幕府の介入
ここは美濃の国、稲葉山城。天守閣から斎藤義龍はただ一人、夜の城下町を眺めていた。まあこの時代は街灯はないので真っ暗なのであるのだが……
ふと彼は人の気配を感じ、振り返る。
「……竹中か」
「はっ、遅くなりました」
「うむ、とにかく近くに寄れ」
そう言われた竹中重治は斎藤義龍の傍に近づく。謹慎中であったが密命により尾張に潜伏させていた。当然、これは斎藤義龍しか知らない話である。
「どうだった、尾張の様子は?」
「尾張清洲城下は活気に満ち溢れ、特段不満の目もありません」
「そうなると論功行賞で家中が乱れている隙もなしか……」
「はっ、私が見た限りではその様子はありません」
斎藤勢を押し返したとはいえ、その手柄を上手く処理できていなければ北畠家が揉めている線もあった。そうすれば付け入る隙もあったのだが、どうやら斎藤義龍の当ては外れたらしい。
「そうなると我が方に北畠家を戦で破る勝機は無しか……」
「恐れながら、その通りでございます。ここは講和して時を稼ぐべきです。龍興様のような交戦論は斎藤家をつぶします!!」
「……」
斎藤義龍はしばらく黙った。謹慎中でも関わらず嫡男龍興が北畠家と一戦交えようと、工作活動している事は斎藤義龍も竹中重治もつかんでいた。
「あやつにも自尊心があろう。女子にいいようにしてやられ面子がないであろうからな」
「しかしそれとこれとは話が別。今、正規戦など行えば破滅的な結果になりましょう。とにかく龍興様をお諫めしてくだされ」
志摩の九鬼氏との戦いに勝利した北畠家は、伊勢・志摩・尾張の三ヶ国を領有する大大名になっていた。推定禄高は50万から60万石といったところ。
対する斎藤家は美濃の国、20万から25万石程度。石高の差は倍に広がっていた。(ここら辺の石高は大雑把です)
一万石に対し300人ぐらいが動員できる兵力と考えると、北畠家は一万五千から一万八千といったところ。斎藤家は六千から七千辺りである。同然、正面切っての正規軍による野戦では勝目がかなり薄い。
斎藤家と同盟中の六角氏が援軍を送ってこれば、差は縮まるのだが、はっきり言って当てにできない。
ただ稲葉山城に籠城すれば、斎藤家もそう簡単には負けない。だがそのような消極的な姿勢では、美濃の国人衆が寝返る恐れがある。
「北畠家も手打ちに動いております。ここは事を荒立てはなりません」
「うむ、あい分かった」
「ところで拙者、北畠具教様に直接会う機会がありました」
「なに!!どういう事だ」
(竹中重治が説明中……)
「……という訳です」
「信じられん。当主たるものがそんなに気安い事をしているのか」
思わず斎藤義龍が首を捻った。そんなに気安くしていたら威厳が失われて、領地統治に差し支えると斎藤義龍は思っていたからだ。
「拙者も信じられませんが、事実でございます。その行動たるやまるで童の如し、野心など無いように見えます」
「北畠具教には野心がないという噂は本当であったか……だがそれならなぜ危険を冒して織田を攻めたのだ」
戦いとは相手との駆け引きである。だがしかしここにきて斎藤義龍は北畠具教の心を掴めないでいた。最初は野獣のような野心溢れた男だと考えていた。大した理由もなく尾張に侵攻しているのだ、そう考えるしかない。だからこそ、このまま放置しておけば美濃も危ない。
それにそんな男なら必ず占領地で無理な搾取をするに決まっている。そうなれば尾張の領民は雪崩を打って、斎藤家に味方するであろう。
しかし、竹中重治が言うには北畠具教は自身が住むであろう清洲城の改修より、旧織田家家臣団に対し手厚くしているらしい。城は北畠具教も一緒になって直しているという話を聞いて思わず倒れそうになる。
「頭が沸騰しそうだ……」
「殿、大丈夫ですか。確かに拙者も北畠具教様は野心は無いと思いました。ですがこちらを見てください」
そう言って竹中重治は、懐から一枚の掛け軸を広げた。
「なんだこれは?」
「これは北畠具教様が自ら書いて、売っていた物です。書いてある文字をお読みください」
「しかし汚い字だな……うん……天下布武だと……」
掛け軸にはでかでかと「天下布武」と書いてあった。これには斎藤義龍も恐怖した。
「武力によって天下を取るというのか、あの男は。やはり野獣のような男であったか!!」
「いえそう解釈するのは早計でございます。拙者、稲葉山城に来る途中、美濃大宝寺の沢彦宗恩に会ってこの言葉の意味を聞いてみました」
沢彦宗恩は織田信長の教育をしていた人物だが、織田家亡き後は美濃に身を寄せていた。
「まず武ですが、これは春秋三伝の一つ、春秋左氏伝の七徳の武ではないかと申しておりました」
「七徳の武とはなんだ?」
「これすなわち、暴力を禁止し論功行賞をしっかり行い、そして民の安心を守り国を豊かにすると申しておりました。そしてこの七徳の武を天下……すなわちこの日ノ本すべてに広めるという考えあろうと……」
「広める為なら戦も辞さないというのか……つまり北畠具教は野心家でも日和見主義者でもなく……」
「はっ、おそらく理想主義者であります。そしてその理想を推し進める為、戦をする。平和の為に戦をする一見ちぐはぐな行動も、おそらくこれに基づいているものかと……」
「まるで当家の真逆だな……こういう男を抑え込むには……」
必死に斎藤義龍は頭を回転させる。利に敏感なら利益を与えれば篭絡できる。そして臆病者なら脅してやればいい。ならば理想主義者ならどうすればいいのか……
「……竹中……幕府に仲裁を頼もうと思う。それがおそらく奴に一番効くであろう」
「幕府ですか……失礼ですが今の幕府に北畠家を抑え込む力など到底ございませんが……」
足利尊氏が作った室町幕府。三代義満まではかなりの力を持っていたが、代を重ねる毎に次第に没落。今や三好長慶の専横によりまるで力がなくなっている。
「だが幕府の権威は完全には死んでいない。幕府を間に挟めば北畠具教は裏切って美濃への侵攻はできなくなるであろう……これでこの講和はより盤石になる」
「おそらく幕府はそれなりに吹っ掛けてきますが……」
「やむなき出費と考える。とにかく講和は向こう側から切れなくしなくてはならん。その為ならあらゆる手を打つ……クッ、ゴホゴホ」
突然、斎藤義龍は咳き込みだした。慌てて竹中重治が背中をさする。
「殿、大丈夫ですか」
「ああ、心配するな……」
斎藤義龍は悟っていた。もう自分の病は取り返しのつかない所まで来ているのだと……だからこそ何としても講和しなくてはならない。
(俺は親父を殺した……だからこそ嫡男龍興は守らなくてはならん……)
しばらくした後、幕府が仲介の使者を送ると言ってきた。果たしてこの和平は上手くいくのであろうか……




