散りゆく若葉
満員電車で一人の女が泣いている。
なんて、情けないんだ。
あの日の私はそう思っていた。
みんな見て見ぬふりだ。
恋愛で泣くなんて馬鹿らしい。
化粧だって崩れてみっともない。
あの頃の私はそう思っていた。
冷めていた...のかもしれない。
羨ましかった...のかもしれない。
あの頃の私には、そんな感情全く無かったのだから。
ただ、数ヶ月後。自分がその情けない女になるなんて思いも寄らなかったが。
電車の窓ガラスに映る赤い目をした女は酷く醜かった。
目が死んでいる。その女を私は嘲笑った。
大事なものを必死で守るつもりがガラクタを握りしめていた。
哀れだ。実に哀れだ。
電車は止まってくれない。醜い女を乗せ、東京の街へ溶けていった。
吐き気がした。
大して胃袋には何も入っていないのに襲う吐き気。
神崎美月はまたそれを呑み込む。呑み込んでも呑み込んでも襲ってくる。
限界がくるとそれを体内から吐き出す。
これはたったここ1週間の変化だった。
1週間前まで私は確かに幸せだった。
親の反対を押し切り、大好きな彼と一緒に暮らし始めた。
若かった。勢いだったと言われたらそれまで。
その彼を傷つけた。
当然の仕打ち。
彼は酷く傷ついてる。どうしようもないくらい。
それを見ているのが辛いだけなのだと言われたらそれも少なからずあると思っている。
ただ、彼女も痛いほど実感したのだ。
小さなことで、たったひとつのことでも歯車は狂う。
噛み合わなくなれば大事なものを失う。
もう既に奪われた。
私から手放した。
そして今日もその苦痛を受け止めきれずに吐き出す。胃液と一緒に。
彼に言われた全ての言葉を受け止めると刺さるほど胸が痛かった。
「ゆうちゃん...」
呟いた声は酷く掠れていた。
彼はきっとこれ以上に傷ついてる。
それなのに、美月は彼を手放せなかった。
彼は本当の意味で楽になれるのだろうか。
その答えを確信を持って出し切れなかったからだ。
優太朗には幸せになって欲しい。幸せになる権利があるって付き合う前から思っていた。
だから、彼が笑えるようになるまで。
たった23年間しか生きてない私が、10歳も上の彼に何をしてあげられるだろうか。
それでも今日まで与えてくれた幸福感分の恩返しをしなければ。
波に身を任せ逃げてばかりの自分は捨てるのだ。
今日からは自分の足で立たなくてはならない。
彼を頼ってはいけない。
「ゆうちゃん...」
もう一度彼の名前を呼んだ。
彼は隣で寝息を立てたままだ。
「ごめんね。でも、次は私が守るからね。」
優太朗の腕が美月の体をすっぽり包み込んだ。
彼の腕の中が一番安らげる場所だった。なのに、どうして今はこんなにも悲しいのだろう。
涙が止まらない。ああ、彼を傷つけているからだ。心が痛いんだ。いや、違う。私には終わりがわかっているからだ。
タイムリミットがあるから。
三ヶ月後。美月は優太朗と他人になるのだ。
世間では、多くのカップルが結ばれては別れを迎える。それでも人はまた恋をする。
世界中の何千も何万も何億もいるなかのたった1。
その1が美月にとっては何よりも大切だったのだ。
そう簡単に次とは思えない。もしかしたら次は見つからないかもしれない。
何故なら...
「愛しすぎていたんだ。」
「みい...」
吐息混じりの低い声が届く。
「ゆうちゃん?起きてるの?」
絞り出した声は寝起きのせいなのか、それとも涙のせいなのか、可愛げの無い声だった。
また彼の寝息が聞こえる。そして、腕に力が入った。
あと三ヶ月だよ。我慢してね。
でも、ちゃんと楽になれるようにするから。
言葉を飲み込んでベッドを出た。
朝ごはん作らなきゃ。
三ヶ月なんてきっとあっという間。
優太朗の笑顔をたくさんみたい。
まだ枯れるわけにはいかない。
枯れるんじゃない。
咲き誇った後に散りゆくのだ。