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9.水瓶の少女(後)

 ひどく寝心地の良い布団である。


 しっとりと肌に馴染む弾力、そしてさりげない存在感で体を包み込む羽毛の感触。

 最近寝起きするようになった、ルドルフの部屋のベッドでもこうはいかない。

 下町の文具店に押し込んだ、湿った寝台でないことは言わずもがなだ。


 では、数年前に引き取られた男爵家の寝室――?


 いや違う。

 あそこは目に心地よい家具は多かったが、ほとんどは使い勝手がいまいちだった。


 では母が愛用していたベッドだろうか。

 いや、それも違う。

 彼女が父の為に職を捨てた際、仕事場(・・・)であった高級なベッドもまた、処分されたはずだから。


(では、どこ……)


 ぼんやりと目を開けると、涙を浮かべた美女の顔が飛び込んできた。


「――……ああ! 目が覚めたのね! よかった……!」


 イサベルである。

 ライルはぎこちなく瞬きをしながら、次第に意識を取り戻していった。


「ここ……は……」

「苦しいところはない? 痺れはもう全て取れた? 解毒はしたから大丈夫だと思うけれど、少しでもおかしなところがあったら、どうか言ってちょうだい」


 視線を彷徨わせる。

 緑を基調にまとめられた部屋。繊細な刺繍の施されたカーテンに、毛足の長い絨毯。

 自分の横たわる巨大な天蓋付きのベッドに、所どころ飾られた趣味の良い絵画。


 あの絵には見覚えがある。


「イサベル様の、……部屋?」

「そうよ」


 呟きのつもりだったそれは、イサベルに力強く肯定された。


「安心して。ルドルフには自室に帰ってもらったわ。医務室にも行っていないし、この部屋の人払いもしてある。ただ……深い傷跡や既往症があると、毒というのは思わぬ反応を引き起こすものなの。それが心配で、……あなたの体を検めさせてもらったわ」


 ライルははっと顔を上げた。

 すると、琥珀の瞳を涙で潤ませたイサベルが、ライルの両手を握りしめ、じっとこちらを見ていた。


「戻ってきてくれたのね――ライラ」


 ――最悪だ。


 己の吐いた嘘が事態を悪化させていたことを悟り、ライルは舌打ちを漏らしそうになった。


「ご、ごめんなさい。あなたは隠そうとしていたのよね。……当然だわ」


 自嘲気味に告げたイサベルは、服を脱がせた時にライルが女性の体であることに気付き、その無傷の真っ白な肌を見て不審に思ったのだと言う。

 首や手や顔の、薄汚れた色と「化粧」を落とし、付けぼくろを取り、そして黒髪を手で隠してみて、彼女は愕然としたとのことだった。


「ああ、リインライン。わたくしたちのライラ。あなたの髪は太陽の光を集めたように美しかったのに、こんなに短く切り落としてしまうなんて!」

「……誰のせいだと思っているのだか」


 最初の動揺を無理矢理抑え込むと、ライルは体を起こしてイサベルに向き直った。


「私のことを、他の二人に告げるつもりですか?」


 鋭い口調に、イサベルははっとした表情で黙り込んだ。


 ――計算通りだ。


 火曜会のうち、正体を見破ったのがイサベルでまだよかった。

 彼女は三人の中では、一番話のわかる人物だ。ライルはなんとか、彼女を味方に引き入れる必要があった。


「髪を切り、その色と肌色まで変えて、この一年あなた方の放った探索隊から逃げ回っていた私が、まさか皆さんと再会の感涙に咽ぼうとでも?」

「ライラ……」


 イサベルの琥珀の瞳が揺れる。

 結い上げていた髪を下ろした彼女は、社交界の華などではなく、かつて妹のように可愛がっていた少女(ライラ)からの言葉に傷付く十七歳の娘でしかなかった。


 まるで翼をもがれ悄然とする天使のようなイサベルだったが、それに同情するようでは下町を生き抜いてこられない。

 ライルは意識的に気を引き締め、更に言葉を重ねた。


「ただでさえ、学院にいた時は、あなた方が無理矢理私を会に引き入れてくれたせいで、散々な目に遭いました。あげく、自室に火まで放たれて、大切な画集をあわや焼失しそうになって。今日だって会に関わったばかりに、私は毒まで受ける羽目になった。あなたのことはけして嫌いではありませんけどね、イサベル様。火曜会なんていうくそ忌々しい組織に関わるのは、もうこりごりなんです」

「くそ忌々しい……ライラ、あなた、なんて言葉を……」


 生粋のお嬢様であるイサベルは顔を顰めた。


 けれど、と顔を俯かせて、ベッド脇の小椅子に腰を下ろす。

 彼女はその美しい顔に苦悩をありありと浮かべて、言葉を絞り出した。


「あなたがわたくし達のせいでひどい目に遭ったというのは、理解しているわ。あなたの部屋に火が放たれたというのも、ジークの……いえ、彼の暴走を許してしまったわたくし達の責任よ。毒の件は、言わずもがなね」


 ジークの名前を耳にした瞬間、ライルは月のように冴えた美貌の持ち主の姿を思い浮かべかけ、渋面をした。


「……今さらですけど、やはり放火は彼の差し金だったわけですか。薄々感じてはいましたが、そこまで嫌われていたとは衝撃です」

「何を言うの!彼はあなたのことを嫌ってなど……!むしろ――」


 ぱっと顔を上げたイサベルは、唇を噛み締めて言葉を切った。再び俯き、ふわりと零れた赤い髪の中に表情を隠す。


「……いえ。わたくし達がすべきは、釈明よりも謝罪ね。こんな風に詫びたところで、償いになるとも、許されるとも思わないけれど――本当に申し訳なかったわ、ライラ」


 ライルはそれには答えず、慎重に尋ねた。


「――そうやって、私をまた火曜会に引きずり込むおつもりですか?」

「いいえ!……いいえ」


 反射的にだろうが、首を振ったイサベルを見て、ライルは内心で胸を撫で下ろす。


 よかった。

 これで彼女が「その通りだ」などと言おうものなら、暗雲立ち込める未来が待っているだけだった。


「わたくし達はそれだけのことをしてきた。特にジークはやりすぎたわ。わたくしから見ても、彼は少々危険に思えるもの。……あなたを、そんな彼に引き合わせたりしないわ」


 まさにそこが一番の懸念点だったので、イサベル自らそれを拭ってくれたことにライルはほんの少し気を緩めた。


 イサベルは美しい瞳を潤ませたまま、再びそっとライルの手を取った。


「あなたは、わたくし達のせいで大切な画集が燃えかけたことを、酷く怒っているのよね……?」

「ええまあ。筆頭はそれですね」


 彼らのせいでなかなかアグレッシブないじめにも遭ったし、自らの命も危機に晒すような火事にも遭ったのだが、ライル的観点に照らせば、自分の唯一と言っていい大切な宝物を失いかけたことこそが一番の怒りの源泉だった。

 さすがイサベルは、その辺りのライルの考え方をよく理解しているらしい。


「この学院に戻って来てとは言わないわ――もちろん、そうしてくれるなら、わたくしはどんなことでもするけれど。ただ、どうかお願いよ、こんなことを言えた義理ではないけれど、わたくしはあなたと友達でいたいの」

「…………」


 良くも悪くも直情派のイサベルをけして嫌ってはいなかったが、焼き討ちにまで遭ってあっさりそれを許すような人物がいたら、そいつはよほどの善人か大馬鹿野郎だ。


 視線も合わせないでいるライルの両手を、イサベルはぎゅっと握りしめ、祈るように額を寄せた。


「週に一度でいい。どうかこうやって、わたくし達と会って? 以前のように、目を輝かせてわたくし達に美を語ってちょうだい」

「何をそんな――」

「ビットナーの画集を差し上げるわ」

「…………」


 ライルは一瞬黙り込んだ。


 いやだめだ。

 懐柔されてはならない。

 こんなことで許されるべき仕打ちではないはずだ。


「あなた、絵を描くのも好きだったわよね。最近アーレンツ鉱山では、取れた金や青銅をふんだんに混ぜた絵具のコレクションを販売しだしたの。とても美しくて、それ自体が宝石のような色よ。全十二色、こちらも勿論差し上げる」

「…………」


 いやしかし、確かに火曜会は忌々しいが、そう、別にイサベル本人を嫌っているわけではない。

 ライルがかつてリインライン・アイグナーという名の男爵令嬢で、突然の入会を嫉妬されひどい攻撃に遭っていた時、彼女はそれを全力で守ろうとしてくれていたのだ――それが一層火に油を注ぐ結果になったのだとはいえ。


 イサベルは滑らかな頬を紅潮させ、丁寧に言葉を紡ぎ続けた。


「だってあなたったら、こんなに痩せて。心配よ。わたくしの専属シェフを遣わせたいくらい。でもあなたは食欲よりも――何て言うのかしら、美術欲を満たす方が好きなのよね。ならばあなたのために、伯母さまに頼んで王都美術館の地下室を開放してもらってもいい」

「…………イサベル様」


 とうとうライルは口を開いた。


「一ヶ月だけです」

「え?」

「一ヶ月だけなら、毎週火曜、サロンに伺います。ただし、ジークハルト様と、サミュエル様の居ない時に限りです」


 別にこれは、物につられたわけではない。

 譲歩したと見せかけて、その実なんらこちらの状況に変わりはなく、むしろジークハルトとサミュエルをイサベルに追い払ってもらう、実に高度な政治的交渉術だ。


「そして、一ヶ月後どうするかは、その時また考えます」


 断じて物につられたわけではない。


 イサベルは目に見えて表情を輝かせた。


「ライラ……!」

「今はライルです」

「ええそうね、ライラ。ありがとう。本当にありがとう!」


 彼女は艶やかな赤毛を振り乱し、羽毛布団ごとがばっと抱きついてきた。

 名前は改めてくれていない辺り、いかにもナチュラル頑固な彼女らしい。


 イサベルはひとしきりぎゅうぎゅうとライルを抱きしめた後、両手で頬を包み込み、じっと眼を覗き込んできた。


「嬉しいわ、ライラ。ねえ……調子に乗るようだけれど、せめてサミュエルにはこのこと――」

「絶対にだめです」


 呼吸するように相手を誘惑しはじめるイサベルを、ライルはすっぱりと遮った。


 さすがに難しい交渉だとはわかっていたのか、彼女は肩を落としつつ、しかししぶとく呟く。


「だって、サミュエルったら、あなたが居なくなってから荒れているのよ。もともと遊び人ではあったけれど、最近ではまさに手当たり次第。自棄になっているのよ。……あれでは、いつか身を滅ぼすわ」

「私が介在することで彼の女好き病が改善するとも思えませんし、そうする義理もありませんしね」

「ライラ……」


 しょんぼりと目を潤ませる彼女に、「ライルです」と訂正する。しかし、イサベルは琥珀の瞳に涙の膜こそ張ったものの、譲らず切実な声で訴えた。


「でも、ライラ。あなたが去ってから、わたくしたち、少しおかしくなってしまったのよ。ジークもサミュエルも、一時期は本当にひどい荒れようだったの。もしあなたを偶然見かけたら、それこそ今度はあなたを攫って監禁してしまうかもしれない。そうなる前に――」

「いえ、なおさら姿を現す気になれませんよねそれ」


ライルはぴしゃりと遮り、話題を切り替えた。


「自棄になるといえば、イサベル様、あなたの方です。どうしてあんな真似をしたんですか?」

「あんな真似?」


 イサベルはきょとんと首を傾げるが、騙されてはならない。

 彼女は悪名高きシュタウディンガー家の令嬢。これくらいの腹芸なら、産声を上げたその瞬間からこなしているのだ。


「あんな、脳みそまで性欲と気色悪い支配欲に汚染された男を、のこのこお茶に招いたことですよ。こらしめたくなる気持ちはわかりますが、何も毒針まで持ち出さなくたって。不用意に恨みを買って、後々困るのはあなたですし、そもそもこの流れでこらしめるべきは、あの男ではなくジークハルト様です」

「あら」


 長い睫毛がぱちぱちと音を立てて瞬かれた。


「ふふ、ライラに叱られちゃったわ」

「……叱られた時の適正な反応ってわかってます? 何にやにやしてるんですか、気持ち悪い」

「ふふ、気持ち悪いですって!」

「…………」


 何を言っても喜ばれそうな気配に、ライルは押し黙った。

 イサベルは何がそんなにおかしいのか、くすくすと声を漏らしはじめ、それでも抑えきれなかったのか、やがてお腹を抱えて笑いだした。


「ふふふ!そうね、その通りだわ。確かに物凄く頭に来たのだけど、別に拷問まがいのことをする必要もなかったわね。わたくしったら、どうしていたのかしら。でも……あなたが指摘してくれなかったら、今この瞬間にも、彼を廃人にしていたかも!」


 不穏な単語を散りばめながら、イサベルは涙すら滲んできた目元を拭った。


「あなたが去ってから、わたくしたちを頭ごなしに叱りつける人が居なくなって。サミュエルもわたくしも、……ジークだって、本当は、あなたのその怒った顔が見たかっただけなのかもしれないわね。寂しい寂しいと言いながら、馬鹿なことをして、……そうしたら、不機嫌な顔をしたあなたが、きっと現れて、……それで、わたくしたちを……叱っ……」


 真珠の肌に一筋、透明な雫が流れるのを、イサベルは恥じるように手の甲で隠した。


「ライラ……」


 絞り出すように名を紡いだ彼女は、ライルの服の袖をぎゅっと握りしめた。


「わたくしは、寂しかったのよ……とても寂しかったの……!あなたに、逢いたかった……!お願いよライラ、どうか、もう、わたくし達の前から去っていかないで……」

「イサベル様……」


 指先が白くなる程、強く掴まれた裾。

 それを見つめて、ライルは静かに溜息を吐いた。


「――ライ、でいいですよ」

「え……?」

「名前。……ライラの名はもう捨てたのです。でもあなたがライルと呼べないと言うなら、ライでいい」


 断じて、物につられたわけではない。


「親しい人にしか、呼ばせない名前です」


 鮮やかな色、美しい絵画、そして、麗しく泣き虫の友人。そういったものには、敵わない性分なのだ。


「ライ……」


 イサベルはぽつりと呟き、次第に頬をうっすらと紅潮させながら、その名を繰り返し呼んだ。


「ライ、ライ、わたくしのライ……!」

「はい、はい、その所有格は誤りですが、ライですよ」


 ライルの相槌は限りなく投げやりだ。

 しかしそれに全く気を悪くすることなく、イサベルは満面の笑みを浮かべた。


「ライ。今度こそわたくしが、あなたを守ってみせるわ」

「……頼みますよ」


 とんだ可愛らしい騎士もいたものだ。

 いや、しかし彼女はこれでも、毒を操り、気に入らない人物は容赦なく切り捨てる冷酷な一面を持った女性だ。


 やれやれ、と再び溜息を吐いて、ライルはぼんやりと天井を眺めた。



***




「あの、もう、ここまでで。ここから先は男子寮ですよ」

「あら、ライの安全を見届けるのが最優先だわ。ねえ、本当にその傷は大丈夫? 包帯を巻いた方がよいのではなくて?」

「蚊の刺し跡に包帯を巻く人がいますか。……まったく、いくら夜で人目は少ないとはいえ、あなたの姿を見咎められたら、もれなくルドルフか私が間男扱いなんですけどね」


 腕を取り機嫌良く歩くイサベルの横で、ライルはぶつぶつと不平をこぼす。

 それを聞き取った彼女が、「あら」と悪戯っぽく瞳を輝かせた。


「大丈夫。そんなの、権力か毒かで、ぷちっとやってしまったらいいのだわ」

「……あなた全く反省してませんよね? いつか過剰防衛で訴えられますよ」

「ふふ、そんなことジークがさせないもの」


 何の気なしに告げられた台詞に、思わずライルは黙り込む。


 そう、先程から時折話題に上る彼――ジークハルト・フォン・クラルヴァインは、事実そのような男だった。

 とびきり美しい、しかし氷の微笑で誰をも近寄らせないが、一度懐に入れた人間は徹底的に慈しむ。


 ただしそれは、義理人情めいた理由ではなく、自分以外の者がその相手を傷つけるのは許さないという身勝手な理由からだ。


 そして、彼の懐に入れられた数少ない人物というのが、イサベルであり、サミュエルであり、―― 一時期はライルもまた、その中に加わっていた。

 実は焼き討ちに遭うほど嫌われていたとは、あの時まではさすがに思いもしなかったが。


 彼のことを考えるたびに込み上げる苦い思いが、この時もまたライルの舌に広がった。


 表情を険しくしたライルに、イサベルがさりげなく話題を変える。

 やれ新しくヴァニタスを買おうと思っているだとか、そろそろ収穫祭も近いだとか、そういった取り留めもない話を延々しつづけ、


「それではね、ライ。お大事に。また火曜に会いましょう。絶対よ!」


 彼女はしっかりルドルフの自室までライルを送り届けると、ようやくそこで去って行った。


 と、


「あ……」


 何気なく扉を開けた先には、ルドルフが仁王立ちしていた。


「遅かったな」

「え……? ああ、そうですね。だいぶ長く眠っていたようで、気付けばこんな時間です。もしかして待っていてくれました? 先にお休みになっていてよかったのに。すみません」


 壁に掛けられた時計を見れば、もう日付けが変わりそうな時刻である。

 イサベルが落としてしまった変装を再度拵える必要があったため、随分時間を取られてしまった。


 えらい目に遭ったものだと改めて今日一日を振り返っていると、所在無げに立ち尽くしたルドルフが、む、と眉を寄せたまま尋ねてきた。


「その……大丈夫なのか?」

「お陰さまで後遺症もなく、ちょっと蚊に刺された程度ですよ。お騒がせしました」

「何を言うんだ」


 低い声におやと振り返ると、ルドルフはひどく落ち込んだように肩を落としていた。

 眉の寄せられた顔には、苛立ちと、――そして深い後悔の色がある。


「騒がせたのは俺の方だ。君は事情を知っていたようだったのに、俺が勇み足でサロンに駆け付けたばかりに、君をこんな目に遭わせてしまった。……申し訳なかった」


 ライルは呆気にとられた。真面目な彼は、渋々とはいえ自らの意志で男を庇ったライルの行動も、容易に毒針なんぞを持ち出したイサベルの無謀も、自分の責任として背負いこんでいるらしい。


 この人、長男だろうなと、なんとなくライルは思った。


「いえ、こうして私は無事な訳ですし。まあでも、次からは駆けつける前に人の話も聞いていただけると幸いです」

「許してくれるのか」

「許すも何も。庇いに入ったのは私ですし、刺したのはイサベル様です」


 淡々と返すと、ルドルフは安堵したような納得していないような、複雑な顔をした。


「……君は、なぜあの時、間に割って入ったんだ?」

「――それはまあ。麗しきイサベル様に犯罪者になってもらってしまうのも、ねえ?」


 より具体的には、イサベルに憧れているようであるルドルフの前で、彼女に罪を犯させるわけにはいかないと考えたのだが、そこまでは言わない方がよいだろう。


 ルドルフはしばらく、口を開きかけては唇を噛み締め、というのを繰り返していたが、やがてぽつりと、


「君は、寛容なのだな」


 と呟いた。


「はあ?」


 何がどうなったら、「人の不幸を慰めもしないだろう人物」から「寛容な人」にランクアップしたのか、ライルにはさっぱりわからない。


「また随分と過分な……」

「そんなことはない。君は、人の失敗に寛容だ。イーヴォにも、俺にも、イサベル様にも」

「…………」


 少なくとも、イーヴォの失態の責任を被ってみせたのには、被害を拡大させたくないという怠惰な計算があってのことだったのだが。

 面と向かって褒められたことなど滅多にないライルは、珍しく何も言い返せなかった。


「イサベル様が君を気に入ったのも頷ける。君は、好きなものと嫌いなものを、色を塗り分けるようにはっきり分ける。嫌いなものは容赦なく扱き下ろすが、懐に入れたものには、とても優しいだろう」

「……さようですか」

「ああ。俺も、そういう君が好きだ」


 どこまでも直球な言葉選びに、ライルの精神はごりりと抉り取られそうになった。


 学院に放り込まれて一年、下町に逃げ去って一年。

 麗しき伏魔殿で魑魅魍魎を相手にし、その後は裏町で汚泥を啜って生きてきた身としては、彼の清々しさはもはやある種の攻撃だ。


「さ、さようで……」


 胸を押さえていると、ルドルフが心配そうに顔を寄せてきた。


「それで、毒の方は本当に大丈夫なのか。イサベル様には、毒に関してはこちらの方が専門だからと言って追い払われてしまったが、気になって仕方なかった」

「お気遣いなく。イサベル様手ずから看病くださって、この通りの健康体です」


 気にされることもあるかなと考えて、多少顔色を明るめに仕上げておいてよかった。


 ほら、と両手を掲げてみせると、ルドルフは少し言い淀んだ後、大切なことを告げるかのようにじっとライルの瞳を見詰めた。


「――なあ、ライル。家族からは認められていないが、俺とて医者の息子だ。君の体にどんな傷があろうと、俺はそれから目を背けることなんてしないし、醜いなどとは絶対に思わない」

「…………」

「信じては、もらえないか」


 自嘲気味に笑うルドルフに、ライルは天を仰ぎそうになった。


 まさか自分のついた嘘が、巡り巡って首を絞めるばかりか、ルドルフの矜持を傷付けていたとは。


「……そうだよな。イーヴォやイサベル様は君のことを『ライ』と呼ぶのに、俺には呼ばせてくれないし、君もいつまで経っても敬語ばかり使う」


 ぽつ、と漏らされた独白に、ライルはなんだこの生き物と思った。

 まっすぐで、努力屋で、しかしすぐ空回りしてはしょんぼりと拗ねて。

 二歳ほど年下だということも手伝ってであろうが、なんだろう、すごく可愛い。


「いいですよ、ライで」


 気が付けばライルはそう口にしていた。


「敬語はもはや癖なんです。前はひどいスラングだらけだったんですが、ちょっとあって言葉遣いを徹底的に矯正させられましてね。以降は、そこから普通の――気安い言葉に戻すのが億劫になってしまったんですよ。でも、名前は違う」


 ライルはにこっと、若草色の瞳を細めた。


「ライと呼んでください。私もルドルフと呼び捨てにさせてもらいます。ね?」

「ライ……」


 ルドルフはぱちぱちと青灰色の瞳を瞬かせると、やがて耳の端を赤く染め上げた。


「友人と、愛称や呼び捨てで呼び合うのは初めてだ」

「うん、照れればいいか憐れんでいいか悩む、絶妙なラインですね」


 ルドルフはそんな突っ込みなど耳に入っていないようで、大切な宝物を手にしたように「ライ」と呟いている。


 ライルはそれを横目に見つつ、くあ、と大きな欠伸をした。


「待たせておいてなんですが、もう寝ませんか。明日も早いんでしょう?」

「ああ、そうだな。寝よう、ライ」


 うむ、と頷くルドルフは、どこか満足気である。


 まあ、最後だけはそう悪い一日でもなかったなと内心で締めくくったライルは、内扉の前でルドルフと別れ、早々にベッドにもぐり込んだ。

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