第2話 妖精がいっぱい
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頬にしっとりとした空気が触れている。腕や足にも露出した部分には不思議な感覚があった。湿り気のあるナノ単位の膜にくるまれているようだった。
周囲は甘い香りに充ちている。辺りを見回しながらその濃密な匂いを嗅ぐ。
彼はぼんやりと植物園へ行ったときのことを思い出していた。それは感覚的なもので、ただ身体に残っている感触の記憶だけが瞬間的に浮上してきたに過ぎなかった。誰と行ったのか場所はどこだったのか、そういう具体的なことは何一つ浮かんではこなかった。
足を踏み出そうとして靴の感触がおかしいと感じる。足下を見るとサンダルの形をした茶色い履き物を履いていた。柔らかくて足にフィットしている。植物か何かを編んで作られたもののようで、足底と甲の部分だけが覆われている。
顔を上げると一面に緑色の太い幹がたくさん伸びている。葉が茂っていて花も咲いている。
そして葉も花も巨大だ。ああ幹ではなくてこれはもしかして茎なのだろうかとリョウは思う。
たくさんの茎が森の木々のように伸びている。しかし鬱蒼とした雰囲気はなかった。
明るい色彩と光にリョウは包まれている。白い花。赤い花。黄色に紫にピンクの花びら。仰ぐと温い陽射しが零れ落ちてくる。様々な葉や花びらの間から差してくる光をシャワーのように浴びているからだろうか。明るい森の中といった風情だ。
リョウは自分の服が替わっていることにも違和感を覚えている。見たままでいえば膝丈のワンピースを腰のところで紐で縛っただけという簡素な服だった。全体にくすんだ緑色で柄はない。
「リョウ、リョウ」
ふいによく通る澄んだ声が聞こえた。
リョウが声の方をみると、数歩ほど先にアイボリーのワンピースを着た少女がいた。大きな茎にもたれている。ごく普通の女の子だ。リョウより多少身長は低いようだが人間と同じに見える。というのはその子が、あのとき藤棚で見かけた身長5センチの生き物にそっくりだったからだ。
少女は茎から体を離すと照れたような笑顔を浮かべた。
「早くって急がせちゃってごめんね。誰か来たらもうできないし、また会えるかどうかもわかんないでしょ。焦っちゃった」
「いやあ」
どう答えてよいのかわからずリョウは戸惑い、口ごもった。
「ろくに説明もしないで連れてきちゃったけど。大丈夫?」
心配そうに少女が首を傾げてリョウを見つめた。
「ああ、まあ。どうなのかな。いまいち状況わかってないかも」
いまいちどころか正直全然わかっていない。そもそもここはどこなんだ。話はそこからだろう。
「そうね。無理ないわ。だんだんわかってくると思う。あ、あとね」
少女の目が細くなった。
「あたしが大きくなったんじゃなくて、リョウが小さくなっただけだから」
「えええええ」
自分の身体をリョウは見おろす。胸やら腹やらあちこちを手で触ってしまう。
サイズダウン?
あの子と同じくらいということは、僕がいま身長5センチになっているということか。
リョウは顔を上げて少女を見つめる。
「てことはつまり僕は小さくなっている」
「うん。いまそう言ったじゃない」
「まだ実感が湧かないっていうか。変な感じ。それで……君は誰なの……」
「あ」
ぱっと両手を頬に当てて少女が頬を赤らめた。
「妖精なの、あたし。藤の花の妖精」
「ようせい」
ばかげたことになってきたと思うのだが、ものすごい勢いで腑に落ちてくるところがあった。
「妖精か」
目の前の少女をリョウはまじまじと見つめてしまう。
妖精? どこを見ても人間と同じではないか。何も変わらないぞ? まあ髪が踝まであって異様に長いのは変わってるといえば変わってるが、だからって妖精……なのか?
そこでふとリョウは思い出す。
――そういえば、飛んでいたな。
手を伸ばせば届きそうな距離にいる少女をじっと見る。息をとめて目を凝らす。やがてぼんやりと少女の背中越しに透明の薄い羽根が見えてくる。
「……羽根だ。羽根がある」
呟いたとたんにその羽根がぱたぱたっと振れた。いまはもうリョウにはその羽根がはっきりと見えていた。
「ふふ」
口元に手をやった少女の目が一瞬細くなった。にっと笑っている。
それからひょいと彼女の体は地面から浮き上がった。空中に留まって羽根をぱたぱたしている。
「こんなに透き通っているのによく見えたわねー」
ふわふわと少女が上下に揺れてワンピースの裾もそれに合わせてひらひらと揺れる。
「妖精には羽根がある。あとね。しっぽもあるのよう」
舞い上がっていく妖精の少女をリョウは目で追っていく。
「しっぽ?」
「そうよー」
泳ぐように体を揺らして高い所から降りてきて、少女の足が地面に着いた。
にっこりと笑った顔がリョウに向けられている。
「いまからあたしたちの村にいくの」
「あたしたち?」
「他にも色んな花の妖精が住んでるの。あたしは藤だけど。チューリップとか薔薇とか色々。ひまわりの精もいるし。わかるよね?」
こくこくこくと頷くリョウ。
「あたしのことはファジーって呼んでね」
「ふぁじい」
「うん!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
妖精と共に道のない土の上を歩いていく。
ファジーによるとリョウがまだ飛べないからこうして歩いているのだそうだ。本当だったら自分の家までひとっとびなのだと言う。
やがて急に視界が開けてきた。
彼らの前には草原のような場所が広がっている。風がそよいでいて湿気はずいぶんと和らいだ。
瑞々しい緑が続いている。
リョウは深呼吸をした。
胸いっぱいに甘い香しい匂いが広がる。
向こう側のなだらかな丘の麓あたりに白くて半円型のお椀を伏せたような形のものがぽつんぽつんと存在しているのが見えた。
遠目にはテントのようだったが近づくにつれてもっと頑丈な造りだとわかってくる。
開け放った窓から住人が顔をのぞかせている家もある。
あれもみな妖精なのだろうかと思いながらリョウはさりげなく観察しながら歩いていった。
レモンイエロー色の髪がぴんぴんはねている好奇心丸出しの元気そうな女の子がいた。窓枠に肘をついて上方の家からリョウとファジーを見下ろしている。十代半ばくらいに見える。といっても妖精に歳があるのかどうか定かではないが。
「あれはリルリ」
良司の視線を追ったらしくファジーが小声で教えてくれた。
「ファジー。おかえりー」
リルリという女の子はリョウたちに向かって大きく手を振っている。
「ただいまー」
手を振り返しながら笑って答えたファジーは「そうそう」と思い出したようにリョウに向き直った。
「あの子がひまわりの精」
言われてもう一度上を見上げる。
ひまわりの精リルリもまだリョウたちを見下ろしている。リョウと目が合い、とてもうれしそうな笑顔になった。ぶんぶんと手を振ってくる。それに対してリョウはぎこちなく会釈をかえす。
リルリから視線を離すと、すぐ隣りの家の窓にほっそりとした女性の姿が見えた。リョウたちににっこりと笑いかけてくる。香しい匂いが漂ってきそうな、清楚な雰囲気をまとっているとリョウは思う。笑顔を浮かべたまま、彼女はくるりと上半身をひねって部屋の中へむかい、何か言っているようだった。
薄ピンク色の髪がふわふわと揺れている。艶やかな淡い色の髪は腰よりも長くのびていて、とても綺麗だった。
「クレアよ」
「……やさしそうなひとだね」
「うん。ものすごくいい人よう。クレアはチューリップの精なの」
窓のほうへ向き直ったクレアは通りを見おろし、リョウたちに向かいふるふるふると手を振った。そしてもう一度にっこりと笑ってから、家の奥へと消えていった。
瞬間『あっ』とリョウは思い出したことがあって、並んで歩いているファジーをじっと見つめた。
――ファジーファジー。ねえ。きこえてる?
念じるようにリョウは心の中で話しかけてみた。
反応なし。
おおと思った。
――ファジーのうしろ髪にでっかい虫がついてる!
さらに強く念じてみた。
てくてくと歩いていくファジー。
その横顔にはなんの変化もない。
数歩あるいてから、きょとんとした表情で「なんだ?」ときいてきた。
リョウの視線を感じただけのようだ。
「いや。なんでもないよ」
どうやらこちらの世界では心の中までは読まれないようだった。
しばらく歩いていくと道沿いに窓を全開にしている家があった。女性の顔がのぞいている。窓際にすわっているらしい。紫色の髪と赤い唇が印象的だ。
そのひとが立ち上がって窓枠に両手をつき心持ち体を乗り出した。ふくよかな体つきをしている。
「ファジー。おひさしぶりい」
「ほんとねー。ブルックリン、元気だった?」
返事をしながら、ファジーはその家まで駆けていってしまった。窓越しになにか話している。
リョウのほうはゆっくりと歩いていくことにする。
あたりを見まわす。
いまこの道を歩いているのはリョウとファジーだけのようだ。
ぐるりと顔をめぐらす。すると向かいの家の窓から、手でこっちへおいでというような仕草をしている人がいる。その髪はオレンジとベージュのツートンカラーで華やかにウェーブしていた。
そろそろとリョウが近づいていくと、
「こんにちは。不躾でごめんなさいね。私はエマというの。あなた、ファジーといっしょに来たの?」
ゆったりとした口調である。丸顔で穏やかな目をしている。
「はい」
「お名前は?」
「り。リョウです」
「そう。教えてくれてありがとう。よろしくね。ところで、あなたはこれからファジーの家で暮らすの?」
「さあ。たぶん。そうなのかな……」
「まだわからないのね」
首をかしげたリョウを、エマはにこにこと見ている。
「もしファジーの家ならここから近いから、なにかあったらいつでも相談してね」
「ありがとうございます」
そのとき「リョウー」とファジーの声が聞こえてきた。前方で、ファジーがこちらを見ている。
エマにもう一度礼を言ってからファジーのところへ駆ける。すぐに追いついて、ふたたびいっしょに並んで歩く。
「さっきのひとね、ブルックリンっていうんだけど」
歩きながらファジーが話しかけてきた。
「紫の髪してたひと?」
「そう。リョウのことかっこいいって言ってた」
「えええ。僕のことを?」
「そうだよー。リョウのこと結構みんな好印象みたいだよ」
「うわー」
「いやなの?」
「そりゃあうれしいけど」
「明日みんなにリョウのこと正式に紹介するから」
「えええええ」
「なに後ずさってんの。だいじょうぶだよ」
「ああ。あのさ」
「なに」
「妖精の世界っていってたけど」
「うん」
「ここがそうなんだ?」
首をかしげ気味にしてファジーは「うーんとね」とあごに手をあてた。
「ここはそのなかのひとつの村って感じかな。他にも妖精たちの住んでいる村はあちこちにあるんだけど」
「へえ。他にも村があるの」
「でもかなり離れてるし、だいたい村ごとで完結してるから。他の村の妖精とはほとんど会うことない。よっぽどのことがない限り」
「よっぽどのことって」
「そうだなあ。追放令が出たときとか。どこの村で管理するかとかいう相談で集まったり」
「追放?」
「掟破りっていうかさー。ま、これは今日ガブリエラに会うから、そのときに話があると思うよ」
「ガブリエラって誰ですか」
「この村のリーダーというかまとめ役。村長? かな?」
やがて村のなかで最も端に位置する家の前でファジーが立ち止まった。
「ここ。あたしの家」
白一色で窓枠と扉だけが茶色というシンプルな家だった。
なかなかに居心地よさげな雰囲気の漂っている家だとリョウは思った。
しかし妖精の家に対する感慨よりも、リョウとしては足の痛みのほうがいまは強かった。慣れない履物のせいか小指の横や足の裏側がじんじんと痛い。これ以上歩くのはできれば避けたかったが、ガブリエラという妖精に会うらしいからそうもいかないようだ。
ファジーが家の扉を片手で押している。
うながされてリョウは家の中へと――
「こんにちはー」
足を止めてふりかえる。ファジーも扉から手を離している。
「あら、リルリ。どうしたのー」
家の前の通りに女の子が立っていた。髪の色はレモンイエロー。輝くような髪全体がつんつんと全方向に跳ねていた。
「ファジー、おかえりなさい。無事でよかったー」
「大げさねえ」
「だってみんな心配していたよ。どこいったんだろって」
大きな焦茶色の瞳がファジーを見つめている。
「あたし言ってなかったっけ」
「ううん。リルリ聞いてないよ。クレアも。アヴァも。ブルックリンも。みんな聞いてないって言ってた」
話すのにつれてリルリの体はリズミカルに動き、跳ねた髪もぴんぴんと揺れている。
リスみたいだとリョウは思った。
「みんなじゃないよそれって」
両手を腰に当てるファジー。だが顔は笑っている。リルリの言葉がおかしかったのだろう。
「あたし、ガブリエラとエマには話していったのよ」
「そうかあー」
さっきまでツンツンしていたリルリの毛先が、心なしか、しょぼんと勢いを失っている。
が、すぐにリルリは背筋をピンとのばした。
「それでね。みんな噂してたんだよ」
「噂?」
「どんな人連れてくるんだろうって」
「こんな人だよう」
リョウの肩に手を置いて、ファジーが笑った。
ぱっと明るい表情になったリルリがリョウを見た。
リョウはどぎまぎしてしまう。
「こんにちは。わたしリルリ。あなたは?」
「……リョウ」
「よろしくっ」
リルリが日に焼けたような小麦色の手を差し出してきた。
「よ。よろしく……」
そろそろとリョウも手をのばす。握手するとリルリの体温が伝わってきた。
ファジーが「明日の朝ね」と柔らかい声で言った。
「エマのところで集まったとき紹介するから。みんなにそう伝えといてね」
「わかった!」
元気よくリルリが返事をした。それからくるりと背中をむけ、道のむこうへと駆けていった。