リリア
村の外れに止められていた馬車の中にはたくさんの子供があふれていた。どの子供も出来る限り精一杯のきちんとした服を着て清潔にしていたが、皆一往に目に涙を浮かべていた。
両親や育ての親から引き取られ西の街に行く為に人買いの馬車に乗せられていた。この中で夜を明かし明日の朝健康状態の検査を受け合格した子供の親にだけ礼金の変わりに食料を渡し不合格の子供はそのまま家に帰される。
夕方になると子供達にパンとスープが配られた。泣いていた子供達は夢中でそのパンに齧りついた。それはこの村で食べるどんな食事よりも美味しい食べ物だった。
人買いの一人は、西の街に行けば毎日でもこの位の物が食べられる、と言った。
その言葉は子供達を泣き止ませるのに十分だった。塹壕に囲まれたこの村も未だ食料は不足している、世界中のインフラがなくなった今、小さなこの村での自給自足にも限界があった。村に面した土地に作られた畑は村人全員で世話をしていたが、灰色の空から射す太陽の光はあまりに弱く日陰でも育つような豆類だけが村人の食料になっていた。それでも戦後すぐよりは状況はましになっていたが、毒ガスの霧は相変わらず村を襲い、深い塹壕に囲われた村は孤立したまま将来への希望も失っていた。
「ここは神に見捨てられた土地だ、神は絶望の心が生み出す幻影で、みんな神などいないと言うが俺たちみたいに長く旅を続けていると時折やっぱり神はいるんじゃないかと思うことがある。西の街のような場所がそうだ、その西の街で神の存在を感じる訳じゃないが、その後こんな村にくるとここには神は存在せず、西の街には神が存在するような気がする。神様も選別してるんじゃないかって思うよ、帝国が民族の優劣を選別した様に助ける価値のある人間を。お前達を神のいる場所に連れて行くのが俺たちの役割だ」
人買いはそういうとスープの入った鍋を小さなテーブルにおいて馬車から出て行った。
思ったより悪い人たちではなさそう、リリアは配られた食べ物を持ったままそう考えていた。でも知らない西の世界に行くのはやはり不安で、なによりずっと一緒に暮らしてきた祖父と離ればなれになるのは堪え難かった。
リリアはパンを膝に置き、スープをスプーンですくい飲んだ。甘く濃厚なスープはリリアが初めて味わう味だった。
その時突然馬車の中に吊るされた小さなランプが揺れ見知らぬ少年が馬車の中に入ってきた。
子供達が一斉にスープの皿から顔を上げた。そこには右肩を抱える様にして子供達を睨んでいるラステイルがいた。
ラステイルは小さく息を吸い込み馬車の中の子供達の顔を眺めた。
大人の姿は見えない、全員自分より小さな子供ばかりだった。この子供達はどう見ても孤児じゃない、ならば気をつけることもない、ラステイルはそう考えていた。孤児達ならばすでにラステイルに向かってナイフを突きつけてきているだろう、しかしこの子供達は驚いた顔でラステイルを見つめているだけだ。
ラステイルは威嚇の顔を彼らに向けながら近づき、一番小さな子供のスープとパンを奪い取ると、その場でそれを食べ始めた。急いで食べる必要はない、子供達が彼を恐れているのは解っていた。誰も馬車から出ない様に入り口を塞ぎながらパンを貪った。
「僕のパン…返して」
小さな子供は精一杯の抗議の声を出し、ラステイルの腕を掴んだ。
ラステイルは膝でその子供を蹴り上げた、子供は転がり痛さのあまり泣き出した。
他の子供達が驚き叫び声をあげた。ラステイルはだまって食べ続けた。
「やめなさい!」
騒然とした馬車に大きな声が響いた。
リリアは倒れた子供に駆け寄り怪我をしていないか確かめ起き上がらせた。そして自分が食べていたスープとパンを泣く子供の前に置いて言った。
「大丈夫、私の分を食べなさい」
そう言うとリリアはラステイルの方を振り向いた。
ラステイルより頭一つ分ほど小さいリリアは見上げる様に彼の顔を見た。
そしてラステイルの頬を平手で叩いた。
ラステイルはパンをくわえたままぶたれた頬を左手で押さえた。
「それはこの子のパンよ、返しなさい」
眉をつり上げリリアはじっとラステイルの顔を睨んだ。蒼い瞳にラステイルの姿が映っていた。
ラステイルは黙ったままくわえたパンを飲み込んだ。
「この辺りの子供じゃないわね、あんた」
子供達は固まったまま事の成り行きを見守っていた。
「あなた、略奪者?」
略奪者という言葉二反応して、子供達が小さな悲鳴を漏らし騒ぎだした。
「略奪者は大人であれ子供であれ処刑されるわよ」
そんな事はラステイルも知っていた、この村に限った事ではない、どこに行っても略奪者は最大の敵で捕まれば処刑されるに決まっていた。
しかしラステイルが食べ物を手に入れるにはこうするしかなかった。
「僕は略奪者じゃない」
ラステイルはそう言うと更に他の子供のパンを掴もうとした。
「やっぱり略奪者じゃない!」
リリアはそう叫んでパンに伸ばした腕にしがみついた。
「離せよ」
ラステイルはしがみついたリリアを振り払った、彼女は転がり馬車の板に身体を打ち付けた。
背中をしたたかに打ち付けリリアはうずくまり猛烈に咳き込んだ、しかし痛みで瞳に涙を浮かべながらも言った。
「止めなさい、止めないと殺されるわ」
ラステイルはリリアを無視し子供の手からパンを奪い取った。
「略奪者でないって言うならそのパンを離しなさい」
そのとき馬車の天幕の入り口が静かに開き、人買いが太く短い鉄の棒を持ちラステイルを後ろから殴りつけようとその棒を振り上げた。
「あぶない!」
リリアはそう叫ぶとラステイルの身体を精一杯の力で床に押し倒した。
振り下ろされた棒は馬車の床に当たり、人買いはそのまま前のめりによろけた。
「小僧!」
人買いはよろけながらそう叫び再びラステイルに殴り掛かろうとした。
しかしすばやく立ち上がったラステイルはひらりとその拳から身をかわすと、横目でリリアを見ながら馬車の外に飛び出した。
「捕まえろ!」
人買いは叫んだが、その時にはすでにラステイルの姿は夜の暗闇に消えていた。
リリアは開け放たれたままの天幕から外の暗闇を見つめた。
この村に来た略奪者は捕らえられ処刑される、リリアは何回かそうして略奪者が処刑されるのを見た事がある。
まだ少年に見えたあの略奪者がそうやって処刑されるのは耐えられなかった、だけど組織的な略奪集団だったら村の被害も大きい。
あの少年は一人で流れてきたんだろうか、リリアはあの少年を助けたことが正しかったのか考えた。
激しい咳が彼女を襲い近くの椅子に座り込んでしまった。
「おねえちゃん、これ…」
パンをもらった子供が半分にちぎったパンを差し出した。
「いいのよ、あなたが食べなさい」
リリアはそう言うとまた咳き込んだ。
子供達は食事の手を止め心配そうにリリアを見つめていた。彼らにも同じ様に咳をしている家族がいたからだ。リリアはみんなが見つめている事に気づき言った。
「大丈夫よ、さあみんな食事を続けなさい」
翌朝明るくなった頃、小さなカップに薄いが塩味のきいたスープが出され、それを飲んだ後子供達は全員服を脱がされ検査を受けた。
人買いは子供達を一人一人じっくり眺め身体に傷等がないか調べた。どの子供も痩せていたが皆健康そうだった。
リリアは脱いだ自分の服で膨らみ始めた乳房を隠す様に身体を丸めていたが人買いに服を取られてしまった。
人買いはリリアの身体を見たが目立った傷や怪我は無い様に見えた。
女は綺麗な身体ではないと買い手が付かない、そう人買いは考えていたが実際は人買いは直接誰かに子供を売る事は無かった。
西の子供が生まれない街では子供達は街の役場に連れて行きそこで全員一括で売られる。
人買いは街長から報酬を貰うだけで、子供たちが誰に引き取られるのかは知らなかった。
西の街では戦後子供が全く生まれてこない、戦争中グリー二ーがこの街に繁殖制御の薬をまいたという噂だったが、真相は解っていない。
もしかしたらその前の帝国の絶滅政策の一つだったのかもしれない、この子供達を引き取る親達も昔この街に売られてきた子供達だった。
その時リリアは急に咳き込みだした。この場で咳をしたらまずい事は解っていたが止める事は出来なかった。
人買いは鞄の中から古い聴診器のような物を出しリリアの胸に当てた。
「ずっと咳は続いているのか?」
人買いはそうリリアに聞いた。顔を横に振ったが人買いは彼女に背中を向ける様に言い、そこに聴診器を当てた。
そして再びリリアを前に向けると服を着る様に言った。
リリアは黙って服を着た、人買いが次に何を言うかは解っていた、その言葉は祖父を悲しませるものだろう。
「お前は帰っていい」
人買いはリリアを馬車の外に出してから静かにそう言った。
「でも…」
「家に帰れ、これは手間賃だ」
人買いはリリアにパンをいくつか持たせて言った。
「出来るならこの村を出てよそで暮らせ、そうすれば…」
そういう言うと人買いは再び馬車の中に入っていった。
外はいつもの様に灰色の空だった、山の方から吹き下ろす風がリリアの頬に当たった。
家へ帰れ、それはリリアにとって死の宣告でもあった。
祖父のところに戻れることは西の街に連れて行かれるよりはずっと嬉しい、しかし人買いが家に帰らせるのは、その子供が健康でないからだ。
肺の音を聞いた人買いはリリアがすでに病に冒されている事を知った、だから彼女に帰れと言ったのだ。
前の夏からずっと咳が止まらなかった。村ではこんな風に咳をしだした人間は大概数年も生きていられなかった。
身体の震えが止まらなかった。彼女は小さな手で胸を押さえ唇をかんだ、涙が溢れてくる。
手の甲で涙を拭い、震える脚でリリアは歩き始めた。
幸い馬車の周りには他の人影は見えなかった、誰かに泣いている姿を見られる前に帰ろうと思った。
村外れに置かれた馬車から家までは村を通り抜けなければならない、リリアは村の中心部を避けるように歩いた。
村の家々を避け、畑の向こう側を歩いていくと、今ではもう人も寄り付かなくなった教会の前に出る、そこには汚染されていない井戸がある、そこで水を飲もうと思った。朝貰ったスープを飲んで喉が渇いていた。
枯れた木々に囲まれた教会は長く放置されて、扉の木も腐って落ちかけていた。
リリアはたまにこの教会の中に入る事があった。
この村には神様がいない、人買いはそう言っていた、リリアもそう思う。
いつ入っても教会の中は荒れ果てて神様の息は感じる事が出来なかった。
リリアがその前を通ろうとした時、ガタンと大きな音が教会の中から聞こえた。
驚いた彼女は危うく人買いに貰ったパンを落とすところだった。
教会の壁に付けられた、半分割れたガラス窓から中をのぞくと、天井の梁が腐って教会の床に落ちていた、白い埃が舞い上がっていた。
彼女はその中には入らず、教会の横にある井戸に向かった。
リリアはポンプの横に置かれているバケツを置く為の机に貰ったパンを置き、青いペンキがはげ落ちている手押し式のポンプのレバーを両手で上下させた。
冷たい水がポンプから流れ出した、リリアは更にレバーを上下させしばらく水を流したままにしてから、流れ出る水に直接口を近づけて冷たい水を飲んだ。
リリアが水を飲み終え顔を上げた瞬間、ポンプの横に小石が当たった。流れ出した水が泥だらけになって飛び散りリリアの白い服に飛び散った。
畑の中から太った老婦人が怒りの形相でリリアに向かって石を投げつけていた。
「勝手に飲むんじゃないよ! 人でなしの孫! 帝国の手先め!」
リリアは手で服についた泥を払いのけようとしたが、すでに生地にしみ込んで白い服はまだらな茶色に汚れてしまっていた。この白い服はリリアは覚えていない母が小さい頃にきていた服だと祖父から聞いていた。リリアは怒りの顔を老婦人に向けた。
「この井戸は村人共同の物です」
「お前がいつから村人になったんだい! あんたの爺さんがこの村にした事をわたしゃ忘れてないんだよ!」
再び投げつけられた小石がリリアの脚に当たった、慌ててよけたりリアは泥水に脚を取られ転んだ。
「出て行け! 人でなしの孫!」
リリアは立ち上がると泥だらけになった手のままパンを抱きかかえその場から駆けだした。
村に住む若い人間達はリリア達に普通に接してくれていたが、この村の多くを た 占める老人達はリリア達、いや彼女の祖父を憎んでいた。
戦争中何があったのか祖父は話してはくれなかったが、祖父は帝国の兵隊だった事は聞いていた。
リリアは前を睨みながら走り続けた。濡れた服が重く冷たかった。
祖父にこの事は言えないが、帰ってきたリリアを見て祖父は全てを察するだろう。
家に着くまでにせめて笑顔にならなくちゃ。
そうリリアは考えながら走り続けた。
山道の脇に打ち捨てられ錆が浮いた戦車の残骸と巨大な砲塔が降り出した小雨に打たれ音を立てた。
道端に小さな動物の白骨が散らばっていた。腐った木と積もった落ち葉が発酵臭を一面に漂わせていた。
長く整備されてない道は枯れた木々の枝が張り出し、鞭打つ様にリリアの顔を撲った。
瞳に再び涙が溢れ出してきた。
リリアは立ち止まり、小雨に打たれながら声を出して泣いた。
「おい」
雨に塗れた枯れた木々の間から声が響いた。
ラステイルだった。