廃墟の街
空は灰色に覆われていた。
それでも四十年前、天空を覆った黒い雲に比べれば、ずいぶんと明るくなっていた。
あらゆる都市や村、およそ人間の住む所すべてを破壊しつくしたと思われる戦争が終わってから四十年。
いや、本当に戦争が終わったかも定かではない、確かに二つの勢力の戦いは終わったが、残された兵器達はいまだに生きるもの全てを殲滅する為にその情熱を燃やし続けていた。
その廃墟の都市で少年と女はひび割れたアスファルトの上を南に向かって歩いていた。
崩れ去った巨大な建物の瓦礫が時折道をふさいでいて、二人は大きく迂回して再びアスファルトの上を歩き出す。
南の方角に伸びる黒ずんだ大きな道路を進んで行くと、取り残された無人の車の列にぶつかった。バンやピックアップ、様々な車にときおり装甲車や戦車が混じっている、黒ずみ錆がひどく浮いている車の列は遥か彼方まで続いていた。乗り捨てられた車は一台残らず燃料タンクがこじ開けられガソリンが抜かれていた。
四十年前ここで何があったのか、この車の列で逃げようとしていた人々がどこに消えたのか今は誰も知らないし記録も残ってはいない。
ガソリンを略奪していった生き残りの人々が今もこの都市で生きているのかもしれないが、廃墟となった都市に人影はなかった。
二人はその車の列を避け歩道を歩いていたが常に崩れ落ちた建造物の残骸がそれを邪魔していた。
少年は右腕をマントのように被ったボロ布で隠し、右肩を押さえながら小さく歩み続けている。
その後ろを深紅のドレスの女が少年をせきたてる様に睨み付けながら歩いていた。
「日が暮れちまうよ、早く歩け、このうすのろ!」
女はその顔立ちの美しさとは正反対の汚い言葉を吐いた。
「このあたりにはまだ"お袋さん"とか"将軍"とかがうろついてるかも知れない、そんなのに捕まっても助けてやらないよ!」
少年は右肩を抱きしめたまま、後ろから聞こえる女の声に向かって言った。
「お前はどうせ助けてくれないだろ…」
少年の後ろにいた女の姿が急に薄い靄のようになりアスファルトの上から消えた、そして次の瞬間少年の目の前に再び女の姿が浮かび上がった。
「生意気言うんじゃないわよ、獣のくせに」
女は少年の顔の鼻先に自分の顔を近づけてにやりと笑った。
「僕は獣じゃない、ラステイルって名前で呼べよ、ダリア」
彼はそう言ってダリアと呼ばれた女から顔をそむけた。彼、ラステイルの肩まで伸びた髪が風になびき青い目は空の灰色の雲を眺めた。
「やっぱり生意気」
ダリアはそう言うと再び姿を消し、声だけの存在になりラステイルに言った。
「お前に名前なんて要らないんだよ、獣。それに私のことを呼び捨てにするのも生意気。ちゃんと教導士ダリア様とお呼び」
「何が教導士だよ……何にも教えてくれないくせに……」
ラステイルはうつむいて小さく呟いた、その目の前に再びダリアが現れ、大げさな身振りで答えた。
「あら、ちゃんと戦い方は教えてやったわよ、あんな獣に大事な右腕を使っちまったのはお前のヘマで、私のせいじゃないわ」
顔を背けたまま黙って歩き続けるラステイルにダリアは更に追い討ちをかける。
「あんな獣、指の二、三本で片付いたはずなのにまるまる右腕全部使っちまうなんて、この後の戦いに影響大だわ! 大体……」
急に振り向いたラステイルの顔を見てダリアは思わず言葉を詰まらせた。
「な、なによ、その顔」
「彼女は……」
ラステイルは怒りに燃えた目でダリアを睨み叫んだ。
「彼女は獣なんかじゃない! 彼女は僕に頼んだんだ! 自分を消滅させてくれって、これ以上人を殺してしまう前に、自分を消滅させてくれって!」
「ふん、グリーニーの獣だから人間を殺すんでしょ! なにいってんのよ」
「彼女は人間だったんだ! お前は獣には心なんて無いって言ってたじゃないか!」
「それはあの獣の教導士のせいよ! あたしは知らないわ! あんな不完全な獣に育てるなんて!」
ラステイルは左手を振り上げ叫んだ。
「彼女は獣じゃなかった!」
右手をダリアに向け振り下ろす、しかしその右手が触れる寸前に、ダリアは再び姿を消した、そしてラステイルの声だけが廃墟の都市に響いた。
「獣には心がないなら僕はどうなんだ! 僕も獣じゃないのか? だったらなんでこんなに心が痛むんだ!!」
ラステイルは道路の座り込み、左拳でひび割れたアスファルトを叩いた。
黒ずんだアスファルトから土ぼこりが上がり風に吹かれた。
「お前はあたしが作った特別製の獣だからだ、グリーニーの獣じゃなく、帝国の為の獣だからだ」
ダリアの声が土ぼこりに混じって都市に響いた。
「あたし達は帝国の兵器になったんだ、グリーニーの獣を殺す為の帝国の精鋭にね」
ラステイルはうつむきひび割れたアスファルトに涙をこぼした、乾いたアスファルトはその涙をすぐに吸い込んだ。
「帝国の獣が、見境なく人間を殺すわけにはいかないからね」
強風が廃墟の都市に吹き抜けた。
「お前は獣を殺戮する為の獣なんだ。六番目の教導士の獣、六月の獣ラステイル」
ラステイルは道路に突っ伏し大声で子供の様に泣いていた。実際彼はまだ十五歳の子供だったが痩せこけ小さいその体格は彼をもっと幼く見せていた。
肩まで伸びた金色の髪は長い旅でつやを失い汚れていた。少年のやせていはいるが端正な顔立ちはその壊死した右腕を更に異様に見せていた。
ダリアはうずくまる少年の顔のすぐそばで再び実体化し、地面に落ちた彼の涙の上をハイヒールで踏みつけた。カールした赤毛、深紅のドレスにハイヒールを履き薄く化粧をしたその姿は、どこを切り取ってもこの廃墟の世界で現実的なものには見えなかった。
彼女はうずくまる少年をいらだつように睨んでいた。
「とにかく、あたし達は旅を続けなきゃならないんだ、早く立ち上がって歩くんだよ!」
そう叫んだダリアの背後で、道路に散らばる瓦礫を踏みしめる音がした。ダリアは黙って後ろを振り向きながらその姿を消し去った。
うずくまるラステイルの十メートルほど先、崩れ落ちそうな建物の陰からスカーフを巻いた女の姿が現れた。女はこの土地の古めかしい衣装を身にまとっていた。
その女はラステイルを見つけると目に涙を浮かべ大声で叫んだ。
「ああ……ぼうや!」
瓦礫につまずきよろけながらラステイルに近づくと、少年の頭を両腕で抱きしめた。
「ぼうや、ぼうや……探していたんだよ。ああ、合えて良かった、ぼうや」
ラステイルは驚き女の顔を見上げた、女の身体からはかすかな石けんの香りがし、その腕は温かだった。
「な……なに?」
「ずっと探してたんだよ、ぼうや」
女は涙を流しながらラステイルを抱きしめその髪にキスをした。
「ぼ……僕はあんたの子供じゃない……」
「忘れちまたったのかい、ぼうや、母親の顔を」
「ち……違う!」
ラステイルは女の腕を払いのけ、立ち上がって叫んだ。女は驚いた顔を少年に向けた。
「僕はあんたのことは知らないしあんたの子供じゃない!」
女は彼を見上げ、そしてポケットから真新しいハンカチを涙を拭った。
「そう……ごめんなさいね、あなたは私の息子ではないのね……」
そう言うと立ち上がり、スカートの埃を払いながら呟いた。
「ごめんなさい……私にはちょうどあんたぐらいの歳の息子がいてね、あの戦争で離ればなれになっちまって…」
ラステイルは黙って話を聞いていた、女に抱きしめられた温かみがまだ髪に残っていた。生まれ落ちてから母親という存在を知らないラステイルにとってそれは初めて感じる暖かさだった。
「あんたはこんなところで何をしてたんだい、そんなに汚れちまって」
「何をって…僕は旅を…」
「まあ、長い旅だったんだろうね、そんなに汚れて…」
女は少年の頬をなで、少年の左手を掴んだ。
ラステイルは驚いて左手を引こうとしたが、女は強く彼の手を握って離さなかった。
「どうだい、私の家で少し休んでいかないかい、汚れた身体を洗って暖かいスープでも飲んでいきなさい」
「え……」
「いいんだよ、私の家はすぐ近くだから遠慮しないで休んでいきなさい、ああ、本当のぼうやが帰ってきた気分だよ」
彼の左手を掴む女の手は柔らかで温かだった、女はラステイルを強引に引っ張り歩き出した。
「さあ、すぐそこなんだから」
ラステイルは前を歩く女の後ろ姿を呆然と眺めていた。
柔らかい手のひら、石けんの香り、真新しいハンカチ、女の古めかしい服は、洗濯したての様にきれいで汚れてはいなかった。
廃墟に巣くう略奪者の匂いがなかった。
「そう、こいつ"お袋さん"だよ」
目の前に現れたダリアがそう言う前に、ラステイルは女の腕を振り払おうともがいたが、女はますます力をその手に込め少年の手を掴んで離さず、人間と思えないような力でラステイルを引っ張った。
「やめろ!」
左手の骨がきしむ音がいた。
「ほら、だから言っただろ、あんたがぐずぐずしているからそんな時代遅れの人間狩りにひっかかるんだ」
女はそう言うダリアを無視する様に振り向き、凄まじい早さで少年の首を両手でつかんで締め上げた。
「い…息が…」
「この"お袋さん"きっともう体内弾倉が空なんだ、普通なら近づいて撃ち殺すだけだけど、弾薬なんかとっくの昔に切らしてるから、こんな手間掛けて絞殺するって訳ね、見上げた心意気だね」
ダリアは目を見開きもがいているラステイルを振り返って言った。
「ほら、いつまでそうされてるつもりなの、あんた」
ラステイルは女の腕を左手で掴み渾身の力で握りした。女の片方の腕が火花をあげへし折れた。女は片腕から火花を散らしながらラステイルから離れた。
女の喉元から黒い金属の銃身が突き出てカチカチと金属音をならした。
「哀れだねえ、空の弾倉を」
ダリアがそういった瞬間、女の喉元から銃声が響きラステイルの頬を切り裂さいた。
「こ、こいつまだ弾もってやがる!」
その瞬間ラステイルは女を目がけ突進し、左拳を猛烈な勢いで女の腹部にめり込ませた。
「ぼ…キィィ…ぼう…キィィ…」
女の口から耳障りな音が鳴り響く。
「は…早くそいつから離れるんだよ!」
ラステイルは女の身体を脚で蹴り上げ左拳を引き抜いて空高く飛び上がった。その瞬間金属を切り裂く様な音とともに女の身体は爆発し鋭利な金属片を四方に飛び散らせた。その金属片は四方の瓦礫に針の様に突き刺さっていた。
煙を上げる女の残骸の前に着地した少年の身体にもいくつかの小さな金属片が突き刺さり血を流していた。
「ふう…ヤバかったね。獣がこんな旧式にやられたとあっちゃ恥ずかしいってもんだけど」
ダリアは少年の身体を検分するよう眺めていった。
「まあ、その程度の傷はすぐ治るし、ちっとはいい経験になったんじゃない?」
「お前はもう弾切れだって言ったじゃないか」
「知らないわよそんなの、きっと体内弾倉に残ってた不発弾が偶然動いたんじゃないの」
ラステイルは頬に手を当て血を拭った。そして身体に突き刺さった破片を引き抜いた。
「痛いよ……身体中……」
「言ったろ? お前は獣なんだ、そんな傷はすぐに塞がるからしばらく我慢しな! さあ、先を急ぐよ」
ダリアはそういうとラステイルの前を再び歩き始めた。
少年は"女"だったその残骸を眺め、その腕の温かさを思い出していた。まだ赤ん坊だった頃、もしかして彼を抱いていたくれていたのかもしれない母の暖かさを。