及ぶ趣味はない。

 サミュエルがさりげなく胸元を閉じようとすると、しかしベルタは思いもよらない強い力で、その腕を掴んだ。


「どうして? あたしの体には、もう飽きた?」

「……ベルタ?」


 ちりりと、まるで戦闘が始まる直前のような皮膚が粟立つ感触を覚え、サミュエルは咄嗟に拳一つ分の距離を取った。

 だが、ベルタが瞳に涙の膜を張りながら、縋るようにその胸に顔を埋めてくる。


 彼女はサミュエルの外套に鼻先をこすりつけると、やがて両手を背中に這わせはじめた。


「ねえ、聞いて。あたし、先月、一向に花がつかなかったの。サミュエルには黙ってたけど、これでもう三カ月連続よ。イーリスの館は、とびきり美しい花を揃えるけれど、だからこそ萎れた花は早々に摘み取る場所。わかるでしょ?――あたし、今月いっぱいで、よそにやられるの」

「そんな……」

「ねえ、サミュエル?」


 ベルタが、鼻に掛かったような甘え声を出す。その顔は、胸に埋められたままで見えなかった。


「どうして、先月来てくれなかったの?」

「――ベルタ?」

「あたし、待ってたのに。あなた、他の女のところに行ったのでしょう。よりにもよって、あたしのことを散々虚仮にしてきた、エルザなんかのところに……!」


 背に回されていた腕の温もりが、ふと消え失せる。

 彼女は大きく右腕を振りかぶっているのだと瞬時に把握したサミュエルは、弾かれたように顔を上げた。


 その時。


「止めなさい!」


 凛とした声が、夜闇に響き渡った。


 ばっと、ベルタが声のした方向に顔を向ける。

 サミュエルはその瞬間を見逃さず、すかさず彼女の腕を捻り上げた。


「あう――っ!」


 女の呻き声と共に、ナイフが月光を弾いて石畳の上を滑る。サミュエルはそれを長い足で蹴り上げると、その場にベルタを押さえこんだ。


「ぐ……っ! 放せ……っ! 放せええええ!」


 化けの皮を剥がされたベルタが、金切り声で叫ぶ。そこには、嫉妬と恨みの前に理性を投げ捨てた、歪んだ女の顔があった。


 だが、それで怯むようなサミュエルは男ではない。

 彼は普段軽薄な笑みを浮かべている顔を、感情の見えない淡々とした表情に改め、冷静に彼女を拘束した。


 身動きが取れないよう、背後に回した両腕を強く押さえこんだまま、ようやくそこで声の持ち主を誰何する。


「誰――」


 だが、その言葉の途中で、サミュエルははっと息を飲んだ。

 満月を背負った少年のシルエットが、なぜか、見知った少女のものに思えたからだった。


「ライラ……?」


 呟いて、何を馬鹿なとすぐに自分で打ち消す。

 愛しい少女を男と見間違えるなんて、錯覚もいいところだった。


「ああ、いや、違う、ライルだ。それから、ルドルフ。君たち、どうしてここへ?」


 気にも留めていなかったありふれた少年の名を、サミュエルはようやく舌に乗せて味わった。


 そうしてようやく気付く。


 ライル。――ライラ。

 なんと、あからさまなまでに似た響き。


 目の前の黒髪の少年は、呆れたように溜息を吐いていた。


「……まったく、本当に刺されようとしているなんて。レモンにでもなったつもりですか」


 その瞬間、サミュエルの心臓はどくりと飛び跳ねた。


 ルドルフたちに、かつてライラと交わしたレモンの寓意についてを話しただろうか。


 ――いいや。

 サロンで話したのは、自分の住む世界をヴァニタスのようだと彼女が評したこと、ただそれだけ――


「ライラ……」


 サミュエルは、心臓から手足までを、一気に血が流れるような興奮を覚えた。


 目の前のライル――いや、ライラは、しまったというように目を見開いている。

 髪は黒い。

 肌も焼けている。

 しかし、その瞳は、サミュエルが宝石のようだと密かに思っていた、美しい(みどり)色だった。


「ライラ……ライラ……!」


 夢にまで見た少女が目の前にいる。

 それを認識しだした脳が、体が、彼女を求めて無意識に動きだしていた。


「あ、ちょっ……!」


 突然こちらに向かってふらりと立ち上がったサミュエルに、ぎょっとしたのはライルの方である。


 その鬼気迫った彼の様子も勿論だが、それだけではない。


「手を放すと……!」


 サミュエルが拘束を解いた瞬間、床に押さえつけられていた女性が、凄まじい形相で道に転がっていたナイフに向かって走り寄ったのである。


 そこからは、一瞬だった。


 拾い上げたナイフを握り締めたまま、女性がサミュエルの背後から大きく腕を振りかぶる。

 ライルの焦った顔で我に返ったらしいサミュエルが、はっと後ろを振り返ろうとする。だが、それから対処したのでは、間に合わない。

 ライルは咄嗟にサミュエルの腕を掴み、ぐっとそのまま前に引っ張った。反動で、自らの体が女性の方へと押し出されていく。


 ナイフの切っ先が、満月の光を弾く。


 刺される――!


 ライルが無意識に目を瞑ったのと、全身を強く抱きしめられたのは、同時だった。

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