0.プロローグ
火事だ、と、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
言われなくともわかる。寒さ厳しいヴェレスの夜空を押しのけるような勢いで、火柱が立ち上っているのだから。
少女は、視線の遥か先という距離であってすら、炎の温度を感じられるほどのその激しさに、呆然と目を見開いて立ちすくんでいた。
「なんてこと……」
まだ性を感じさせないほどの、白く細い喉から、ぽつりと呟きが漏れる。
鈴が鳴るような可憐な声は、炎の燃え盛る音に紛れて誰にも届かなかった。
――燃えているのは、彼女の自室だ。
つい先ほど、夜の散歩に出るまで寛いでいた空間が、今や聖書の説く地獄もかくやといった様子で業火に焼かれていることに、彼女は衝撃を隠せないでいた。
「逃げろ!女子寮全体に延焼するぞ!早く、中にいる生徒に呼び掛けを……!」
焦りを滲ませて叫ぶのは、寮監の男性だ。
(……逃げなくては)
少女はぼんやりとその言葉を反芻し、生徒が集いはじめた避難場所に足を向けようとした。
が、
(――何から?)
ふと、翡翠色の目を見開いて、彼女はぴたりと歩みを止めた。
小さな手を、きゅ、と握り締める。
ややあって、すっと視線を上げた彼女は、一番近くの井戸に走り、凍るように冷たい水を全身に浴びせた。
そして、誰もが逃げ出す中を、こっそりと裏から回り込み、口を袖で覆いながら、まさにその炎の中心地へと身を投じる。
しばらくして、体中から湯気を漂わせ、息を荒げて彼女が部屋から脱出したとき、その細い腕には、ぼろぼろになった一冊の本が抱きかかえられていた。
素早く木陰に走り込み、人目を避けながら息を整える。
煙を吸ったらしく、彼女はしばらく咳込んでいたが、やがて呼吸が戻ると、その大きな翠の瞳で静かに夜空を睨みつけた。そこには、慌ただしい人の営みなど知らぬげに、満足そうに浮かぶ、巨大な月があった。
普段は蜂蜜のようだとも言われる彼女の金髪は煤にまみれ、白い顔もすっかり黒く汚れている。
しかし、その煤けてもなお愛らしい相貌に、彼女は何か覚悟を感じさせるような厳しい表情を浮かべると、ゆっくりと立ちあがった。
そしてそのまま、しっかりとした足取りで歩きだす。
向かう先には、生徒たちの集う避難場所ではなく、――寮を抜け出す、裏門があった。
デンブルク王国が擁する、主都にして文教都市・ヴェレス。
その中心とも称されるスラウゼン国立学院の、ある冬の、満月の夜。
史上最悪とも言われる大火とともに、可憐な容貌で知られた女子生徒が、忽然と姿を消した――。