夏の夜はお祭り騒ぎを(1)
空の色が晴れやかな青から橙へ、そして薄紫から紺へと変わりつつある時間。結衣は家から少し離れたところにあるポストの前で立ち尽くしていた。
そろそろ五分が経とうとしているが、まだそこから動くことはできない。なぜなら、その右手にはまだポストに投函されていない手紙が握られているからだ。
「あ~……」
人気がほぼないのを良いことに、〈理想の女の子〉という仮面を捨てて低い声が出る。
タイムリミットは迫っている。今日の服装は数日前に晃臣から貰った彼手作りの自信作である水色のワンピースだ。足元には白のミュールにバッグはかご編みの夏仕様の物。髪は不器用ながらも雑誌を見て簡単にまとめ、これまた晃臣が作ってくれたヘアゴムを使っている。
「……もうそろそろ行かないとな」
このあと、クラスメイトと待ち合わせしているのだ。例の夏祭り当日。ちょうど出かけるついでに、昨日一週間かかってようやく書き上げることのできた手紙を出そうと思っていたのだが、いざとなるとなぜか踏ん切りがつかなった。
宛先は中高と仲の良かった友人。
元気にしているか。こちらは元気だ。周りにも親切で良い人たちがいる。そんな当たり障りないことだけを書いた簡素な手紙。暑中見舞いでも残暑見舞いでもない普通のそれを、なぜかポストに入れることができない。
「返事……くるかのかな……」
それが結衣は一番不安だった。
相手は決して礼儀を欠くような人ではない。むしろ結衣よりもはるかに礼儀や礼節を知っており、当たり前のように行える少女だった。
それでも、結衣が転校するはめになったあの一件を思えば、彼女はもう結衣と連絡を取りたくないのではないかと思ってしまうのだ。
だから電話もメールもできなかった。話したくないと言われるのも怖いし、いつまでたっても返事の来ないスマホを傍に置き続けるのも辛い。
ならば手紙を、と可愛らしい花柄があしらわれたレターセットを購入したが、次は何を書けば良いのか分からなくなり、連日白紙の便箋を前に唸りどおしだった。
そして今。
手紙なら直接避けられる場面を体験するわけではない。いつまでも手元に送った文章が残るわけでもなく、そわそわしながらスマホを確かめ続けないくても良い。
しかし、いざ、となるとやはり出そうかどうか迷う。
「本当にちゃん届くのか? 見られることなく破かれたりしたら……。いやでもそれはあいつの勝手だし、読めよと強制できるもんでもねぇし、返事書くのだってあいつの勝手で……」
ブツブツと答えのないことを呟きながら手紙を投函口に触れさせる。あと少し。あと少しこれを押せばもう結衣には取り出すことはできない。
「雨宮さん、何してるの?」
「うわあ!!」
「え、何!?」
突然ポンと肩を叩かれ、気配に気づかなかった結衣は大げさに驚いた。相手も予想外の反応に驚いたのか過ぎに手を放してくれる。
その拍子に、コトンという軽い音が響いた。
「あ……」
気がつけば右手にあったはずの手紙がない。辺りを見回すが道路にも落ちていない。出すかどうか迷っていた結衣の葛藤は、肩を叩いた相手――須田晃臣によって粉砕された。
「えっと、ごめんなさい。何かタイミング悪かったかしら?」
「いや、むしろナイスタイミングだ。ありがとな、須田さん」
少し疲れたものの、妙にすっきりとした気分だった。これ以上悩んでいても、きっと結衣だけでは結論は出なかっただろう。むしろあのタイミングで彼が来てくれたのは背中を押してもらったようなものだ。
まだオロオロしている晃臣に、結衣はニカッと笑顔を向けた。
「前の学校の友達に手紙を書いたんだ。ちょうど入れようとしてた時に肩を叩かれたからちょっと驚いたんだよ。それだけ」
「……そう? それなら良いんだけど」
結衣の様子がいつもとわずかに違うことに彼は気づいたかもしれない。だがグイグイ突っ込んでくる性格でもないからか、少し困ったような笑みを浮かべて結衣を見てきた。
「良かった。不安だったんだけど、そのワンピース雨宮さんに似合ってるわ! 髪型も可愛いわね。それもわたしのあげたやつ使ってくれてるのね~。あ、これじゃあ自画自賛かしら?」
「そんなことねぇよ。お父さんも『すごく似合ってる』って絶賛してたしな」
「ほんと!? 雨宮さんを育てたおじさんに褒められたのなら自身も持って良いわね。ちなみに瞬君からの感想はどうだったかしら?」
「『オカマの作った服なんか着てんじゃねぇよ、バカ姉貴!』だったな。もちろん殴っておいたぞ」
「相変わらず可愛いわね~」
「可愛くないって。でも似合うかどうか聞いたら『……誰が言うか!!』って小物な台詞を吐いて逃亡したから、似合ってるってことだと思うぞ」
「あらあら、やっぱり可愛いわよ、瞬君!」
あの生意気な弟を晃臣はよく『可愛い』と評している。いったいどこをどう見てそう言うのか一度きっちりとご教授願いたいと思う。これが男と女の、いや、オネエと女の感覚の違いだろうか。それとも――。
「まさかとは思うが、須田さん年下が好みか?」
彼のタイプは同じ弓道部の大熊のように男らしいものだと思っていたが、実は瞬のような年下が良いのだろうか。それならばせめて犯罪にならない年齢まで待ってほしいと思う。
「何か怖い想像してない? 言っておくけれど瞬君をそういう目で見ることは一生ないからね!! 手をボキボキ鳴らしながら笑顔で言わなくもあり得ないことだからね!!」
「そうか。やっぱそうだと思ったよ」
「ほんとに!? ほんとに分かってくれてる!?」
晃臣に喧嘩で勝てるとは思っていないが、どうやら女性には甘いようなので隙をついて顎に決めれば何とかなると思っていたのは内緒にしておこう。
やはり彼の好みは大熊のような男なのだろう。
納得して頷きながら、そろそろ行こうか、と二人肩を並べて歩き出す。神社はここから十五分ほど歩いた場所にあるらしい。
「今年は無理だったけど、来年は浴衣に挑戦してみたいわ。母さんは和裁もできるし、教えてもらわないと。雨宮さんは浴衣持ってる?」
「いや、幼稚園の頃に買ってもらった小さいのがあるだけだな。着方も分かんねぇし」
あれはまだ母が生きている頃だった。金魚の描かれた赤い浴衣を着て母と手を繋ぎ、まだ上手く歩けなかった瞬を父親が抱っこして夏祭りに行った。
それほど鮮明に覚えているわけではないが、あれが母と行った最後の夏祭りだ。
以来、家族とも友達とも祭りに行く機会はあったが、忙しい父を見て新しい浴衣を欲しいとは思わなかったし、着方も分からなかったので袖を通したことはない。
「作ったら着てくれる?」
「そりゃもちろん着るけど、大変だろ。浴衣なんて。私に協力してくれるのは嬉しいけど、別に須田さんに無理をさせたいわけじゃないんだ」
出会ってからすでにヘアゴム、トップス、エプロン、そしてワンピースと立て続けに彼は結衣のために何かを作ってくれている。
転校してきてからまだ三か月も経っていないのだ。学業も部活もあるのに、彼に無理をさせているのではないかと最近不安になってきた。
「無理なんてしてないわよ。むしろ好きなことができて、それを目の前で着てくれる人がいるなんて思わなかったから、とっても幸せなの」
「でもなぁ……」
晃臣の頑張りに対して結衣が返しているものがとても少ない気がするのだ。それもまた彼への罪悪感を募らせる。
「……なら私のリクエストも聞いてくれる?」
「そりゃかまわないけど。何かして欲しいことがあるのか?」
「お弁当」
「それは前もやったじゃないか」
「あれは試合の時の差し入れでしょ? そうじゃなくて、学校が始まったら週に一、二回。雨宮さんのお弁当をもらうってどうかしら?」
晃臣の提案に結衣威は目を丸くした。今まで部活時にお菓子を差し入れたことは何回もあるが、定期的に弁当を渡したことはない。
「いや、でも雪ちゃんが嫌がるんじゃないか?」
「そんなことないわよ。母さんも雨宮さんの料理好きだし、何よりいつもお弁当っていっても買ってきたものや、姐さんが作ったものを詰めてるだけよ。それも無かったら学食か購買だしね」
昼に弁当を持ってきている時もあればパンをかじっている時もあるな、とは思っていたが、雪子は本当に料理が苦手らしい。
「正直、私も育ち盛りだからもうちょっと栄養面考えたご飯欲しいのよね」
「……そういうことなら、ついでだし毎日作るぞ」
自分の分と瞬の分。それに晃臣の分を増やすだけなのでそれほど手間がかかるわけではない。多少材料費は出してもらわないといけないだろうが、結衣にしてみればずいぶんと簡単なリクエストだった。
「さすがに毎日っていうのは図々しいわよ。一回か二回で良いわ」
「じゃあ三回だな」
「いや、一回か二回……」
「三回。月水金の三回。そうじゃなきゃ浴衣は着ない」
彼が結衣にしてくれていることはそれ以上の価値がある。毎日と言って『そんなに迷惑はかけられないから、やっぱりなし』と言われても困るので、妥協案を出せば晃臣は苦笑しながらも頷いてくれた。
「雨宮さんも頑固よね~」
「ふんっ、真面目って言え。お礼はちゃんとするもんだ。私は須田さんと対等な協力関係でいたいんだからな」
「分かってるわ。じゃあ気合を入れて来年は浴衣作るわね」
「ほんとに無理はすんなよ!」
「はいはい」
本当に分かっているんだろうかと思いながらも、神社が見えてきたため結衣と晃臣は〈須田君〉と〈理想の女の子〉になる。
先に来ていた吉川達に手を振り、駆け寄る。
これからが祭りの始まりだ。
※※ ※ ※ ※
近所のお祭りだからとあまり大きくないものを想像していた結衣は、神社の佇まいやその賑やかしさに驚いた。鳥居も大きくしっかりしたもので、石段は三十段ほど。登ってみれば幅もそれなりに広く長い参道があり、境内も下から見ていると分からないがかなりの規模があるようだった。
今日はその参道にたくさんの屋台がひしめいており、老若男女の楽しげな声と、香ばしく良い匂いが結衣たちの方まで届いてきている。
「雨宮さん、驚いたでしょ?」
「うん。私の知ってるお祭りって、もっと小さい感じだったから。とういうか、近所にこんな大きな神社があるのも知らなかったし……」
吉川の質問に素直に答えると、彼女はしてやったりという表情で笑った。
「別に有名な神社ってわけじゃないんだよね。一応本祭神は須佐之男命なんだけど、神社の名前の由来はこの辺りに伝わる昔話に出てくる神様なんだって」
「土地神様ってやつじゃなかったっけか。幼稚園の時に紙芝居とか見た気がする。『蘇芳様と菖蒲様』」
「あ~、あったあった。この辺り出身だと一回は聞くんじゃねぇの?」
岡田が思い出しながら言うと、他のクラスメイトも次々に手を上げて頷いている。ちらりと晃臣も見れば、彼も『そういえばそんな昔話あったね』と言っているから、この地区ではポピュラーな話なのだろう。
「蘇芳様、と……菖蒲様? どんな話なの?」
当然、他県から引っ越してきた結衣が知るはずもなく聞けば、吉川が記憶を手繰り寄せながら話してくれた。
「えっとね、昔この地域には悪い鬼がいて、住んでる人を苦しめてたんだって。病気が流行ったり、女の人や子供を生贄に差し出せーって言って脅したり」
それはよくある昔話のようだった。
飢饉や疫病を鬼の仕業や誰かの祟りと恐れられることがある。そしてそこから救われるために神仏にすがって助けられるというのが結衣の知っているパターンだ。
「それで、村人がもうダメだって思っているところに、天界から来てくれたのが菖蒲様っていう女神さまだったの」
「うん? あれ、蘇芳様が助けてくれるんじゃないの?」
「なんでか知らないけど最初に出てくるのは菖蒲様なんだよ。心優しい女神さまっていう方が受けが良かったんじゃね?」
「誰の受けよ、誰の」
スパンッと小気味よい音と共に吉川が岡田の頭を叩いた。二人は高校で初めて出会ったらしいが、お互いが男子と女子を自然とまとめるムードメーカーだから気が合うようだった。
「まあ良いや。その菖蒲様が村人の手当てをしてくれたり、奇跡を起こして枯れた土地を直してくれたりするのよ。で、その力に目をつけた鬼が菖蒲様を攫おうと襲いかかってくるわけ」
「そこで蘇芳様が登場だ!」
「いきなりだね!?」
「えっと、なんでだっけ? 兄妹だったからだっけ?」
「蘇芳様が菖蒲様の恋人だったからでしょ?」
「夫婦じゃなかった?」
「あれ? 俺は二人で一対の神様だからって聞いた気がするんだけど」
「なんだか仁王像みたいだね」
晃臣も首をかしげて答えた。どうやらこの辺りは話を聞いた場所によってまちまちなようだ。それもまた昔話にはよくあることだろう。
「とにかく、蘇芳様が怒って鬼を退治しちゃうんだよね」
「それなら最初から蘇芳様が来た方が良かったんじゃない?」
「そう言われればそうだね。でもなんていうのかな? 蘇芳様は勝負様の部下? みたいな感じだったんじゃないかな? だから、ここから離れたところに菖蒲神社もあるんだけど、その神社を中心に見るとここって北東の方角になるんだよね」
「北東…………あ、鬼門?」
ちょうど一学期に古典の時間に習ったことだった。北東――丑寅の方角。またの名を鬼門。京の都でも鬼や妖怪たちが入ってくる玄関口とされた方角だ。
「そうそう、それそれ。祀られた菖蒲様を守るために蘇芳様はここに社を建てるように言った、とかいう話だったかな?」
「戦う神様だからか、戦勝祈願からの学業とか、健康長寿とかの神様なんだっけ?」
「そうだったと思う。で、菖蒲様は五穀豊穣とか病気平癒。あとなんでか知らないけど家内安全と子宝だったかな?」
それぞれが思い出しながらできる限りのことを教えてくれる。祭りの雰囲気につられてすぐに屋台に突撃かと思っていたが、やはり他所から来た結衣を気遣ってくれているのだろう。
そういう小さな気遣いが、とても嬉しい。良いクラスメイトだな、と心から思う。
「そういえばなんで蘇芳様と菖蒲様っていうの? 神様らしくない名前だよね」
「なんでだっけ?」
「えっ~と、確か髪の色と服だったかな? 蘇芳様は髪が赤で服が黒。蘇芳色ってちょっと黒っぽい赤のことなんだって」
「菖蒲様はそのままだよね。薄紫色を菖蒲色って昔の日本では言ったんだってさ」
なるほど、と結衣が頷けば、なぜか吉川は『うふふ』と含み笑いをしながら指を立てた。その顔がとてもウキウキしているようだったので、結衣も『どうしたの?』と問いかける。
「こっからが大事なんだよね。蘇芳様も菖蒲様も単体ではさっき言ったようなことに御利益があるらしいんだけど、なんと二人一つで司ってるものがあるんだよ!」
「二人で一つ?」
いったい何のことか分からず先を促すと、吉川を含めクラスの女子が声をそろえてそのご利益を教えてくれた。
「「「縁結び!!」」」
「あ~…………。え!! そうなんだ! 二人で一つってことはお守りを二つ持つのかな!?」
なるほど、と納得しそのまま流そうとした結衣は慌てて食いつくように言った。
女子高生の生活において恋バナに繋がる縁結びは乗っておくべき話題である。本音を言えば学業と家内安全の方に興味が引かれている結衣だが、ここは話を合わせなくてはならない。
「もちろん一つのお守りを持つのでも良いんだけど、男の人に蘇芳神社のお守りを、女の人が菖蒲神社のお守りを持つとずっと一緒にいられるとか」
「菖蒲神社で買ったお守りを一年間大事にして、蘇芳神社に返すと好きな人と結ばれるとか!」
「その逆もあるんだよ!」
キャラキャラと楽しげに笑う女子たちに、結衣も『良いなぁ、お守り買おうかな~』と混ざってみる。横目で晃臣を見れば『ロマンチックだよね~』と言っていることから場所を代わってほしいと思った。
別に恋に興味がないわけではないが、今のところ積極的に参加したいとも思わないのだ。どこかで縁があれば良いなとは思うが、この性格で出会っても今は苦労するだけだし、と結衣は冷静に考えている。
「お~い、そろそろ行こうぜ! 俺腹減ってきた」
「焼きそば~、たこ焼き~」
「一銭洋食出てねぇかな? あとリンゴ飴とかき氷!」
「良いね。俺もたこ焼きは食べたいな」
さすがにこういった話になると食い気が勝つようで、男子が急かしてくる。晃臣も同意したからか、女子は即座に頷いた。
「もう、男子は食い意地はってるんだから!」
「まあまあ、私もお腹すいたし、そろそろ行こう」
「そうだね。可愛い飴細工のお店もあるんだ。雨宮さんも気に入ってくれると良いな!」
「うん!」
吉川達クラスメイトに囲まれつつ、結衣は祭りの喧騒に飛び込んでいった。