13.娼婦の絵札(前)
思いの外早い時間に解放されたため、ライルは多少時間を掛けて夕食作りに取り組むことができた。
ルドルフは自室に戻ってからこちら、ずっと物問いたげな視線を向けてきていたが、従者としての本分を全うするために大変心苦しくもさくっと無視を決め込む。
この数週間で、ルドルフは煮込み料理の類が好きだと把握していたので、本日挑戦したのは、牛肉と野菜をふんだんに使用したマスタード煮込みだ。
「お待たせしました。牛ほほ肉と冬野菜のとろとろ煮~マスタードは皿の中心で愛を叫ぶ~です」
「おお、グラーシュか」
奇妙な料理名に眉ひとつ動かさず相槌を打てるくらいには、ルドルフも耐性は付いているようだ。
いや、むしろ、メインディッシュとして好物が出てきたことに、いつもは硬質な光を浮かべている青灰色の瞳が僅かに和んだ。
今回はとろりとしたマスタードの色味といい、ほろりと柔らかそうな牛肉といい、見た目にも美味しそうである。
「美味そうだ。いただきます」
――ゴッ……
しかしルドルフがスプーンを口に運んだ瞬間、低く鈍い音が辺りに響いた。
「…………何か、『とろとろ煮』というには相応しくない固い音と感触がするのだが」
「ああ。その人参の辺りは『さっと煮』ですね」
ライルはあっさりとコンセプトを変更し、いけしゃあしゃあと頷いた。
「……じゃがいもは煮溶けているというのに、なぜこんなことが起こるんだ」
「はて。考えたことはありませんでしたが、観察される事実から推測するに、人参の大きさが不均一だからでしょうか」
スプーンに乗せた人参が、片や拳半分ほど、片や小指の爪の先ほどであることを認め、ライルは答える。
「最近では、授業中に生徒が教室を歩きまわるのも『個性』と言うのだとか。具材の切り方にも、その辺りの世相を反映してみました」
「この局面で個性なんてくそくらえだ……!」
ルドルフは、教育の現場で「個性」という名の魔物に押しつぶされようとしている新米教師のような呻きを漏らした。
「繰り返すようですが、イーヴォは――」
「イーヴォは君に何か弱みでも握られているのか?」
好物への期待を踏みにじられたためか、ルドルフの声は恨みがましい。
それは疑問の形を取った愚痴のようなものだったが、ライルはふと
「……そうですね」
と呟き、手にしていたスプーンを卓に伏せた。
「一体どうして、彼はいつまでも私の傍にいるのでしょう。……もう、充分でしょうに」
「……ライ?」
いつもと様子の異なるライルの姿に、ルドルフが訝しげな顔をする。
青灰色の瞳が途端に心配そうに曇ったのを見つけて、ライルは「ああ、いえ」と肩を竦めた。
「だめ従業員を抱えた経営者のひとりごとですよ。もう十分損害は受けたのに、いつまで彼は店に居座るつもりかってね」
いつもの声、いつもの口調。しかし、それに騙されてくれるようなルドルフではなかった。
彼は、
「……なあ、ライ」
人参を切り刻んでいたナイフを下ろし、真っ直ぐライルの目を覗き込んできたのである。
「なんです? 人参を切るにはナイフの強度が足りませんでしたか?」
「そんな野菜の範疇を超えた食べ物を口にしているつもりはない。そうではなく――イーヴォのことだ」
「彼が何か?」
ルドルフは少し悩んだように言い淀み、やがてはっきりと告げた。
「彼は、君のことを本当に大切に想っているのだと思う。そして、君は、彼という人物に想われ守られていることを、もっと認めるべきだ」
その力強い断言に、今度はライルの方が眉を寄せた。
「形見の品を壊されておいて、なんでまたあなたはそんなにイーヴォに肩入れするんですかね」
前々から疑問に思っていたことではあったが、ルドルフのイーヴォに対する好意的な評価は一体どこから生じるものなのか。
ライルのそんな疑問の答えは、次の彼の言葉で明らかになった。
「彼が俺に、君のことを託してきたからだ。安全な学院に匿うことで、君を追手から守ってやってくれと」
「は?」
寝耳に水とはこのことである。
「追手から、守る……?」
「ああ。君はそういう事情を隠したがる性分だから黙っておいてくれと言われたが、君が身支度を整えている時に、イーヴォが話しかけてきたんだ」
――クレンペラーさん。いや、クレンペラー様。あんたに折り入ってお願いがあるんです。
彼は、そのゴリラめいた顔に精いっぱいの真剣な表情を浮かべて、丁寧に切りだしてきたという。
――実はこの店、贋作屋なんて商売をしてるもんで、敵が多くってね。ライも随分上手に逃げてきたんですけど、とうとうその内の厄介な奴が、ここを嗅ぎつけたみたいなんです。
あいつは頭は回るけど、暴力沙汰はからきしだ。ちょっとの間でいい、片がつくまで、ライを学院で匿ってもらえませんかね?
そう言って彼は、無残に抉れた壁を指し示した。
――敵さんはこのとおり、手段を選ばないお方なもんで。
ライルははっとする。これまでのイーヴォのゴリラめいたキャラクターですっかり納得していたが、常識的に考えて、在庫整理をしただけで壁が抉れるほどの事態が発生するはずもなかった。
あれは、――そう、まるで、武器を持った者同士が戦った跡のようだ。
「彼はこっそり懐中時計も見せてくれた。相変わらず針もひしゃげ、盤面もひび割れていたが、龍頭を少し引っ張ってあっただけで、仕掛けは無事だった。あれは彼の演技だったんだ。彼はしきりと詫びながら、どうかどうかと頼み込んできた」
ライルはまた、カウンターに戻ってきた時にルドルフに向かって拝み倒すイーヴォの姿を思い出した。
そしてルドルフは、事情はよくわからないものの、自分と同年代の少年が何か危険な目に遭おうとしているなら、それは防がれなくてはならないと考え、イーヴォの頼みを引き受けたのだと言う。
「追手の正体というのは、てっきり商売敵か借金取りなのだと思っていた。だが、今朝君の話を聞いてわかった。君は、数年前に引き取られ、逃げ出したという、下級貴族の父君に追われているんだな?」
「…………」
呆然と黙り込むライルに、ルドルフは「ライ」と言葉を重ねた。
「俺は、君に恩があるし、君のことを友人だと思っている。困っていることがあるなら、力になりたいんだ。イーヴォの頼みとはいえ、君を騙すような真似をして申し訳なかったが、どうか詳しい事情を――」
しかし、言葉を切って眉を寄せる。
ライルが青褪めていたからだった。
「……ライ?」
「……おあいにく、裏通り文具店は、自転車操業ではあるものの、無担保無借金の健全経営でしてね。借金取りになんて未だかつて会ったこともないですし、私を学院に放り込んだまま音沙汰もない、薄情な父親から追われたことだってありません」
ああ、だめだ。ルドルフには自分が学院に通っていたことを――火曜会との繋がりを話すつもりではなかったのに。
しかし、思考はつるつると表面を上滑りし、まともな結論を導いてくれなかった。言葉だけが溢れて、止まらない。
「はは。人外のイーヴォに騙されるなんて。私もまだまだです。学院で匿う? どういうことですか? むしろ、敵は学院にこそいるというのに」
イーヴォには、ルドルフと同じく、火曜会との経緯を詳しく話したことなどなかった。
しかし、自分がその組織を毛嫌いしていて、学院に近寄りたがらなかったことは、彼も知っていたはず。
「ライ……」
「追手? 特に厄介な、手段を選ばない敵? どうして彼がそんなこと――」
イーヴォは何を、どこまで知っているのか。
なぜ自分を学院に差し向けた? 本当に何かから守るためだというのか。
それとも――
「……ちょっと、出掛けてきます」
ライルは無表情のまま立ち上がった。
そのまま椅子を蹴り倒す勢いで出て行こうとしたのを、腕を掴んで止めたのはルドルフである。
彼は青灰色の双眸に、珍しく焦りの色を浮かべていた。
「おい、どうしたんだ。どこに行く」
「ちょっと野暮用を思い出しまして。明日の朝食までには帰りますよ。鮭のムニエルにしましょうか」
「ライ」
ライルは強引に腕を振り払うと、扉に向かって歩き出した。
だが、再度その腕を掴まれる。
「落ち着いてくれ。こんな時間にどこに行くんだ」
「こんな時間なんで急いでお家に帰るんですよ。世の夫だって妻の里帰りを止められないんです、あなたに私の帰省を止める権利はありませんよ」
「ライ!」
腕をあちこちに振りまわして逃れようとするライルを、ルドルフは壁に押し付けることで抑え込んだ。
顔を寄せると、ほんの僅かにルドルフの方が背が高い。彼はわずか指三本分ほどの高みから、心配そうな顔でライルを見下ろした。
「イーヴォと俺で、君を騙すようなことをしてしまったのは悪かった。だが、もし彼が君を何か……その、害そうとしているのだと思っているんだったら、彼の元にひとりで出向くような真似は止めてくれ」
「今の時点で彼の思惑がどうかなんて決めつけてませんよ。それを確かめに行くんですから」
「それでもだ。君が学院に来たのも、今こうしてイーヴォのことを疑っているのも、元をただせば俺のせいだ。君が彼の元に行くというなら、俺だって一緒に行く権利と義務がある。当事者として」
お得意の責任丸抱え理論に、ライルは黙り込んだ。
珍しく、ライルの頭は怒りでいっぱいになっていた。
けしてイーヴォに騙されたことに衝撃を受けているだとか、ルドルフに押さえつけられているこの状況が気に食わないだとか、そういうことではない。
自分の預かり知らないところで、自分の扱いが勝手に決められているというこの境遇が、ライルの逆鱗に触れたのだ。
しかし、
「ライ、頼む」
力で押さえつけているのは彼だというのに、ルドルフが心底困ったように懇願してきたため、ライルの怒りは爆発を免れた。
居丈高な命令や、身勝手な暴力であればいかなる手段を使っても叩き潰していたが、こんな捨てられた子犬のような顔で頼みこまれたのでは敵わない。これが演技なら大したものだ。
「……今すぐこの手を離してください。そして、私とイーヴォが話し合っている間は、うんだとかすんだとか、そういった一音節でも口にしないと約束してください」
「ライ……」
同行の許しを得て、ルドルフがほっと表情を和らげた。
同時に、自分が相手の腕を強く掴んでいたことを今さらながら自覚したのか、慌てて身を引き離す。
「では、行こう。この時間、馬車寄せには馬車は居ない。外出届を出して東門で馬車を捕まえねば」
「その辺りの処理は、申し訳ないですがお任せしますよ」
従者としての仕事を堂々と放棄し、ライルは質素な外套をまとった。
出際、ちらりと食卓を振り返る。そこには、皿によそわれたグラーシュが、寂しそうに二つ寄り添っていた。
「――ま、帰ってくる頃には、余熱でほどよく均一に柔らかくなっているかもしれませんね」
「……それはないと思う」
そうして二人は、夜の寮を抜け出した。
***
規則の申し子ルドルフが諸手続きを恙無く済ませてくれたおかげで、ライルたちは早々に外出届を出し、東門で馬車を待つことができた。
しかし、順調だった外出は、とある人物の出現によって妨げられることとなってしまった。
「あの、もし。あなた様方は、こちらの学生さんですか?」
東門に乗り付けた馬車から、まろび出るようにしてきた男性である。
夜に紛れるような黒い外套を纏い、でっぷりとした体形を覆っている。
しょぼくれた目といい、少ない髪にちょこんと乗った帽子といい、何か全体的にうだつの上がらない印象のする人物であった。
彼は、すかさず馬車に乗り込もうとしていたライル達に縋りつき、早口で尋ねた。
「お、お待ちください! あの、火曜会のサロンは――いや、女子寮でもいいのですが、そう、イサベル様……イサベル・フォン・シュタウディンガー様のお部屋はどちらにございますか!」
彼の口から出てきた名前に、ルドルフが目を見開いた。
「火曜会の――イサベル様にご用件が?」
「ルドルフ、行きましょう。この方の用件を検め部屋を教えるのは、学院の使用人の役割です」
気が急いているライルは、正論にかこつけて男性を追い払おうとする。
口早に「お荷物のお届けならあちらの集配所、ご面会ならそちらの受付にどうぞ」と指差し、今度こそ馬車の踏み台に足を乗せかけた。
「お待ちください!そんな余裕はないのです!どうしよう、もうサロンは終わってしまったでしょうか……。今日お届けするとお約束したのに、イサベル様にこのヴァニタスを届けられなければ、私はどんな目に遭うことか……!」
「――なんですって?」
ヴァニタス。
その単語に今度はライルが動きを止めた。
「あなたは、イサベル様にヴァニタスを届けにいらしたのですか?」
男性は縋るべき藁を見つけたとでも言うように、慌ただしい動きで首を振る。
「はい!はい、はい!その通りです!私はヴェレスの街が生み出した時代の寵児、になる予定の画家、マンフレート・ゾルガー。恐れ多くも火曜会のイサベル様とサミュエル様に目を掛けていただき、このたび会に最新作をお持ちする栄誉に預かった者です」
ライルとルドルフは素早く視線を交わした。
マンフレート・ゾルガー。
先程鑑賞した絵画の作者の名前だ。
「……絵画は、既に納品されていたのではないのか?」
「え?」
「いえ。――私はルドルフ・クレンペラー。この期より火曜会に加わった者です。失礼ながら、あなたの絵は既に届いているのでは? 我々はまさに先程、あなたが描き上げたというヴァニタスをサロンで鑑賞してきたばかりです」
男性――ゾルガーは、ルドルフの名前に「へ?」だとか、火曜会に加わったと言う説明に「ああ!」だとか忙しなく頷いていたが、ルドルフの既に絵画は鑑賞したという言葉にきょとんとなった。
「……え? そんな、まさか。私めの描き上げたヴァニタスは、今この手元にございますが」
彼はしどろもどろになりながら、昼に届けさせるはずだったのが、使用人を乗せた馬車が事故に巻き込まれ、絵画だけ戻って来てしまっただとか、それで自分が出向いたのだとかの内容を、しきりに詫びの言葉と感嘆譜を散りばめながら説明した。
「えーと、あの、クレンペラー様におかれては、サロンで一体――ああ!しまった! ろくにご挨拶もしておりませんでしたね。画家というのは、どうもこういったマナーに疎くていけません。改めて、このたびは火曜会へのご入会おめでとうございます。私は……」
彼がわたわたと脱線しようとしているのをよそに、ライルは「失礼」と呟くと、彼が抱えていた荷を奪い、梱包を解きはじめた。
「え!あ、ちょ……!だ……!何……!」
「ライルです。不本意ながら会に加わったメンバーの一人です。あなたの荷を検めています」
ろくに文章の態を成していない質問にさくさく答えながら、手際良く紐を解き、何重にもくるまれた油紙を剥がしていく。
果たして、青白い月光と、馬車寄せの外灯のもとに、彼の作品が露わになった。
確かに、ヴァニタス。
ただし、
「額に収まっているな」
「……構図も主題も、先に見たものとは違います」
そこには、きちんと額の装丁までなされた、行儀のよい静物画があった。
テーブルの上に様々な物が描かれているのは同じだが、ゾルガーのそれは、生の虚ろを感じさせるというよりは、単純に見目麗しい果物や楽器が描かれている。
「どういうことだ……?」
ルドルフが困惑に眉を寄せた横で、ライルは小さく「そういうことか……」と呟いた。
「ライ?」
「すり替えですよ。私たちが先程サロンで見たのは、彼とは異なる画家が描いた、別物ということです」
「ええ!?」
ゾルガーがぎょっと目を剥く。
「どどど、どういうことです!? 私の贋作が出回っているということですか!? それとも飛ぶ鳥落とす勢いで火曜会に目を掛けられた私に誰かが成り替わろうと!? なんてことだ、私の才能が溢れているばっかりに!」
「ゾルガーさん、落ち着いてください。――ライ、どういうことだ? 俺たちにも話が見えるように説明してくれ」
しかしライルは、すぐには答えようとはしなかった。
「……なんで、こんなタイミングで……」
そう言って、恨みがましげに馬車を睨みつけたのである。
「ライ?」
ルドルフが重ねて尋ねても、ライルは動かない。まるで何か難しい選択を突きつけられたように、じっと眼前の馬車を見つめ――やがて、盛大な溜息と共に、馬車から向き直った。
「……行きましょう、ルドルフ。どうせあなたも来るんでしょう?」
ルドルフたちはさっぱり訳がわからない。
特にゾルガーは、そのふくよかな体を震わせて、「え?え?え?」と戸惑っていたが、ライルは迫力のある笑みを浮かべると、そっと彼に話しかけた。
「よくお聞きください、ゾルガー様。大変ですよ。あなたの才能を妬んだ誰かが、先んじて火曜会にヴァニタスを送りつけました。あなたの名を騙ってね」
「なんと!」
「私たちは善意溢れる若者なので、その輩をこれから突き止めてきます。なに、礼には及びません当然のことです。そしてあなたは」
ライルはがっとゾルガーの肩を掴み、その笑顔を、睫毛と睫毛が触れあいそうな程にまで近付けた。
「今すぐこの場から立ち去って、そうですね、イサベル様に事情の説明にでも上がってください。ただし、直接寮に向かったりなんてしたら捕まりますよ。あちらの受付で身分証を提示して、用件を取り次いでもらってください。事は一刻を争います。今、すぐ、どうぞ」
あちら、と言って指し示したのは、馬車寄せから数マイル先にある小ぢんまりとした建物だ。
ゾルガーは「ひええ!」と叫んでしばらくきょろきょろしていたものの、やがて心を決めたらしく、礼を叫びながら受付へと向かって行った。
と、馬車の御者台から
「お客様、お乗りになるので?」
戸惑ったような声が聞こえてくる。
ルドルフは咄嗟にライルの方を見たが、そのライルと言えば無念そうに若草色の瞳を閉じ、
「……いいえ。ちょっと用事が発生しまして、また三十分後くらいに伺います。他にお客様がいるようでしたら、どうぞその方を乗せて差し上げてください」
未練を断ち切るように馬車に背を向けた。そしてそのまま、構内へと戻りだす。
「ライ、いいのか? というか、どこに向かっているんだ?」
「裏門へ。壁外を回り込むより、構内を突っ切った方が早いので」
「裏門?」
ルドルフは不信も露わといった様子だ。
「なぜ裏門なんかに向かうんだ。それに先程の、絵がすり替えられたというのは本当なのか?」
「ゾルガー氏を妬んで、といった辺りは創作ですが、すり替えられていたというのは事実です」
ライルは小走りになりながら、横にぴったりと付いてくるルドルフに向かって事態の説明を始めた。
「お恥ずかしながら、私はあのヴァニタスの解釈が充分に出来ていませんでした」
「ヴァニタスの? サロンで見た方のことか?」
「ええ」
頷きながら、ライルは脳裏に虚ろな静物画を思い描く。
何千何万という絵画で目を肥やしてきたライルは、まるで頭の中に複写を置いているかのように、その特徴を精緻に再現することができた。
「覚えていますか。画面の真ん中には、儚い生命を表す蝋燭と、死を表す髑髏。その手前に、チェス盤と絵札、財布に真珠。その奥には、皮を剥かれ、ナイフが突き刺さったままのレモン」
「ああ……。たしか、チェスと絵札は賭けごとや一時的な愉悦、財布と真珠は仮初めの財産、レモンは苦い人生の象徴だろう?」
「通常はそうです。ただ、今回の構図では、もう少し複雑な意味がある」
若草色の瞳が、真実を見通すように虚空に向かって細められる。
ライルは、ルドルフに絵札の柄を覚えているかと尋ねた。
「柄って……そうだな、たしかクイーンだ」
「その通り。ダイヤのクイーン。通常は彼女もまた権力や財産の象徴です。ただし、今回は女王の絵札に、財布と真珠が添えられていた。これが何を意味するか分かりますか」
ルドルフが眉を寄せる。裕福な女性であることを示している、ということではないだろう。女王という時点で、権力や財を手にしていることは既に明らかなのだから。
答えられないルドルフを見て、ライルは微かな笑みを浮かべた。
「――娼婦です」
すぐ横でぎょっと目を剥く気配がする。ライルはしかし、「花売り」であるとかの穏やかな表現に改めることをせず、続けた。
「金と宝石を受取って仮初めの女王となる女性。これは、娼婦を示す暗喩です。そして、彼女と、チェス盤の間には、レモンに突き刺さったナイフ。人生を切り裂くナイフの横には、生の炎が揺らぎ、やがて消えてしまうことを暗示する髑髏と、そして、力無く倒れるチェスの騎士。娼婦が刺し殺した憐れな騎士は、一体誰のことを指しているのだと思います?」
ルドルフははっと顔を上げた。
――アルテンブルク先輩は、学院を出られたら、大鷲騎士団への入団も決まっているという。男なら憧れずにはいられないお方だな。
「サミュエル、先輩……?」
ライルは無表情に「チェックメイト」と呟いた。
「今宵サミュエル様は、馴染みの女性との逢瀬があるのだとか。その女性とやらが、募らせた恋情の他に、ナイフなど持ち込んでなければ、――いいんですけどね」
ライルは滑らかな筆跡で書かれた、たった一言の文言を思い出していた。
救済を。――S
S。サミュエル。なんとも回りくどいSOSだ。
自分の命すら、助かるか助からないかの賭けに投じる程、彼は人生を倦んでしまったのだろうか。
満月の夜になるたびに、裏門で月を見上げていたという彼の姿を思い浮かべる。
その中で、彼の明るい鳶色の瞳は、暗く冷たく凍えていた。
表情も無く、普段はしなやかに動く体すら身動ぎもさせず、ただ主人の帰りを待ち続ける憐れな犬のように、じっとその場に立ち尽くす。
レモンの寓意を、そんなことのために教えたのではないのに。
「……だいたい私は、犬の類に弱くていけない」
小さな呟きは、ルドルフには聞こえなかったようだ。
「今なんて?」と聞き返す彼に首を振り、ライルは裏門への道のりを急いだ。




