塹壕
それは谷と言うより長く深い巨大な溝だった。あまりに大きく長く、そして深い為、ほとんど地震でできた断層の亀裂のようだったが、それは確かに人の手で掘られた巨大な溝だった。
「どうする?」
ラステイルは横に座って同じようにその巨大な溝をのぞき込んでいるダリアに言った。そのあまりにも巨大な溝は深さ三十メートル以上あるようだが底には灰色の煙が充満していて地面は見えてなかった。
「あの煙が昨日の毒ガスだよ」
ダリアはそう言うと顔を上げ溝の向こう側、荒れ果てた森を見つめた。
「向こう側まで大体二十メートル弱ってところだよ、お前行けるだろ?」
「右腕が使えないから、そんなには飛べないかもしれない」
ラステイルは周りを見渡した。
「あそこ辺りなら何とかなるかもしれない」
ラステイルが指差した左手の溝は両端の幅が少し狭まりそこだけ幅が短く感じられた。二人が近づくと幅が狭まった部分にだけ土が盛り上げられコンクリートで固められていた。ダリアはそのコンクリートをこの世界に不似合いな赤いハイヒールで踏みつけた。
「昔ここに橋が架けられていたんだね」
ダリアはコンクリートに埋め込まれた鉄の金具を見つけて言った。
「なんで今はないんだ?」
ラステイルもその金具を見つめながら言った。
「多分ここも戦場だったんだよ、このバカでかい溝はきっと帝国軍が掘った塹壕だよ。戦闘が始まってその橋を破壊したんだね。」
そういうとダリアはその巨大な塹壕の底を見た。橋の残骸でも見れるかと思ったが、目に入ったのは底に溜まった灰色の煙だけだった。
「だから多分、あの毒ガスも帝国の残していったもんだね、戦争が終わって四十年経ってもまだこの塹壕のどこかで毒ガスを吐き続けてるんだ」
灰色の煙はその巨大な塹壕の底に充満していた、目の前にある小高い山とそれらの麓にある小さな村の周囲全てに、この巨大な塹壕は掘られそこに溜まった毒ガスとともにその村を囲い込みんでいた。入ることも出ることも出来ない囚われの村。
「早くしろ、獣」
ダリアはそう言った、しかしラステイルは塹壕の前のコンクリートに座り込んでしまっていた。
「ダリアが連れて言ってくれればいいじゃないか」
そういうと少年は右肩を擦った。
「甘えんじゃないわよ、大体アタシは実体化したままお前を抱えて向こう側には行けない、向こうに行くには実体化したままじゃ無理だからね」
ラステイルにもその位はわかっていた。
「向こう側に飛んでもいいけど…」
その位はわかっていたがこのままダリアの言いなりになって向こう側に行くのは嫌だった。
「向こう側に飛んでもいいけど、向こうにいる 獣 とは戦わない」
そういうとラステイルは立ち上がって、塹壕の渕からずっと後ろに下がった。
向こうに何があるかはわからない、だけど僕はもうダリアの命令は受けない、獣とは戦わない。
ラステイルは走り出した。壊死しかかっている右手をだらりと下げたまま、怪我をしながらも疾走する狼の様に両足と左手で地面を蹴り上げた。ラステイルの身体は塹壕の向こう側に勢いよく飛び出した。空中で身体が回転する。
僕はなぜこの世にいるのか、僕はなぜ生きているのか。
塹壕を下に見下ろしながらそう考えていた、しかし向かい側の地面、塹壕の渕すれすれに滑り込んだ衝撃が彼を現実に引き戻す。
身体が滑り小石が皮膚を小さく切り裂いた。ようやく転がる身体を止め座り込み、今受けた傷を獣の様に自分でなめた。
向こう側の渕で安心した様にダリアがそれを見ていた。
「やれやれ、自我が発達したってやつかねえ」
そういうと彼女の身体は消え、次の瞬間には傷口をなめるラステイルの側に立っていた。
「戦うのがお前の運命だ、ラステイル」
ダリアはラステイルを見下ろして言い、そして笑った。
「今のは教導士ぽかっただろ?」
そういうと赤いドレスを翻してダリアは森に向かって歩き出した。
「僕は戦わない!」
ラステイルは叫んだが、ダリアはそれを無視して歩き続けた。
枯れて積もった木の葉はハイヒールでは歩きづらく、ダリアはハイヒールを脱いで素足で木の葉の上を歩き始めた。
湿った木の葉の感触が脚の裏から伝わりひんやりとして心地よかった。
(心地いい?なんであたしは心地いいんだろう)
素足の足下から小さな虫が這い出し、また木の葉の下に隠れた、ダリアは虫が隠れた木の葉を踏まない様に歩いた。
(なんでグリーニーはあたしやラステイルに感情なんてモノを植え付けたんだろう)
森の奥は真っ暗で二人は黙りこみ、木の葉を踏みつける音だけが微かに聞こえていた。