10.レモンの寓意
覆された杯、古びた王冠。
かそけき煙を上げるパイプに、先端を萎れさせた花弁。
どれも生の虚しさを表す、優れた寓意ですね。
でも私はね、この絵画の中では、レモンが一番好きなんです。
どうして半分皮を剥いた状態で描かれているか、わかりますか?
美しい色に、爽やかな香り。でも中身は眉を寄せるほど苦く、酸い。
人生の比喩です。
私はね、先輩に初めてお会いした時、このレモンを思い浮かべました。
こんな、お日様みたいに明るく見えるのに、なんてまあ嫌な人だと。
――やだな、褒めてますよ?
この絵に描かれているのが、林檎だったらきっとつまらない。
多少の刺激があった方が、よほど味わい深いじゃないですか。
***
また、火曜の朝がやってきた。
「さて、今日は朝食らしく鮭のムニエルにしてみました。ルドルフはどうやら生魚はあまりお好きではないようでしたので、反省を生かし、がっつりと火を通しております」
そう言って、笑みと共にライルが示したのは、ほんのりと黒ずんだ鮭だ。
ルドルフはしかしその焼き加減には言及せず――さすがにこれくらいの耐性は彼も付いたのである――、代わりに、部屋を漂う匂いに首を傾げた。
「それはありがたいが……なぜ鮭から甘ったるい匂いがしているんだ?」
「はて。隠し味にシナモンと、あとはバニラエッセンスを振ったからでしょうか」
ルドルフはぎょっと目を剥き「なぜそのチョイスなんだ!」と叫んだが、
「多少の刺激があった方が、よほど味わい深いじゃないですか」
ライルは取り合わなかった。
まったく、保守的な主人には困ったものである。
しかしこれも鍛錬の一つとでも捉えているのか、カトラリーを握り締めたルドルフは、慎重な手つきで鮭を切り分け、恐る恐るといった感じで口に運んだ。
「……鮭が、死んだ」
そうして、口許を押さえ俯く。
やけに哲学的な台詞に、ライルはきょとんと首を傾げた。
「面妖なことを。まな板に乗った時点で、鮭は既に死んでいましたよ?」
「君は鮭の遺体を辱め、その命を二度に渡って奪った罪を自覚するべきだ。そして鮭の遺族に詫びろ」
「はは、まるで人を腕利きのスナイパーみたいに」
二度も鮭を殺せるだなんて、常人の技ではない。
もし店の経営が行き詰ったら、料理屋を開くのもありかもしれないとライルは考えた。
「繰り返すようですが、イーヴォは――」
「彼は君のことが好きすぎるか、現実を生きることを諦めたんだ。同じ人類の味覚として、残念だが彼の味覚をカウントに入れたくない。申し訳ないが」
言葉尻を奪って告げたルドルフに、ライルは不満げに片頬を膨らませた。
「……別にいいですけど、なんだかルドルフって、やたらイーヴォに優しいですよね」
「そうか?」
「そうですよ。お忘れかもしれませんが、あなたがこうして気に入らない朝食を食べる羽目になっているのも、元はと言えばイーヴォのせいですからね?」
ルドルフは予想外のことを言われたとでもいうように、軽く目を瞬かせ、ややしてから「そうだな」と頷いた。
「だが……、どちらかといえば、最近は彼のことが憐れで」
「なんですって?」
「いや、なんでもない」
ルドルフはなぜか「やがて君も、彼の友情に感謝する日がくる」と重々しく締めくくると、会話を切り替えた。
「今日は寓意画について教えてくれるのだろう? 食べながらでいいから、話してくれないか。早く聞きたい」
そう、近頃彼は、すっかり絵画の魅力に目覚めてしまったのである。
悪い気もしなかったライルは、いそいそと画集を取り寄せて、昨日の続きのページを開いた。
「今日はこれですかね。ヴァニタス。お好きですか?」
「……すまないが、ヴァニタスという意味がわからない」
ナプキンで口を拭いながら、ルドルフが眉を寄せる。
素直に質問できるのは彼の最大の美徳の一つであったので、ライルはむしろ喜んでこれに答えた。
「寓意的な静物画のことを表す、ジャンル名だとでも思ってください。元は、古い言語で『虚しい』という意味の言葉なのですが、その名の通り、生の虚しさをテーマに扱った絵画のことです」
「……陽光の眩しい朝に相応しい絵画だな」
「ええ、憂鬱な火曜の朝に相応しい絵画です」
ライルは笑顔のまま譲らなかった。
すっかり自作の朝食を脇に避け、丁寧に絵画を指し示しはじめる。
そこには、暗い部屋を背景に、卓から溢れんばかりに載せられた果物や楽器、書物などの姿があった。
どれも美を競うかのように、彩りに満ち、立体感を持って描かれている。
「一見すると単に美しい静物画ですが、一つ一つの物にアレゴリー――寓意が込められています。例えばこの砂時計や蝋燭。これは、不可逆な時間の残酷さと、生の儚さを表しています。ひっくり返された杯。これも同様ですね、わかりますか?」
「覆水盆に返らず。時間は元に戻せないということか」
「ご名答」
他にも、とライルは次々と写実的な物たちを指差していった。
権力の虚しさを表す宝冠、美の虚しさを表す花、知識の虚しさを表す書物。
五感を楽しませる楽器や果物も、一時の慰めとしかならず、死の前には消えてゆくばかり。
「ここでは、それぞれの物のポジションに注目です。美しいものは全てテーブルからはみ出すように描かれ、ほんの少し傾いでいる。凋落の兆しといったところでしょうか」
「髑髏だけは、やけに堂々と真ん中に描かれているな」
「素晴らしい着眼点です。髑髏――死の象徴ですね。それだけは、揺るぎないものであると。他は大体、角度を傾けるか、火を揺らめかせたり花を萎れさせたりすることで、儚いものだというメッセージを伝えているわけです」
角度にまで意味があるのかと、ルドルフは感心の顔つきだ。
鮭の乗った皿を放り出し、取り寄せたメモに走り書きを始めた――鮭の三度目の死である。
ルドルフは生真面目な顔でメモを取り終えると、画集に真剣な眼差しを注ぎながら頷いた。
「こういうのはとても面白いな。ルールがあり、物語がある。絵画が貴族の代表的な教養とされるわけだ」
「ヴァニタスは特別寓意的な側面を強調しているわけですが、他の絵画だって寓意が無いとは言いませんよ。先日見た『水瓶を持つ少女』、あれだって立派な寓意画です」
絵は、手間暇の産物だ。
言葉なら一瞬で紡げるものを、構図を決め、線を引き、色を塗った結果ようやく立ち現れる。
それだけの労力を込めたものに、「なんとなく」だとか「無意味な」要素など、あるはずもなかった。
「作者はいつだって、点のひとつ、絵具の選択ひとつにだってメッセージを込めています。それを読み取るのは、鑑賞する側の技量ですね」
もっとも、ヴァニタスにだって、単純に「見た目が美しいから」といった理由で描かれる物も多いけれどと補足し、ライルは説明を終えた。
「…………」
と、ルドルフが物言いたげにこちらを見ている。
「どうしました?」
ライルが促すと、彼はしばしの逡巡の後、神妙な面持ちで質問を寄越した。
「……前から気にはなっていたんだが、……その、君はどうしてそんなに絵画に詳しいんだ?」
「いやそれはだって、贋作屋ですし」
「ではそのための知識はどうやって? 君は読み書きもできるし、聖書にも造詣が深い。そして見たところ、君は俺と同い年か、よくて一つ上くらいだ。学校にも通っていないというのに」
就業が早かったので、実践で身に付いただけですよと肩を竦めると、ルドルフは一層眼光を鋭くした。
「では、そのテーブルマナーや言葉遣いも、実践で?」
「…………」
痛いところを突かれ、押し黙る。
確かに、下町育ちの少年というには、ライルのナイフの持ち方はあまりに洗練されていたし、言葉遣いはあまりに丁寧だった。
「ライ」
ペンを置いて、ルドルフが向き直る。青灰色の瞳には、真摯な光が宿っていた。
「無理にとは言わない。だが、俺だって君の話を聞きたい」
確かに、こちらは彼のコンプレックスも含め把握しているというのに、相手は出自を何も知らないというのは、不公平だろう。
なんとなく、放っておくと落ち込んで茸を生やしはじめそうなルドルフを想像し、ライルは溜息をついた。
「……別に、そんな面白い話でもないですけれど」
彼がぱっと顔を上げる。硬く黒い髪も手伝って、よく躾けられた犬のようだ。
なんとなく、ずっと昔飼っていた犬の姿を思い出し、ライルはぽりぽりと頬を掻きながら、言葉を探りはじめた。
「まあ、……そうですね。私の母は、娼婦でして。そして『最初の』父は、腕はいいのに一向にうだつの上がらない画家でした」
真面目な顔立ちに、静かな動揺が走る。
年頃の少年――それもルドルフのように真っ当な人間が「娼婦の子」と聞いて衝撃を受けるのは、半ば予想通りだった。
しかしルドルフは、特にそのショックを露わにすることも、憐れみの視線を寄越すこともなく、話の続きを待ってくれた。
「母は、娼婦といっても高級なそれでした。そこらの貴婦人では歯が立たないくらいの美貌と教養が彼女にはあった。父はそんな彼女に一目ぼれだったと言います。そして私が生まれ、何を思ったか母は数年後職を辞した。一家は、聖堂の壁画描きの下請けをする父に生計を支えられながら、まあ小ぢんまりと幸せに生きていましたと」
ライルは目を細め、ぼろぼろになった画集を撫でた。
生活が苦しくなかったとは言わない。
しかし、自由に微笑む母と、芸術を愛しむ父、そして自らが拾ってきた犬と過ごしたその時間は、恐らく人生で最良の瞬間だった。
「ところがまあ、母の現役時代には、数多くの有力な顧客がいまして。隠遁していた一家をどう探しだしたものか、とうとう母の居場所を突き止めたある男が、ある日突然乗りこんできました。ついでに私のことも、その父親は自分であると主張して」
あの日のことはきっと一生忘れられないだろう。
青褪めた母。毛を逆立て、けれど無力だった父。
恐喝まがいの「話し合い」は数日間続き、ある晴れた朝、ライルは母とともにその男の元に引き取られることとなった。
そして同じ日、母は舌を噛み切って死んだ。
「その男は下級貴族でした。――ふふ、この学院では、下級貴族なんてピラミッドの底辺のようなものですが、庶民、それも下町に暮らす人間にはとても抗えないような力があった」
「ライ……」
「さて、引き取られたはいいものの、もはや母を繋ぎとめる枷としての役割も失った私は、貴族教育を詰め込まれるだけ詰め込まれて、そして……」
十三になると同時に、この学院に放り込まれたのだ。
美しいものを愛し、強い支配欲を持ち、要らなくなるや放り投げて次の美を求めたその男の名は、ルヴァンツ。
若い内から絵画の才能を開花させて身を立て、今では百人に及ぶ弟子を束ねる工房の主に収まり、彼らをこき使いながら次々と有名な作品を発表する、ヴェレスでは知らぬ者のいないと言われる大画家である。
しかし、ライルはそこまで告げる気にはならなかった。
せっかく絵画を楽しいと言ってくれたルドルフが、ルヴァンツごときのために鑑賞を避けるようになったら、それこそ自分はがっかりしてしまうだろう。
「そして……、まあ、そんな感じです。もっと聞きたいですか?」
「いや、いい。充分だ。……不躾に尋ねて、すまなかった」
「謝るほどのことではないですよ。その続きも大したことはありません。引き取られたけれど、機会があって逃げ出した。とはいえヴェレス市外で暮らせるような財力も伝手も無く、泥濘の裏通りに身を寄せて、今に至るというわけです」
本当に、謝るほどのことではない。
語りたくない部分は間引いているのだから。
引き取られてから逃げるまでの間に、入学をし、火曜会に加わり、炎に紛れて女としての過去を捨て去ったことを、ライルは語ろうとはしなかった。
「それで、逃げているのか……」
「え?」
「いや、なんでもない」
珍しく、僅かな罪悪感などに身を任せていたら、うっかりルドルフの言葉を聞き逃してしまった。
尋ね返すが、彼は答えてくれない。
何を思ったか、おもむろにフォークを取り上げた彼は、
「……うん、うまいな」
再び鮭のムニエルに手を付けはじめた。
「よくよく味わってみれば、脂の乗った鮭に、突如沸き上がるシナモンの刺激と、唐突なバニラの香りが、意外性があっていい」
「……本当ですか?」
作っておいてなんだが、あまり食事を味わうことをしてこなかったライルは、おやと思って鮭を食べてみた。
なんだか不思議な味がする。
「ふむ。こういうのがお好みなら、また作りますよ。明日もこれにしましょうか」
「……いや、できれば明日は、生の林檎と素のパンとそのままの牛乳がいい」
「それではなんら面白くないじゃないですか」
やはりルドルフには、人生を大らかに楽しむ姿勢というものが少々欠けているようだ。
これからは絵画とともに、その辺の心構えも手ほどきしてやろうと考えながら、ライルはその日の朝食を終えた。




