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少女の日記

作者: きつね

午前中から家で頬杖(ほおづえ)をついていた。高校は昨日卒業した。

この三年間を振り返ると、特に高校生らしい友情や出会いとは程遠かったと思う。

それでも、卒業式というのは、僅かでも感傷的にさせるので不思議だ。

ただ、やはり今日になると、忘れ去ったような顔で時間を消化している。

四月からは、都内の大学に通う。

今はまだ高校生という扱いだが、それを自覚している者は、僕も含めてどれほどいるのだろう。

離れたところで車が去る音によって、部屋が静かであることに気付いた。押し入れに目が行った。

なぜか少し片付けようと思った。


子供から大人になるのに境界などは無い。緩やかな坂道のように繋がっている。

だけど僕には境界はあると思う。昨日制服を脱いで、体の重さを感じた。

押し入れを片付けようと思ったのは、そこがすでに境界の向こう側だから。

いくつもあるダンボールの中の多くは、教科書やノートの束だ。

しかし、自分でもよく保管していたものだ。目の前のこれなどは、中学の頃の教科書だ…。

捨ててしまおう。すべての物ひとつずつに目を通すと、多くの束が生まれた。

押し入れの奥にあった最後のダンボールを見ると、小学生のときのものにまでさかのぼっていた。

それで終わりだと思っていた。


…なんだ…?国語の教科書を取り出すと、下からノートが出てきた。

ノートは、よくある小学生の日記帳だ。名前が書いてある。

「一年四組 コトハ」

少しの間、目が留まった。手も止まった。聞こえるように声に出す。

「コトハ…」

この名前の少女を思い出すのと、日記帳をめくるのと、どちらが早かったろう。

「四月二日:おなじ きょうしつにユージくんというこが います。

 ユージくんとは いえがちかくです。ユーくん よろしくね。」

「五月十三日:かぜをひいてしまいました。がっこうには いけませんでした。

 そしたらユーくんが れんらくちょうをとどけにきてくれました。」

ノートのどこを読んでも、ユージとのことが書いてある。漢字がほとんど使われていない。

日記の最後の日付には、こう書かかれている。

「三月二十五日:わたしは くうきのきれいなところにいきます。ユーくんに いつかまたあいたいな。

 ユーくん これをみたら あいにきてくれると いいな。」

心臓が脈を打った。


この日記を読んだのは、初めてのことなのか、それとも少年のころにすでに読んだのか、それすらも憶えていない。が、ダンボールの中に大事にしていたのであれば、読んだのかもしれない。

ふと、本棚に並んでいる、クラスの昔の文集に目が行ったが、やめた。

子供の書いた日記だから、十年以上も経っている内容を真に受けるのは馬鹿らしい。

だけど、無視できない。ふたつの想いが、目の前で堂々巡りする。第一、この少女はどこに行ったんだ?

分かる訳がない。半分もうどうでもいいような目で、ページを送った。

規則正しい紙の動きを目で追っても何もなかったが、ページの最後にそれはあった。「はがき」だ。

それも往復はがき。経年により黄ばんでいる。郵便番号は五桁だ。いつの頃だよ。

いや、それよりも、この往信はがきの宛先…これはユージ宛てになっている。

それをめくると、また心臓が脈を打った。返信はがきの宛先は、コトハ。胸がにごった。

少女の行き先を知ることができたという安堵よりも、返信はがきを投函していなかったという事実のほうが重かった。ネットで場所を調べると、少し驚いた。

が、すぐにバッグに日記帳を投げて、適当な服で出て行った。

昨日の卒業式で制服を飾った花は捨てるのに、これは大事なのか。ユージは滑稽に思った。



電車に乗ると、空いているつり革を見つけた。彼女は、僕の家のそばの集合住宅に住んでいた。

大人しめの女の子で、勉強はよくできていたと思う。

「思う」というのは、僕自身の記憶が、非常に曖昧なのだ。

事実、日記を読むことによって知ることは多い。実際の彼女は、勉強は好きではなかったようだ。

その代わり、書くことは好きで、作文などの提出物は良い評価をもらっていたそうだ。

十月三日の日記にそのことが書いてあった。また、彼女は、僕とのことを日記に書くことが多い。

もちろん、他の子とのことも書くのだが、日記全体での割合はとても少ない。

僕は、彼女に何かしてあげたのかと考えた。当然、憶えていない。

まあ、相手は女の子なので、多少は優しくしたとは思うが。

それでも、僕の元々の性格が人と話すのが苦手であったため、人によっては、楽しくはなかっただろうと想像ができる。しかし彼女はそうではなかったようだ。


彼女は、なぜ引っ越したのか。

当時、小学一年の三学期を終えたばかりの僕には、父親の仕事の都合だと思っていた。

というか、それ以外の理由を考えるだけの知識がなかった。

仕事の都合というのは、日記から確認することができた。

この日の彼女の文字は、ひどく歪んでいて、内容も感情的だ。

なにか、父と子の現場に、自分も居合わせてしまったような、どうしてよいのか分からない気持ちになった。当時、僕に引っ越しのことを伝えた彼女は、どんな気持ちだったのだろう。

その日の文字は、整然としていた。事実だけが書かれていた。

感情的な部分は読み取ることができないが、その必要はなかった。

確か、当時の彼女に対する僕の返事としては、恥ずかしさのために上手く返すことができなかったと思う。僕が上手く言えたのなら、整然とした文字に起伏をつけることができたのだろうか。


ある三月の日記に目が留まると、僕の聴覚を少し鈍らせた。この時は春休みに入っていたのだろう。

僕の知ることのない内容だ。

「三月二十日:ずっと ねつがさがらない。かぜのおくすりも きかない。

 おかあさんと おおきなびょういんへ いった。」

大きな病院へ行った?なんの病気だったのだろう。治ったのか?

それ以降の日記には、病気の細かいことは書かれていなかった。

そういえば、この日記をもらったのは、彼女の母親からだったのを思い出した。

母親を通して渡されたのには、そういうことがあったのか。

そして僕には、病気のことを伝えてはくれなかったのか。

確かに、三月二十五日には行ってしまうのだから、当然のことではある。

僕の中で、ほとんどの部分は納得していた…。

電車内で、スーツ姿の人が目に入って、聴覚は元に戻った。


僕は、なぜ少女の日記ひとつのために、今電車に乗っているのか?自分に訊いてみる。

はがきを投函しなかった罪悪感?確かにある。が、向こうはもう忘れてしまっているかもしれない。

恋愛の発展への期待?認める。

が、向こうはすでに病気を克服して、想いのある人と笑顔でいるかもしれない。純粋な懐古?

そうかもしれない。少年の頃への想いを突き放すほどに、頭から離れない。

もうひとつ理由をつけたそう。この日記を返すために、向かっているんだ。

本当は僕にくれた物なのだけれど、このノートの存在自体を忘れていた。

忘れてしまうほどの価値なのであれば、僕ではなく彼女が持っているべきだ。


会ってどうする?急に向かっているんだ。

だいたい、はがきにはメールアドレスも載ってなければ、電話番号ですら書かれていない。

(あとになって、当時小学一年生の子供が、携帯なんか持っているわけがないと気付いたのだが)

おそらく家の玄関でご家族に日記を返して、それで終わりだろう。

それでも、何から話せばいいのか分からないのは変わらないが。

そのことについては、考えることを止めた。


平日の昼間でも、人は多い。

人の中に身を置くと「自分は確かに存在している」と感じる人は少なくないのかもしれない。

だが、その感覚は、僕には共感することがまだできていない。

僕は、この車両に乗っている人間の一人だ。そして、この列車に乗っている人間の一人だ。

さらに、無数に走っている列車にいる人間の一人だ。分母が大きくなると、分子はゼロに近づく。

人を多く感じるほどに「自分は確かに存在しているのか?」と疑いをかけてしまう。

そんなことを考えている人間は、ほとんどいないだろうけど。



駅を降りた。先ほどまで乗っていた電車は、ひどく揺れた。そして駅もひどく小さい。

ここまで来るのに、二回電車を乗り換えて、三時間くらいだろうか。

ここは僕の地元とは異なり、静かなところだ。

もちろん、駅の前は、車が走っているし、近くにはコンビニらしき店もある。

よくある地元の人間が運営している酒屋だろう。

静かさと、邪魔にならない雑音…むしろ心地良い雑音が、混在している。

歩くと、普通の一軒家の並びの中にも、木造・瓦屋根の家も散見される。遠くには山も見える。

遠くとは言え、それでも僕には間近に感じる。そういうところへ来たのか彼女は。

途中、大きな川の橋を渡りながら、車の動きを目で追い、今は長くゆるい上り坂を耐えている。

初めての土地の上り坂は好きではない。

目的地までの道順は分かっているとは言え、それでも距離感がつかみにくく、薄い不安が、余計に脚を重くさせるからだ。そして、歩いているのは僕ひとり。道の両端は、林が広がる。

わるくはないが、飽きてしまった。道の先に地平線を見た。

上り坂の終わりを知っても、安堵する体力はなかった。

無機質に歩き続けて上り切ると、林も終わり、家や畑が迎えてくれた。目的の住所は近い?

いや、もう少し行ったところにあるのか?ここから先は、進行方向の右手に注意を向けながら進んだ。

見つけることは、難しくはなかった。が、改めて驚きだ。


ネットで調べたときもそうだったが、今でも半信半疑だ。

灰色の三階建ての建物、広い土の運動場、錆びた鉄棒、そして、今では珍しい二宮金次郎像。学校だ…。

住所が学校なんて、やはりおかしい。

ここまで来ておいてなんだが、このはがきの宛先は彼女の書き損じなのだと結論付けた。

ただ、その考えに反して、なぜか体は正門まで辿り着いていた。自然と目が学校の名に向かった。

そういえば、今になって気がついたのだが、校庭はもちろん、校舎にも子供のいる様子がない。

春休みだからか。時計は午後二時半。やはり帰ろう。

まだ視線を校舎へ残しつつ、ここを離れようとすると、何かを見つけた。本当に偶然のことだ。

校舎から人が出てきた。年配の女性のようだ。女性は、校舎の玄関を掃除し始めた。

思わず、近づきに行ってしまった。まだ、僅かな何かを期待していたのかもしれない。

しかし、どうする?何を話す?何を訊く?目的の場所が違うのに?

正門を通って、女性に向かうと、あちらも僕に気がついた。


明らかに困惑した表情をしながら女性に話した。


「えーと…すみません…ちょっとお尋ねしたいことがありまして…」


バッグから、あのはがきを見せると続けた。


「この住所の場所は、こちらの学校…ということになるのでしょうか…?」


女性は驚くと、実際に手に持って、自分の目の距離で確認した。


「ああ、そう…ですねえ。ここになりますね…」


そうか。今度は女性からの声。


「あの、もしよろしければ、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」


正直困った。ここに用がない以上、いても仕方がない。

しかし、だからと言って、無下(むげ)にする訳にもいかない。

すると、ふっと、ある可能性が頭の中ににじんできた。

にじみは、自分自身を徐々に納得させていった。もう少しこの学校で、彼女に関することを探そう。

僕は、女性の言葉に了承した。



女性の案内に従い、玄関を通ると、下駄箱に迎えられた。

下駄箱には、生徒の名札が貼られているが、それも所々に見られる程度だ。気にも留めなかった。

廊下を進むと、窓の外の中庭に目が向いた。

自然の草が茂っているが、手入れが加わったような箇所も見られた。

廊下の掲示板には、画鋲の痕が無数にできていた。教室を見ると、からっぽだった。

別のところでは机や椅子を見ることができたが、教室の後ろに固められていた。

黒板を見ると「ありがとう○○小学校」の文字。生徒が書いたものだろう。

数種類の色を使って、花や寄せ書きが配置されている。

それを見た僕に女性が声をかけた。


「この学校ねー、ご存じの通り廃校になったんですよ。生徒の減少による統廃合でね。」


僕の中の可能性が揺らいだ。

彼女が住所を書き損じたとはいえ、本当の住所はこの周辺であるかもしれない。

彼女はこの学区内から、ここへ通っていたのではないか。

だとすると、なんらかの記録…文集のようなものがあってもよいのではないか。

自分でも、穴だらけの可能性だということは自覚している。だが、その可能性も否定されてしまった。

先ほどの黒板には、当時の日付が書かれていた。

「昭和○○年三月二十日」

廃校は昭和のことなのだ。僕や彼女は生まれてもいない。

この学校への関心が急速に遠のくと、自分がその場に立ち止まっていることに気がついた。

ここをあとにしたかったが、女性から訊かれることがあるんだった。

まあ、いいか、もう手掛かりはないのだし。



宿直室に案内された。宿直室は初めて見た。僕の母校には無かった。

部屋には、黄ばんだ畳に、テーブル、そして本棚があった。

女性は座布団を差し出すと、部屋の奥で湯を沸かし始めた。

座って、少し落ち着いてから、部屋を見まわすと、古い部屋ではあるが、とても清潔な印象を感じた。

本棚に目が行った。

立ち上がって見ると、卒業アルバムや、普通のアルバム、ノートや参考書があるくらいだ。

卒業アルバムは、年の順に並べられているが、歯抜けの状態だ。


「お茶でよろしいかしら」女性が言った。

「ありがとうございます」


また座り直して、湯呑みに触れると、すぐに熱さが伝わった。

口に含んで、喉を通すと、その熱さが落ちてゆくのを感じた。

女性から始まった。


「どうしてこちらへ?」

「あ…いえ、先ほどのはがきの友人の宛先へ行きたかったのですが、学校へ着いてしまい…どうも書き間違いのようで…。

 まあ、書き間違いにしても、もしかしたらここへ通っていたのかな…とも思ったのですけど、すでに廃校になっているのですよね。

 もし友人が在籍していたのであれば、文集かなにかを拝見したかったのですが…」

「そうですか…。すみません、先ほどのはがき、もう一度お見せ願えないでしょうか」

「はい、構いませんが…」


はがきを渡すと、女性は咀嚼(そしゃく)するように見つめていた。

少しの静けさの後、何か声に出したが、聞き取ることができなかった。

そして女性が口を開いた。表情はなぜか重い。


「あの、あなたにお見せするところがあります。来て頂けませんでしょうか」

「えっと、それは、友人に関係していることなのでしょうか」

「えぇ、まあ…」目を伏せていた。

「分かりました」


女性は、手元に鍵を用意すると、本棚の上のキーボックスを開けた。

その中から、二本の鍵を取り出すと、僕を案内した。宿直室の時計の音が耳についた。



女性のあとについて、三階へ行くと、部屋の前についた。

鍵を開けて、中に通されると、無数の本に迎えられた。図書室…。

廃校になってからだいぶ経つのに反し、埃っぽさを感じないのは、この女性のおかげだろうか。

ふと、目に入った本を一冊取ってみた。王様が主人公のよくある寓話だ。

裏の表紙をめくると、貸し出しカードがあって、この本を借りた生徒の名前が、ゴム印として読むことができた。少し悪寒を感じた。

以前は多くの子供達でにぎわっていたであろう図書室や教室も、廃校を最後に、まるで体温を失ってしまうのだ。女性に呼ばれた。本を戻すと、まだ少し悪寒を残したまま向かった。女性は、部屋の奥にいた。

目の前には扉。


「こちらです」


扉をもうひとつの鍵で開けた。中に通された。部屋に一歩入ると、次の一歩をためらった。

窓にはカーテンがかかっているが、薄手の生地で、日の光が透過する。

それでも、不安なほど薄暗く感じるのは、この部屋の様子のせいだろう。

窓際には、ベッドが置かれている。白い簡素なベッドだ。シーツは、しわもなく清潔に敷かれている。

そして、やはり「これら」が、不安を増長させる。全ての壁際に棚がすえられている。

棚には、なにかが隙間なく並べられている。これらは何だ。

近くの棚…それも自分の目の高さにある「それ」をひとつ手にしてみた。ノートだ。

ページをめくってみる。見た瞬間、僕の感覚が音もなく停止したのを感じた。この文章…彼女だ。

彼女がいる。遠く離れたこの場所で、彼女が元気でいる。

僕は彼女との再会をほとんど果たすことができたのだ。不安は拭い去られた。

彼女は、日記を書くことを趣味としているようだ。そして僕は、夢中でそれを読み込んでいった…。



年配の女性は、部屋の入口から、しばらく少年の様子を見ていた。

少年は時折、口元に手を当てたりしながら、日記の世界に没頭しているのが見てとれた。

が、ふと気付くと、いつしか表情が、徐々に変化しているように見えた。

表情からは、不安なのか疑問なのかは読み取れない。少なくとも、快い心情ではなさそうだ。

少年は、今読んだ日記を棚に収めると、他の段の日記を取っては、ざっとめくっていた。

それが済むと、また別の箇所の日記を取って、めくって…を数回繰り返していた。

何かを確認している様子だった。すると、少年は日記を持ったまま、こちらへゆっくりと向かってきた。



僕は、思いつくままに訊いた。


「この部屋の日記は、コトハという子が書いたものですよね」

「ええ。コトハが書いたものです…全て」

「すべ…?たったひとりの子がこんな量の日記を書くことができるのですか」

「ええ。コトハは、食事と睡眠以外の時間を、ほとんど書くことに費やしたので…。

 食事や睡眠も、極端に少なかったです…」


バッグから、あの日記を取り出した。


「唐突にすみません。この日記を少しご覧になって頂けませんか」


女性は驚きを隠せなかった。声にこそ出ていなかったが、一瞬、目が大きく見開いた。

その手で受け取ると、一ページ目を読み、少しページを飛ばして読み…を繰り返した。そして発した。


「この日記に出てくる男の子は、どなたなのでしょうか」

「これは僕です。彼女は僕とのことをよく日記に書いていました」


女性はひどく動揺した。続けて言う。


「ですが、この部屋の日記は不思議なのです。どれを読んでも、内容に、彼女の他に僕が書かれている…。彼女が引っ越してから、僕とは会っていないのに…。それに…」

「それに?」

「彼女が…知るはずのないことを知ってるんです…」

「どういうことです…?」

「僕のこと…学校でのことや、私生活のこと、想い、そういうのがみんな彼女と絡めて書かれているんです。それも思い当たるふしが多い…彼女の存在以外は…」

「そんなことって…」

「彼女に会うことはできますか?」

「コトハは、すでに亡くなっています…」

「亡…え?亡くなっている…?亡くなっている…」


唐突な事実にも関わらず、自然と受け入れていた。

彼女の日記を不思議だと言ったが、自分自身も大して変わらないのかもしれない。続けて言う。


「亡くなったのは、最近のことですか?」

「いいえ。もう五十年近くにはなります…」

「五十?…いや…それは人違いです。彼女は僕と同い年なのですから…」


そう言いながらも、自分でも自分を説得できずにいるのを感じる。

改めて本棚のノートを見ても、長年の時間による変色は明らかだ。

だが、その内容には、確かに僕とコトハの名前が書かれているのだ。彼女のことが、全く分からない。


ふと、顔を上げると、ベッドが目に入った。

ああ、そういえば僕の持ってきた日記にも、なにか書いてあったな…。いつのだったかな。

ページの当たりをつけて、パラパラとめくってみた。あった。

「七月十六日:にっきちょうの かくしばしょをみつけました。それは…」

まさかな…と思いながらも、確認せずにはいられなかった。ちょうど枕の位置のマットを持ち上げた。

それはあった。ノート…。また日記?表紙をめくると、日付はなく、ただ文章だけがあった。

僕はそれを、深く、深く、読みこんでいった。



部屋の向こうから、扉を叩く音がした。


「はーい」


ガチャリと入ってきたのは、大人の女性と、小学生ほどの女の子。


「コトハ、ご飯を持ってきたわ」

「ありがとう」

「日記は少しお休みなさい」

「うん」


少女はベッドの上で、ノートに向かっていた。

布団の上には、数冊の日記が散在し、脇の小さなテーブルには、鉛筆を削るナイフと、削り屑が。

少女の右手の側面は、鉛筆の文字を受けて、黒くなっている。

母は、おしぼりを差し出すと、少女は手を拭いた。

妹は、ベッドに乗って窓の外を見たり、それに飽きたら、部屋のノートに落書きしたりしていた。

顔を上げると、姉が食事をしているのを見つけた。


「私も食べたーい」

「だめよフミ、これはお姉ちゃんのご飯なんだから」と、優しく母が言った。

「いいよ、お母さん。フミ、お上がりなさい」


妹は、口元を緩めると、姉のベッドのテーブルに夢中で向かった。母は、丸椅子に腰かけた。


「食欲がないの?」

「うん」

「果物は食べられる?」

「うん」


りんごを用意すると、ナイフで剥き始めた。規則的な音が心地良い。


「コトハ」と母が声をかけた。

「え?」

「どうしても家には戻りたくない?」

「戻りたくないんじゃなくて、この書庫がいいの」

「そう…何度も訊いちゃったわよね」

「ううん…いいの。ここからの眺めが一番いいし、本もたくさんあるし」

「そう」

「まあ、もっとも、私に合う本は少ないんだけどね」


少女は、十八歳になろうとしていた。



「じゃあコトハ、お母さんたち帰るからね」

「お姉ちゃん、また明日来るね!」

「フミ、また明日ね」


お互い手を振ると、扉が静かに閉まった。少女は、ふたりのいた余韻に浸っていた。

少しのあと、また日記を書こうと、書きかけのノートに手を伸ばそうとしたが、やめた。

代わりに、新しいノートを出した。

表紙をめくると、鉛筆を持ったまま、白いページに目を落としていた。

少女は、静かに、心に思ったままを書き出した。


ユーちゃん

私から、あなたに向かって、こういう形で話すのは、初めてだと思います。

なので、ゆっくりと聞いてください。私は、来月で十八になります。

でも、もう長くは生きられないと思います。

あなたは忘れてしまったと思いますが、そちらから引っ越す前に発症した熱が、今でも私を侵食しているのです。

あの頃から、だいぶ経ちましたが、あなたと遊んだ日々を思い出すのは、決まって熱にうなされるときです。鮮明に焼き付けられたせいでしょうか。


さて、この部屋はご覧になりましたか。小学校の図書室の書庫です。そして私の部屋です。

私は、この小学校へ転校して、卒業しました。

卒業とともに、ここは廃校となり、生徒たちは去ってゆきました。

両親や妹には、わがままを言って、私だけがここに残ることを許してもらいました。

両親も(くち)には言いませんが、私の死期が遠くないことを感じているのかもしれません。


この部屋のノート…すなわち日記はご覧になりましたか。

あなたに差し上げた日記は、私の最初の日記です。

そこから書き続け、今では部屋を囲む本棚を埋めるほどにまで、増やすことができました。

今この話を書き終えれば、また書き始めます。

つまり、あなたが目にしている日記の全ては、私が生きている間に書き上げた全てということです。


そして、ここからが、私の最後のお話です。

すでに日記を読まれて、不思議に思われていることでしょう。

「なぜ、引っ越しの日のあとも、あなたのことが書かれているのか」

「なぜ、あなたしか知り得ないことが書かれているのか」

本当は、その答えをあなたには知ってほしくありません。

あなたには、普通の人として、生活をして、恋愛をして、生きてほしいのです。

その上で、私の手に持つ鉛筆を止めることをしないのは、私個人の問題です。

死期を前にした私は、私の中の事実を書き留めずにはいられないのです。

もし、あなたが、これより先の内容を知りたくないのであれば、どうぞノートを閉じてください。

もし、そうでないのであれば、次のページをご覧ください。



年配の女性は、少年を観察していた。

少年は、ノートを閉じると、またゆっくりとこちらへ向かってきた。

気のせいか、重心が定まっていないように感じる。

感情を押し殺そうとしているが、し切れていない表情が見て取れた。


「……」


何か声を発したように思えたが、聞き取りにくい。


「?」

「僕は…誰なんですか…」

「え…どういうことです?」

「僕は…生きてるんですか…生身の…人間なんですか…」

「しっかりなさってください」

「これ…」


少年は、ノートを差し出した。女性は、うながされるがままにページを開いた。



以下、少女の日記より。


私が今まで書いてきた日記は、正しくは日記ではありません。これらは、私の想像の出来事です。

あなたの日常や思い出は全て、私の空想の産物なのです。

つまり、それは、あなた自身も、私の作り出した空想なのです。

それを知ったあなたは、私をどう思われるか想像ができます。

私のような異常者とは、初めから関わりが無かったものとして処分するでしょう。それで結構です。

でも、ひとりぼっちの私には、あなたは唯一の友達でした。

私の中で、確かにあなたは、現実に存在していました。

私にとって、人間の存在価値は、真実であろうと嘘であろうと、さして大きな差ではないのかもしれません。


そして、これは、私からの願いです。私がこの世を去っても、あなたは生きてゆくことでしょう。

ただ、ただ、生きてください。私が書き切ることのできなかった日記の続きを、どうか生きてください。


コトハ



少年は、あの黒板の前にいた。書庫からここまで歩いてきた記憶がない。

不思議だ。自分の鼓動や息づかい、体温まで感じているのに、存在していない。

手首を切れば、血が噴き出すのだろうか。当然だ。嘘の中の現実なのだから。

彼女に日記を返しに来ただけなのに…。そして彼女のことを知りたいと思っただけなのに…。


教室の扉が開いた。女性が入ってきた。

女性は、何と声をかけたら良いのか分からないような表情をした。


「ユージさん…」


少年は、顔を向けるだけで、返事はできなかった。この女性は存在しているのか、していないのか…。


「この黒板の寄せ書き…実は、コトハの書いたものもあるのです」


少年は、反応を示さなかった。


「この学校が廃校になってから六年後、病弱な彼女は、この教室で、自分の言葉を加えたのです」


女性は続ける。


「ご覧になって頂けませんか。これです」


少年は僅かだが、女性の右手の指し示す方へ目を送った。

その字は、他の生徒の字よりも小さく、筆圧も弱々しい。その文を読むと、少年は小さく息を吐いた。

そして、黒板消しを手に取ると、消した。自分でも理由は分からない。

女性は驚いたが、受け入れた。少年は、静かに頭を下げると玄関…出口へ向かった。

女性は、少年の背中に声をかけた。


「今日のことは忘れてください。でもコトハのことは忘れないで」


少年が聞き入れたか分からない。

けれど、黒板消しで消したということは、それがコトハの言葉への回答なのかもしれない。



四十九年前。最晩年。

少女は、母と妹に付き添われて、黒板の前にいた。

それはとてもにぎやかで、色にあふれていて、少女には眩しかった。

廃校となったこの広い建物の中で、ここだけが光を放っていた。少女は、黒板の中に空白を探した。

白のチョークを手に取ると、白い手で書いた。


「ユージ君 友達でいてくれてありがとう。ここからは、ひとりで歩いてください」


少女は、年齢に合わない幼い笑みを浮かべた。


現在。

少年は、外へ出ると少し苦い笑みを浮かべた。コトハは、たぶん僕が字を消すのを分かっていた。

昔の彼女にも、そういう確信犯的なことがあった気がする。ほら、八月二十九日の日記のときだって―。

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