11.饒舌のヴァニタス(前)
一週間ぶりのサロンでは、イサベルが手ぐすね引いて待っていた。
「待ちかねてよ、ライ! とルドルフ。さあ、どうぞこちらへ座ってちょうだい。お茶の準備をするわ」
勧められた先には、豪奢なクロスを張った丸テーブル。
座り心地の良い椅子が三脚並び、ライはイサベルのすぐ横に、ルドルフはその向かいに座らされた。テーブルにはセンス良く活けられた花と、繊細な茶器、食欲をそそる菓子。
大きく切り分けたパイを、イサベル自らサーブしてライルに微笑みかけた。
「はい、どうぞ、ライ。『ノイハイム』の栗のパイよ。お好きでしょう?――いえ、きっと、ということだけれど。はい、ルドルフもどうぞ召し上がれ」
彼女は取って付けたようにルドルフにも切れ端を差し出した。
「……なにか、ライと俺とでえらく大きさに差がある気がするんだが……」
「やだな、遠近法ですよ。はは」
ライルは遠い目をしてごまかした。
イサベルがイサベルすぎて困る。
そして遠近法に従えば、もちろん遠くにあるライルのパイよりルドルフの手元にあるパイの方が大きく見えてしかるべきだ。
ルドルフは釈然としないとでも言うように首を傾げていたが、そこに更にイサベルが攻撃を仕掛けてきた。
「そういえば、ルドルフ。あなたもライと呼ぶようになったのね?」
カップを優美な仕草で持ち上げ、芳しい香りを楽しみながら、にこりと告げる。
「……はい」
「そう、それはよかったわ。先にライと呼ぶ権利を得たわたくしからすれば、ライの友人が増えるのは喜ばしいことだもの。これからもライをよろしくね」
さりげなく、いや、かなりあからさまに優位を匂わせてくるイサベルに、しかしルドルフは意外な行動を取った。
一旦口を引き結んだかと思ったら、口の端に笑みを浮かべ、言い返したのである。
「……それはもちろん。ライは、私がこの会に引き入れるきっかけを作ったわけですから、責任を持って面倒を見ますよ」
「まあ。うふふ」
「はは」
なんだろう、この茶番は。
間に挟まれる格好になったライルは、諦念を浮かべて窓の外を見た。
哀しいことに、こういった光景は初めて見るわけではない。どちらかと言えば見慣れた部類だ。
イサベルとサミュエル、そしてジークハルトもまた、人をだしにして軽口の応酬をするのが好きで、ライルはしょっちゅうその材料になっていたのだ。
(けったいな貴族の遊戯に、ルドルフも付いていけるなんて……)
彼らのやり取りが本気だなどと全く考えていないライルは、その応酬に引けを取らず食らいついていくルドルフを見て、一抹の物悲しさを覚えた。
なんだろう。世間知らずで人見知りばかりすると思っていた弟が、よその悪ガキと楽しげに遊んでいるところを見てしまったかのような気分だ。
ルドルフたちはひとしきりの遣り取りの後、満足げに矛を収めると、滑らかに話題を転じていった。
「あの、今日はアルテンブルク先輩や、――お会いしたことはありませんが、クラルヴァイン先輩はいらっしゃらないのでしょうか。やはり、私たちが会に加わったことが、その、ご不満とか……? 何か私たちできることはありますでしょうか」
「まあ、ルドルフ、そんなかしこまらないでちょうだい」
イサベルは苦笑の面持ちだ。
「彼らの参加率が低いのは、ここ一年はいつものことよ。そうね、サミュエルはこの時間、きっと街に出ているのでしょうし、ジークは最近授業にすら顔を出さないわ。それに、火曜会は別に規律正しい会というわけではないの。気の向いた人が、気の向いたときに、ここに集ってお腹と目を楽しませる。元はそういう、緩やかな集いだったのよ」
「そうなんですか……」
だから、そのメモとペンも仕舞ってくれてかまわないわと諭され、ルドルフは意外そうに頷いた。
「……元々ね、この会は、ある女の子のために開かれた会だったの」
イサベルはライルにこっそりとウインクをしながら続けた。
「女の子?」
「そうよ、わたくしたち三人が大好きだった女の子。とても絵が好きな子でね、しょっちゅう美術室にもぐり込んでは、うっとりと画集を眺めていたわ」
へえ、とルドルフは興味深げに相槌を打って、ライルに水を向けた。
「君と気が合いそうだな、ライ」
「ははは」
気が合うも何も、本人である。
イサベルは懐かしむようにパイを見つめた。
「毎週火曜はね、ここのベーカリーが特別安くなる日だったの。それで、その子がパンを持ちこんで美術室に籠城しているのを、わたくしたちが見つけて。彼女の虜になってしまったわたくしたちは、そのパン以上のお菓子と、画集にある以上の美術品を鑑賞させることを約束して、彼女と毎週顔を合わせることになった。それが火曜会の始まりよ」
「そうだったのですか……」
ヴェレス中に名を轟かす火曜会の素朴な起源に、ルドルフは驚きを隠せない様子だった。
「最初はわたくしの部屋でこぢんまりとしていたのだけれど、大きなキャンバスや壁画を持ち込むこともあったから、ジークがこのサロンを整えて。最先端の芸術に触れさせたがったサミュエルが新人発掘企画をしたり、わたくしも何人かにパトロンめいたことをしている内に、すっかり大ごとになってしまったのよね」
イサベルはのほほんと頬に手を当てているが、ライルは当時の騒動を思い出して乾いた笑みを浮かべた。
無駄に能力と財力と権力を持った三人が集まると、下手になんでも叶ってしまうのが恐ろしい。
ぽつりと「壁画を見に行きたい」と呟いただけで、翌日から学院の改修工事が始まった時には、心底慄いたものだった。
たった一人の為に、火曜会という恐るべき組織が躍進を遂げていたことを悟り、ルドルフもまた顔を引き攣らせていた。
「というわけだから、ルドルフ。どうかあなたも片肘張らず、自室で寛ぐような気持ちで――」
「おや、お揃いで」
その時、扉の方から声が掛かった。
ぱっと振り向けば、そこに居たのは誰あろう、サミュエル・ツー・アルテンブルグである。
彼は気だるげに茶色の髪を掻き上げると、しなやかな動きで部屋に入ってきた。
ライルが素早くイサベルに視線を向けると、彼女は慌てたように小さく首を振った。
どうやら、彼の登場は予想外のことだったようである。
「先日は名乗っていなかったね。俺はサミュエル。家名で呼ばれるのは嫌いだから、ぜひサミュエルと呼んでくれ。ええと、青っぽい瞳の方がルドルフだったかな? で、日焼けした方がライルだ。そうだろう?」
彼は壁に寄せてあったアンティーク調の椅子をひょいと取ってくると、テーブルに近付けてどさっと腰を下ろした。
「よろしく」
そして、にっこりと魅力的な笑みを浮かべた。
どこか退廃的なのに、男らしい色気と無邪気さを感じさせる、絶妙な笑顔である。
「よろしくお願いいたします」
「……よろしくお願いいたします」
二人は口々に答えた。
と、流麗な手つきでサミュエルの紅茶を注ぎ分けたイサベルが、ちらちらとライルに視線を走らせながら困惑気に問うた。
「サミュエル、あなた、今日は来ないと言っていたじゃない。突然どうしたの?」
「なんだ、普段来いと言うわりに、つれないね。来ない方がよかった?」
「……そんなことはないけれど。……その、パイが足りないわ」
彼は「甘いものは嫌いさ」と広い肩を優雅に竦めた。
「馴染みの妓に振られてしまってね。しばらく足が遠のいていたからいけなかったのかな? 聞けば、我らがイサベル様は随分と今期の新入りがお気に入りとのことだし、新しくヴァニタスも入ったとのことだったから、遊びに来たんだ」
サミュエルは整った顔を人懐っこく綻ばせ、ルドルフとライルに向き直った。
「先日は、イサベルを救ってくれたんだって? ライルは毒まで受けたとか。女王様がご乱心してしまったばかりに、すまなかったね」
「まあ、サミュエルったら。あなたなんて、事態を見越したうえで放置していたくせに」
イサベルが拗ねたように呟く。
毒を放つことも、それを知って放置することも、常識に照らせばこんなにカジュアルに扱っていい話題ではないと思うのだが、二人はまるでイサベルがちょっとくしゃみをしただけ、くらいの明るさだ。
医師の息子であるルドルフが静かに引きはじめたのを見て、ライルはこっそりと頷いた。
いい傾向だ。
「それはそうと、新しく手に入れたというヴァニタスはどこだ?」
サミュエルは背もたれに背を預けたまま、ぐるりとサロンを見回した。
ライルはそれを横目に、どのタイミングで部屋を辞そうか考えを巡らせる。
こんな至近距離に座られた今、仮病を使って即座に逃げ出したいくらいだが、そんなことをしては却って注目を集めるだけだ。
しばらくはとにかくルドルフの陰に隠れ、大人しくしているしかないだろう。
「本当にあなた、ヴァニタスだけはやたら好きね」
「それはまあ。あの子と俺を繋ぐ思い出の絵だからね。いじらしいだろう?」
嘆息するイサベルをよそに、サミュエルはふとルドルフ達に向き直った。
「ああ、ヴァニタスってわかるかな?」
すかさず相手の知識レベルに合わせて、内容や口調をチューニング出来るのは、ライルが認めるサミュエルの数少ない美点だ。
こういった気遣いやまめさが、恐らくは女心を掴むポイントなのだろう。
「はい、存じております」
ルドルフはこくりと頷くと、心持ち目を輝かせてライルの方を見た。
まるで芸が成功し褒め言葉を待つ犬のような彼の姿に、ライルはなんだかルドルフの頭を撫でてやりたくなった。
サミュエルは美しく気も利く男だが、やはりうちの子が一番かわいい。
なかなかの絵画通ぶりを見せたルドルフに、サミュエルも驚いたようだ。
おや、と凛々しい眉を引き上げると、楽しげに続けた。
「それはいい。どれ、一緒に見てみよう。この布を被っているやつかな?」
そう言って俊敏な身のこなしで立ち上がり、イーゼルに立てかけられたままのキャンバスに近付いていく。
光沢を放つ布を取り払うと、そこには、まるでテーブルセットがもう一つあるかのような、実にリアルな絵画が出現した。




