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妖精の世界  作者: ルカ
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第1話 妖精がいた

               プロローグ



 その日スマートフォンが鳴ったとき、会社を辞めたばかりの僕は自宅であるマンションの一室にいて、ぼんやりと映画を観ていた。もう五回は観た映画でそろそろ退屈してきていたところだった。


 何の予感もなかった。

 スマートフォンを手に取ったときも、母からの着信であると確認したときも。

 これから何が起こってどんな世界と遭遇することになるのか。まるで知らなかった。


(りょう)? 残業になっちゃった。優花のお迎え、お願いできる?」

「いいよ。四時までに行けばいいんだっけ」

「ありがと。助かるわー」


 通話を切って壁の時計を見あげた。三時だった。何もすることはなかったし、年の離れた妹はもう五歳で手は掛からない。


 僕はクライマックスに入っていたアクション映画を停止すると、パーカーを羽織り、家を出た。


 五月。マンション前の通りは欅並木の緑で眩しく煌めいて、新緑の葉が零れる光を反射していた。


 温かい陽射しを身に浴びながら歩いていると充電されていくようで、だんだんと僕の足取りも軽くなっていった。


 幼稚園への道のりは街路樹がつづいている。穏やかな緩い風の感触が頬に心地よかった。


 そうだ。

 そのときの僕にはまだ知らないことがあと二つほどあった。


 ひとつは、この世には妖精が存在しているということ。


 ふたつめは、その妖精がぼんぼんのように柔らかくてふわふわとしたしっぽを持っているということだった。

 それはすべすべとした毛並みの丸くて白いしっぽだった。




                 1


 幼稚園に着くと広々とした園庭に水色のスモックを着た園児たちが点在していた。砂っぽい空気に口の中がぱりぱりと乾いていく。グラウンドに陽光が当たって白く眩しく、(りょう)は額に手を翳して園庭を見回した。


 ピンクのエプロンを着けた保母が数人、あちらこちらで園児たちの世話をしていた。二人の子供とそれぞれ手を繋いで歩いていく保母や、泣いている子の前にしゃがみ込み熱心に語りかけている保母。保護者であろう女性と談笑している保母も何人かいる。


 思い思いの姿勢で上から下へと滑り台には数人の園児たちが集っている。隅で一人グラウンドの砂を手に擦りつけている子もいれば、大きな遊具の中でおもちゃの鍋やフライパンで料理をしている子たちも見えた。

 だが優花の姿はどこにも見つからなかった。


「優花ちゃん、今お手洗いに行っていますよ」

 手を振りながらやってきた保母の一人が、顔いっぱいの笑顔で朗らかに話しかけてきた。

「あ。そうなんですか」

「すぐに来ると思います。様子を見てきますね」

「すみません。お願いします」

 踵を返して保母が駆けていく。そのピンク色の背中から目を離して、良はゆっくりと足を踏み出した。


 園庭の中央付近には藤棚があった。およそ幅5メートル奥行き4メートルほどのこぢんまりとしたものだが満開である。藤色に彩られた空間がそこだけ浮かんでいるようにも見える。


 その儚げな紫色の花びらに良の目は吸いつけられた。


 近づいて藤の房がずらりと並んでいる様を見あげる。グラウンドから聞こえてくる子供たちの声は喧噪に近いのだが、屋外であるためかそれらの声は空中を舞い上がっていき、藤の花に触れて和らぎ霧散していくようだった。


 風がそよいで逆三角形の房はその頂点がゆらりと揺れた。手を伸ばして良はその藤の花びらに触れてみた。


 何かがいた。


 花びらと花びらの奥に白いものが見える。それからひらひらとしたリボンのような――と思ったとき、何かがぴょこんと顔を現した。


 どきんとして良は手を引っ込める。


 いったん地面に目を落とす。きっと目の錯覚だろう。

 無職期間も三週間を過ぎたから色々とやばいのかもしれないと良は考える。何もしない毎日というのはやはり心身ともに良くないのだろう。


 そろりと良は顔を上げる。白と紫とで彩られた花びらの中にやはり見える。

 ベージュ色の豊かな髪がふわふわと踝まで伸びて体全体をくるんでいる、アイボリー色のワンピースを着た女の子が――。


『やだ。見える? まさか』


 それは音声ではなかった。何かが良の脳内に直接響いたように彼には感じられた。


「……え?」


 目の前に身長およそ五センチとおぼしき女の子の姿があるのだが、それが何であるかの把握がうまくできない。背中には透き通るほどの薄い羽根があるようだ。虫の一種なのだろうか。だが虫にしては人間に似すぎているだろう……。なんといっても可愛すぎる。反則的な可愛さだ。

 良は唾を飲み込んでなおも見つめつづけてしまう。

 何なのだろう。この可憐すぎる生き物は。藤の花びらを掴んでいる生き物の目はぱっちりと見開かれている。両手を唇に当てている。驚いたという仕草のようにみえた。

 そしてその小さな手には人間と同じように五本の指が揃っていることを良は確認していた。


「――さん、――さん」


 先ほどの保母の声だと気づく。

 ふり向くと園舎からこちらへと優花が一直線に良を目指して駆けてくるのが見えた。


「おにいぃちゃんっ!」


 あっという間に良の膝に飛びついた優花が、両手でぎゅうっと足を抱き締めてくる。優花はリュック型の鞄の他に水筒を斜めに掛け、手にはゾウのイラストが描かれたバッグを持っていた。そのバッグを優花の手から離して良が持った。妹の両脇に手を差し入れて抱き上げる。

 連れてきてくれた保母に会釈して、良は妹と手を繋いで正門を出た。


 自宅へとつづく坂道を下っていく。

「ゆうかね、きょうね、リクトくんとあそんだの」

「ふうん。そうなんだ。何して遊んだの?」

「つみきでね、こうやったの。あとななみちゃんとあそんだ」

「へえ。楽しかった?」

「うん。ゆうかね、ななみちゃん大好き」

 汗ばんだ優花の手の温もりが良の手のひらにも伝わってくる。

 弾むように歩く優花と言葉を交わしながら、良はどこか上の空だった。藤棚で見かけたあの小さな生き物の姿が胸から離れない。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日、出勤しようとしていた母親に良は玄関で声を掛けた。

「優花のお迎え、今日も僕が行くよ」

 靴を履き終えた母がふり返る。ショートヘアの髪にムースの泡が小指の先ほどの量で残っているのが見えた。


「え。どうしたの。助かるけど。いいの?」

「うん。どうせ暇だしね」


 両手をスウェットのポケットに入れたまま良は笑ってみせた。


「ありがとう。じゃあ、行ってきます」

 片手をぱっと顔の横に挙げて左右に振ると、バスの時刻が迫っていると言って母は慌ただしく出ていった。


 玄関の扉が閉まって誰もいなくなると、良は洗面所へ向かった。乾燥機で回せない洗濯物を干しておいてと母から頼まれていた。といっても洗濯は父を除いた三人分でそれほど多くはない。


 良の父親は現在単身赴任で遠方に住んでいる。この家から新幹線で片道3時間の距離だ。月に一度帰省しては慌ただしい二泊を過ごしてまた戻っていくというサイクルを父は一年以上続けている。


 仕事を辞めてから良はまだ父とは顔を合わせていなかった。

 母は良に対してなにも言わない。しかし父は違う。退職したことについて問われることは間違いない。

 だが再就職に向けて良はそれほど必死になっていない。退職してしまったというダメージからまだ立ち直っていないのだ。


 用事を済ませたあと良は自室のベッドに寝転んだ。ヘッドフォンで音楽を聴きながら電子書籍のつづきを読んで過ごす。

 午後になって母が作り置いていた昼食のサンドイッチを食べると、早いと知りつつ一時半には家を出た。



 幼稚園に着いた。門が閉まっている。まだ二時になっていないからだろう。

 インターホンを押すと女性の声が応えてくれた。迎えに来た者だと伝える。上方に据え付けられているカメラに向かってぎこちなく笑ってみせる。

 ほどなく門が自動的に解錠され、良は園庭へ入っていった。誰もいなかった。

 藤棚に近づいてじっと見つめる。今日は風もなく穏やかな晴天で、しんとした空気の中に藤の花は落ち着いた風情で変わりなく咲いていて、そこには何もおかしな点はない。


 ――あれは錯覚かなにかだったのだろうか。


 首を振って園舎のほうへ目を向けたとき、


『わ。また来てる』

 声が届いた。


 良はもう一度藤棚を仰ぐ。

 房の上部にあの生き物がすわっていた。

「あ。いた」

 おもわず声が漏れ出た。


 小さな生き物が怪訝そうに良を見つめている。ベージュ色の髪はふわふわとそれの足からさらに伸びて、藤の花びらの傍まで垂れている。


 可愛い――。

 心の中で良はつぶやいた。


『見えるの? なんで? ていうかカワイイとかキモいんだけど』


 ほんとうにいたんだ。錯覚じゃなかった。こっち見てるし動いて何か言ってる。

 ほとんど無意識に彼はさらに近づいて指を伸ばしていた。その足に触れようとしていた。だがそれはすばやく足を引っ込めた。

 あっという間に房の上に立ち上がっている。


『なによ』


 両手を腰に当てたミニチュアの女の子が良を見おろしている。ビーズのような小さな目がぱっちりと開いて、真っ白な顔と手と腕が青い空を背景に映えていて、そしてアイボリー色のワンピースがとても良く似合っている。

 良が足に触ろうとしたから怒っているのだろう。

 彼を見下ろしているその表情には多少の苛立ちが含まれていて、頰はほんのりと紅潮している。


『誰だよ。おまえ』


「あ? ええーと」

 いきなりおまえと呼ばれてどぎまぎしてしまった。

「りょう……」

『喋るんじゃないよう。おかしい奴って思われる』

「はあ?」

 想定外のことを言われてうろたえてしまう。いろいろと唐突すぎるだろう。

『こっちの方が想定外だよ。見えるの? あたしのこと』

「み、見えてる」

『だー。だから、黙ってよう。誰か来たらどうするんだ』


 ちっと舌打ちのような音が脳内に響いて同時にミニチュア子がふわりと空中に浮いた。と思うと藤の花から良の肩の上へとものすごいスピードで飛んできた。

『なまえ、リョウっていうのか』

 肩の上でまたもや腰に両手を当てて仁王立している。その吊りあがり気味の目を見つめながら良はうなづく。

『いっしょに来る?』

 え? と声に出しそうになって息をのむ。

 投げかけられた言葉の意味が掴めない。

『――っていっても』

 にっと笑ってミニチュア子は腕を組み、上目遣いで良を見た。

『おまえに選択肢はないんだけどな』

 選択肢ってなんだ? なにをいってるんだろう。

 良の戸惑いをよそにミニチュア子がつんと顎をあげて『さ。はやく』と言った。

『リョウの手にあたしを乗せて』

「ほえ?」

 肩の上に生き物が乗っているがほとんど重さを感じない。首をひねってそこへ目をやったまま良は固まっている。

『はやくってば』

「え。あの」

 はっと気づいて口をつぐみ、良は心の中で言葉をつづけてみた。

 ――手に乗って、何をするつもりですか。

『帰るのよう。ようせいのむらに』

 は?

 はああああ?

 ようせいのむら?! なんだよそれ。なんだなんだ。


 視界の端、園舎の入り口辺りで青いスモック姿がちらりと動いた気がした。

 もしかしてもう降園の時間じゃないのか?


『はやくっっ!!!!』


 ぐわわわあああんと脳内に大音響が走って良は「うげ」と頭を抱えた。

 瞬間、何かの気配を感じる。

 顔を上げると目の前の空中で小さな女の子がぴょんぴょんと跳ねている。薄い透明がかった羽根がぱたぱたぱたと動いていた。


 ボバリング? しているのだろうか?


『あたしを包んで……』


 両手で女の子を包む。

 何かが手の中に充満していくのを感じる。熱い。


 ――どうなるんだよ?


 手のひらから溢れた熱が広がって身体中を駆け巡っている。ぐらりと体の揺れる感覚。


 優花のお迎えは? 母に頼まれた買い物。職探しも何か一つくらいは今日しておかないとまずいし。ていうかそもそもいったい何がどう――。


『……リョウがあたしを見たからよ!』


 きゅるるるるるるううぅぅぅ。

 弦の響くような不思議な音が鳴って――。

 すべては闇になった。



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