12.饒舌のヴァニタス(後)
「これは素晴らしい」
「これが、ヴァニタス……」
ルドルフもつられたように立ち上がり、イーゼルに歩み寄った。
じっくりと見入る男二人に、イサベルがテーブルに着いたまま、カップを掲げて誇らしげに告げる。
「わたくしたちが発掘した画家の最新作よ。先程届いたばかりで、まだ額の装丁も済んでいないほど。でも、どんな額が相応しいかと悩むほど、素敵な作品でしょう?」
「そうだな」
サミュエルは口の端を引き上げて、絵画に一つ一つ視線を投じた。
「まるでヴァニタスの手本のようだ。テーブルの上に置かれた、チェス、トランプ、ナイフ、財布、楽器に果物、そして蝋燭と髑髏。溢れる色遣いも絶妙だが、構図も素晴らしいな」
彼がそう言うのは、蝋燭と髑髏が隣り合いながら中央に配置されているからだろう。
蝋燭の火は生を、髑髏は死を表す。だいぶ短くなってきた蝋燭の、その燃え尽きた辺りに髑髏を置くことで、視線は生の先にある死へと誘導されるのだ。
ライルも、うっかり逃亡計画を忘れ、遠目でこの美しき絵画に視線を注いだ。
盤上で倒れるチェスの騎士、すぐ横に散らばるダイヤの女王。
ご丁寧に、クイーンの絵札には財布の一部がのしかかり、そこから零れるようにして真珠が飛び出てしまっている。
散財の果ての凋落、ということだろうか。どれも一様に、テーブルの右端に向かって下がるように描かれている。
と、奥の籠に、ナイフが突き刺さった状態で置かれている果物を見て、サミュエルがふと目を細めた。
「レモンだ」
まるで、大切な誰かを愛おしむような、声。
不思議に思ったらしいルドルフが窺うような視線を向けると、彼はにこっと美しい笑みを浮かべ、問うてきた。
「レモンが何の比喩だか知ってる?」
「え?」
ルドルフは唐突に話を振られ目を見開く。
「ええと……果物ですから、成熟と、その後の腐敗の比喩、でしょうか」
なかなかヴァニタスの本質を理解した答えではあったが、サミュエルは「惜しいね」と返し、説明した。
「爛熟を示すなら、林檎のような果実の方が相応しい。君も、腐ったレモンってあんまり見たことないだろう? ――これはね、目に、鼻に心地よい、けれど舌に苦い、人生というものの寓意だよ」
「人生……」
「ま、人からの受け売りだけどね」
感心したように頷くルドルフに、サミュエルはテーブルから取りあげた紅茶を啜って肩を竦めた。そういう、何気ない動作が様になる男である。
と、何か思い当たったらしいルドルフがふと顔を上げた。
「もしや、その人というのは、イサベル様が先程仰っていた女性のことですか?」
「おや、イサベルから聞いたのか」
サミュエルは楽しげに瞳を輝かせ、頷く。
「その通りだよ。俺らの愛しいリインライン。ヴァニタスをはじめとする絵画の魅力を教えてくれたのは、彼女だ」
「リインライン……愛らしい名前ですね」
生真面目な顔で相槌を打つルドルフに、ライルはじわりと冷や汗を滲ませはじめた。
なんだか雲行きが怪しい。
「先輩方が夢中になった彼女――リインライン様とは、どのような方だったのでしょうか」
「そうだねえ」
人の気も知らず、サミュエルは実に楽しそうだ。まるで大好きな絵の話をするように、じっくりと言葉を選んでから彼は告げた。
「花で言うならコスモス、動物に例えるなら白鳥といったところかな」
「それは……さぞや可憐で優美な方なのですね」
話を聞いていたイサベルが小さく噴き出す気配がした。
「違うわ、図太くて獰猛ということよ」
コスモスは荒れた大地に根を下ろし、凄まじい勢いで繁殖しのさばる野草界の女王、白鳥は怒ると相手の皮膚を食いちぎり、力強い羽ばたきで人の腕すらへし折る鳥界のプレデターである。
ライルは貼り付けた笑みの下で青筋を立てた。
サミュエル、この野郎。
「例えば――いつだったかな、男爵令嬢に過ぎなかった彼女に俺たちが構い過ぎたせいで、一部の生徒が彼女に嫌がらせをしたことがあってね。寮の寝室に蛇を投げ入れたんだ」
「なんということを……」
その事件はライルも覚えている。
目覚めとともにひんやりとした鱗の感触が隣にあって、さすがにびっくりしたものだった。
「でも彼女は嬉々としてそれをスケッチしたばかりか、主犯の生徒を突き止めて蛙や毛虫の類をたっぷりと送りつけていたよ」
あまりその手のことが得意でないらしいルドルフが、さっと顔を青褪めさせたので、ライルは弁明の必要性を感じた。
「きっと、スケッチできたお礼をしたかったんですよ。蛇が好きなら、きっとその辺りも好きだろうと。恩は二倍にと言います。なんとも良識のある、できた方ですね」
「おかしいな、俺の良識と違う……」
残念ながら主犯格の生徒の良識とも異なったようで、相手は卒倒して登校拒否になってしまった。不幸な事故だった。
「まあ、万事そんな感じでね。ひどい嫌がらせに遭っても全然堪えないばかりか、きっちりやり返す始末さ。基本的にあまり表情は動かさないんだけど、なぜか清々しいほど喜怒哀楽が伝わってきて、見てるだけで面白かった」
「まあサミュエル。喜びと怒りなら見たことがあるけれど、彼女が悲しんでいたことなんてあって?」
「一回、彼女が大切にしていた絵具を、転んだんだか何かの不注意で、全部チューブから出してしまったことがあっただろう。その時の彼女ったら、絵具の青より真っ青になって、一日中しょんぼりしたまま部屋に閉じこもっていたよ」
「まあ! 彼女らしいわ」
イサベルはころころと笑ったが、その事件を思い出したライルは涙が滲みそうだった。
人がどれだけ、あのコバルトブルーを気に入っていたと思うのだ。
「……独特な方ですね」
「そうだね。特別な子だった。楽しかったなあ。俺たち、それまで人から憧れの視線を向けられなかったことなんてほとんど無かったんだけど――事実だから許してよ――、彼女は『侯爵令息? 何それおいしいの』って感じでさ。人のことをばっさばっさ斬るわ斬るわ。そのくせ、好きな絵画をちらつかされると、途端に釘づけになって」
くすくすとサミュエルが形の良い唇で笑う。
彼はふと笑みを収めると、寂しそうな顔をして呟いた。
「そして、いつも、人が一番ほしい言葉をくれる子だった」
ふと下りた沈黙に、イサベルは申し訳なさそうにサミュエルを見やり、目を伏せた。
ルドルフが戸惑いに視線を彷徨わせる。それに気付いたサミュエルは、「……俺たちのいる世界っていうのはさ」と自嘲的な笑みを浮かべた。
「実に窮屈なものなんだよ。『優秀であれ、手本であれ』。幼い内に、他の生徒が十年かけて身につける全ての教養を叩きこまれて、けれど卒業するまでは、何ができるわけでもない。どれだけ剣の腕を磨いたところで、国を守るために戦えるわけでなし、知略を身に付けたところで革命を起こせるわけでなし。鬱屈した思いと、持て余した能力を抱えて、毎日暇という魔物を殺しながら息をしてる。しかも、微笑み一つで憶測が飛び、呟き一つで禍を引き起こす、そんな日々だ」
それはライルも学院に居た時うすうす理解していたことだった。
彼らの影響力は大きすぎるのだ。
その美貌に、その権力にあやかりたがる有象無象が、指一本で簡単に命すら投げ出してしまうほどに。
「ジークは水に泳ぐ魚のようにそれができた。イサベルも耐える根性があった。でも俺はといえば、うんざりしてたんだ。剣を隠し持って近付いてくる男も、下心を白粉の下に隠して甘い吐息を漏らす女も、見ていて嫌気が差した」
ルドルフはなんとなく、サミュエルの発言が理解できたのだろう――彼もまた腹芸を嫌う男だ――、真剣な顔で一つ頷いた。
「表情と心が一致しない人間は、恐ろしいですね」
「だろ? ところが、すっかりふてくされて、この世界から逃げ出したがる俺に、彼女は言ってくれたわけだ」
――実に面白い世界にお住まいですね。
かつてサミュエルに放った言葉を、ライルもまたぼんやりと思い出した。
そうだ、ちょうど一緒にヴァニタスを鑑賞していた時だったろうか。
彼が軽薄な態度に、時折疲労を滲ませたりするものだから、思わずそう言ったのだった気がする。
この時の、サミュエルに対するライルの感情は、イサベルに対するそれより少々複雑だった。
空回りを恐れず、全力でいじめの仲裁に入って行くイサベルとは異なり、サミュエルはライルが迫害に遭うのをただ動かずに見守っていた。
その明るい鳶色の瞳には、しかし様々な感情が凝っていたのだ。
揶揄、同情、罪悪感にもどかしさ、そして――諦め。
彼は、絶大な権力を纏う自分が動くことで、状況が更に悪化することを把握していた。それだけの優れた理解力が彼にはあった。
しかし、イサベルのような無邪気なまでの正義感や、逆にそれを存分に利用しようとするジークハルトのような強かさは持ち合わせていなかった。
軽やかな笑顔の仮面の下に、どろりと鬱屈した感情と、ひんやりと沈むような諦めを宿していたサミュエル。
そんな彼に、そう、ライルは少し苛立っていたのだ。
けれど、それこそが、整った顔に鍛えられた肉体を持つ彼の、唯一の人間らしい部分でもあったし、――その飼い慣らした諦めは自分にも通じるところがあった。
だから言ったのだ。
「まるで、ヴァニタスの中に入り込んだみたいではないですか、ってね」
「ヴァニタスの中、ですか」
「そう。つまりここは寓意に溢れた世界なんだ。陽気な笑顔は野心の、美しい化粧は諂いの、それぞれわかりやすいアレゴリーさ」
覆された杯、古びた王冠。
かそけき煙を上げるパイプに、先端を萎れさせた花弁。
どれもこれも虚ろで、けれどとびきり――美しい。
サミュエルは心底愉快そうだった。
「自分でも不思議なんだけど、それを聞いた瞬間、何かがすとんと腑に落ちたんだ。なるほど、ってね」
ライルは二年前、彼と交わした会話を思い出す。
サミュエルはしばし言葉を吟味した後、突然笑い出した。そして、歌うように語りだしたのだ。
――なるほど。これは寓意画だ。彼らはヴァニタスを構成する美しき虚像だ。そう思うと、なんとも彼らを見るのが、愛しく、楽しく、興味深い。
調子に乗ってライルも答えた。
あなたはレモンのようだと。自分もヴァニタスが好きだと。そして、
「自分がしっかり見届けてやるから、あなたもあなたの世界での意味を、表現してくれってね。彼女はそう言った」
サミュエルは紅茶の最後の一口を飲み終えると、「でも、彼女はとんだ大嘘吐きだよ」とこぼした。
「その後、……ちょうど今から一年前かな。彼女は火事に紛れて、姿を消してしまった」
「それは……」
ルドルフが眉を寄せる。サミュエルの発言では、少女が失踪したのか、死んでしまったのか、わからなかったからだろう。
「……ひどい日だったわ。いくつものちょっとした出来事が、全て悪い方、悪い方に――まるで悪魔の仕業のように、きれいに、重なって」
イサベルがぽつりと呟く。
首を傾げたルドルフに、彼女は当時の状況を説明した。
「その時、リインラインへの嫌がらせがだいぶ収まって来ていて。一時期は人通りの少ない寮館の端に住んでいた彼女だけど、ようやく、もう少し温かく新しい部屋に移ろうとしていたのよ」
ヴェレスの冬は厳しい。
暖炉も設えられていない古い部屋から、新しい部屋へとリインラインを引越しさせたのは、寮の裁量権を持つジークハルトの指示だったが、彼女にとってはそれが仇となった。
翌日の快適な引越しに備え、彼女は張り切って画材を部屋の外に運び出していた。その中には、当時彼女が興味を持っていた油絵や、それを制作するための溶剤もあったのだが――それが引火したのだ。
「人通りの少なかった彼女の部屋の裏では、一部の生徒が隠れて喫煙をしていた。リインラインは、引火しやすいテレピン油や乾油剤を、部屋の外に積んでいた。そして、乾燥していたある冬の夜に、事件は起こったの」
ライルは説明を聞きながら、口の端を皮肉っぽい形に釣り上げた。
偶然。不幸。
確かにその説明ならそう聞こえるだろう。――ジークハルトに会ったことがない人物であれば。
でも、とサミュエルが続ける。
「部屋から彼女の遺体は見つからなかった。構内の安全な場所に逃げたのでもなかった。それどころか、引越しの為にまとめていたいくつかの貴重品を持って、彼女は消えてしまったのさ。失火を利用してね」
彼はぐるりと鳶色の瞳を動かした。
「欲しい言葉だけちらつかせて、自分は消えてしまうなんて、ひどい女だと思わない? 可哀想な俺は、すっかりヴァニタスの見方も忘れてしまいそうだ」
沈みかけた場を取り成すように、サミュエルはおどけて告げた。
しかし、その鳶色の瞳には、隠しきれない後悔と傷心の色があることに、ライルは気付いた。――気付いてしまった。
やがて茶器をテーブルに戻したサミュエルは、小さく肩を竦めた。
「おっと、ヴァニタスの話のつもりが、すっかり彼女の話になってしまったな」
「いえ……」
ルドルフも、なんと言葉を返していいかわからなかったのだろう。
もごもごとそれだけ答えると、サミュエルは口の端を引き上げた。
「随分まじめな新入りだな。でも気に入ったよ」
そうして、再び立ち上がると、くるりと踵を返す。
「サミュエル?」
「紅茶をごちそうさま。絵も見たし、新入りとも話せた。招かれざる客のようだし、俺はこれにて失礼するよ」
「そんな……」
イサベルは美しい眉を顰めたが、強い制止ではない。ライルを慮ってのことだろう。
「実を言うと、この後お楽しみが待ってるんだ。今宵は満月、恋人たちが愛を囁くにはもってこいの夜。そうだろ?」
「まあ!」
ウインクしながら告げられた言葉に、イサベルは途端に語気を荒げた。
「サミュエル、あなた、また外から女性を連れ込む気? あなただけでなく、学院全体を危険に晒す行為よ。おやめになって」
「無粋なことを。それに、俺は構内に女性を連れ込んだりしていないさ。ただ、裏門でひっそりと、立ち尽くして月を見上げてるだけ――それにたまたま女の子が付き合ってくれることもあるけどね。健気なもんだろ?」
「サミュエル……」
ルドルフは、そのどこが健気かわからないとでも言うように首を傾げていたが、イサベルは気勢を削がれたように黙り込んだ。
「じゃ、またいつか」
サミュエルは軽く片手を上げると、それきり部屋を去ってしまう。
後には、三人と気づまりな沈黙だけが残された。
「……重ね重ね、サミュエルがごめんなさいね」
取り繕うように、イサベルがぎこちない笑みを浮かべる。
ルドルフは生真面目な口調で「いえ」と答えたが、不思議そうな顔つきで、
「月を見上げるというのは、何か健気なことなのですか?」
と疑問を口にした。サミュエルの発言を、火曜会、というか貴族の何か独特の表現なのかと思ったらしい。
素朴な疑問をそのままぶつけてくるルドルフに、イサベルはきれいに整えた眉尻を下げて苦笑した。
「いえ、別に何かの比喩とか暗喩ということではないのよ。ただ――その、リインラインが姿を消したのが、満月の夜だったものだから」
「満月……」
「ふふ、飼い主を待ち続ける犬のようでしょう? 彼自身馬鹿げているとは思っていつつも、やめられないみたいなのよ。サミュエルはああして、満月の日になると、裏門でぼんやりしていることが多いの。そうしていれば、いつか彼女がひょっこり帰ってくるのではないかって、ね」
――愚かでしょう?
彼女の哀しげな呟きは、明らかにライルに向けられていた。
琥珀色の双眸が、まるで不実を責めるかのように、じっと肌を貫いてくる。
ライルは視線を逸らし、立ち上がった。
「……我々もお暇しましょうか、ルドルフ」
「ライ?」
驚いたように声を上げる二人に、ライルはヴァニタスを指し示して答えた。
「イサベル様は、――本当は、サミュエル様のために、このヴァニタスを買われたのでしょう?」
イサベルがはっと息を飲む。それは肯定の意に他ならなかった。
ライルは静かに笑った。
「サミュエル様がご覧になった、満足されたということなら、本日のサロンの目的は果たされたはず。おまけに過ぎない我々が、長居するわけにもいきません」
「ライ……」
ライルはそっと、イーゼルに立てかけられたままの絵に近付いた。
先程はサミュエルたちが前を陣取っていたため、至近距離で眺めることができなかった、美しきキャンバス。
ふと、立てかけられたキャンバスの側面――ぴんと張られ、小さな釘で木枠に固定されている部分に、走り書きがされていることに気付く。
題名だろうか。そこには流麗な筆跡でただ一言、
救済を ――S
とあった。
「……そういえば、この画家の名前は何とおっしゃるのですか?」
「マンフレート・ゾルガーよ。以前サミュエルが発掘した、新進気鋭の静物画家」
ゾルガーのSということか。
その時胸に淡く兆した違和感は、しかし瞬きをする間に掻き消えてしまった。
それにしても、救済をとは。生の虚ろと死を描くヴァニタスの題名としては、相応しいような相応しくないような、微妙な文言だ。
「素敵な絵をありがとうございました。さあ、ルドルフ。あまり長居してもご迷惑です。行きましょう」
「そんな、ライ――」
「サミュエル様がお帰りになったのですから、我々もお暇しなくては失礼というものです」
言外に、「サロンに来るのはサミュエルたちが居ない時という約束だったはず」と匂わせれば、イサベルはそれ以上止めようとはしなかった。
ルドルフは、このタイミングで中座することが失礼にあたるか考えていたようだったが、イサベルが泣きそうに顔を歪めているのを見ると、やがて立ちあがった。
親しい仲であれば手を添えて肩を貸し、そうでなければ礼儀正しく場を去る。それが彼らの世界のマナーだ。
「イサベル様、素晴らしい絵画とおいしい紅茶をありがとうございました。とても充実した時間でした」
「……そう、よかったわ」
紅を刷いた唇が、恐らく何千回と鍛錬を重ねたのであろう完璧な形で笑みを象る。
ルドルフは丁寧に礼を取ると、ライルもそれに続き、サロンを後にした。




