彼女のポンコツ事情
テスト前の課題として出された日本史の小レポート。テストの点を補うと事前に言われていたものだからか、パッと見た感じクラス全員がきっちり書いているようだった。
本来はクラス委員が集めるように言われていたのだが、直前に別の教師に用事を言われた晃臣に代わり結衣は資料室へ来ていた。ここが日本史担当であり、結衣たちの担任でもある宇喜多の根城のようだ。
「失礼します」
明日からついに期末テストに入る。さっさと帰って勉強をしようと思っていた結衣は、宇喜多がいなくてもレポートだけ置いて帰ろうとドアを開けた。
その瞬間、ムッと鼻につく空気が漏れ出てくる。
(うわっ、クッさ!!)
あまりの空気の悪さにドアの前でついつい顔を歪めた結衣。そんな彼女に気づいたのか、奥の椅子に座っていた宇喜多が振り返った。
「おう、雨宮か」
相変わらずやる気がないというか眠そうというか、判別のつかない気だるげな態度な彼の口には臭いの元、タバコが咥えられていた。
結衣はしかめた顔のままドアを閉めると、つかつかと彼の元まで歩いて行きタバコを口から奪い取って灰皿へと押しつけた。そして、勢いよくカーテンと窓を全開にする。
「先生、校内禁煙です! ていうか吸い過ぎでしょ、この山!」
窓から爽やかな風が吹き込み、少し部屋のよどんだ空気が浄化された気がした。机の上にある灰皿にはすでに山となった吸殻が鎮座している。
ギロッと睨みを利かせれば、宇喜多は悪びれた様子もなく頭を掻いている。
ちゃんとした年齢を聞いたことはないが、おそらく三十前後といったところだろう。髪は無造作に伸びた感じだが、決して不潔というわけではなく全体的にはきっちり教育者としての標準を保っている。ただどこまでもやる気がなさそうな表情だけはいただけない。
(顔はそれなりに整ってるのにな……)
晃臣と比べてイケメンというわけではないが、顔だちが悪いわけでもない。もう少し表情や雰囲気を明るくすれば人気教師になるんじゃないかと結衣は思った。
「ちゃんと喫煙場所があるんだから、そこに行けば良いじゃないですか」
「あんなとこ行ったら他の教師もいるだろ。やりたくもない談笑を無理やりするより一人でのんびりしたいんだよ」
「教師にも付き合いがあるんじゃ……」
「安心しろ。職員室じゃまともな教師として通ってる」
差し出された手にレポートを乗せれば、ペラペラと流し見する宇喜多。確かに彼の添削や教え方はとても上手いと思う。歴史の授業は聞いているだけの部分も多くつい睡魔が襲ってくるものなのだが、宇喜多の授業は緩急がついているのか話し方が上手いのかつまらないということはない。
「職員室ではものすごく明るかったりするんですか?」
「いや。ただ真面目に受け答えして模範的な指導をしているように見せてるし、上に逆らうこともなければどっかの派閥に従ってるわけでもないだけだ。だから……お前は俺のクラスになった」
「!?」
「お役所仕事で命令されれば従う。厄介事が起こっても派閥に属してないから対立することもなく切り捨てられる。面倒事を押しつけるのに俺は良いポジションってことだ」
レポートの束を机に置いて、宇喜多は変わらない表情のまま結衣を見上げてきた。
ごくりと唾を飲み込む音が妙に響いて、ギシギシと固まったまま彼を見つめる。
「転校手続きの際、前の学校からの申し送りにお前のことも転校理由も書いてあった。知ってんのは俺と、俺を担任に指名した校長と教頭ぐらいだけどな」
「そう、ですか……」
言われてみれば当たり前だ。結衣は前の学校で問題行動を起こしている。いや、その問題も本来なら学校内で友人同士の喧嘩として片づけられたかもしれないのだが、相手が相手だっただけに事は大きくなった。
公になっているわけではないけれど、問題児として転校先に情報が回されていても不思議ではない。
「しっかし、県議会議員の息子をボッコボコとは……。やるね、お前」
「褒めてますか? 呆れてますか?」
「爆笑しそうなのを耐えてる」
大きなあくびと一緒に言われても説得力はないと思う。
結衣は一つ大きな溜息をついた。
「ボコッた理由は最後まで言わなかったみたいだが、転校までしたんだから相当な怪我を負わせたんだろ?」
「頬に渾身のグーパン決めて、英和辞典のフルスイングで思い切り横っ面殴っただけです」
すでに本性も転校理由も知られているのなら猫を被る必要はない。結衣は隠すことなく宇喜多に告げた。
「それでよくマスコミ沙汰にならなかったな……」
「あっちだって馬鹿じゃないですから。穏便にすませたい事情もあったんでしょ」
「その穏便な方法が一家総出で違う県に追い出すってか?」
「私も二度と顔合わせたくなかったし、ちょうど良かったですけどね」
家族には申し訳ないと思っている。だが、瞬は家まで土下座を要求しに来たあの男にたまたま出会った時、バットを振り上げて追い返してくれた。
県庁に勤めていた父は何も言わなかったけれど、新しい家を紹介してくれた父の同僚は『例の議員が乗り込んできた時、お父さん笑顔で辞表叩きつけてたよ』と教えてくれた。
馬鹿な娘の仕出かしたことを『やり過ぎだ』と笑いながら言っても、二人とも結衣を責めたりはしなかった。それがどれだけ嬉しかったか。
だからこそ、結衣はもう二度と家族に迷惑をかけたくないと思っている。
「じゃあ、私は学校から問題児として警戒されてるってことですか……」
「いんや。警戒というよりは『問題起こすなよ~』と祈ってる感じだな。あと転校の挨拶に来たお前が予想と違い過ぎてキョドッてた」
「あ~……」
「どんなガラの悪い不良少女が来るかと思えば、クラスで人気になりそうな美少女転校生だったからな」
転校したら今度こそは失敗しない、と心に決めていた結衣。誰も自分を知らないのだからと転校の挨拶にも当然、自分が作り上げた〈理想の女の子〉でやって来た。
父は『結衣は礼儀正しいんだから、そこまで作らなくて良いよ』と言ってくれていたが、父と瞬のためにも結衣は演じることを止めようとは思わなかった。
しかし挨拶された校長や教頭は結衣が何をしたか知っていたわけで。
(不良娘との対面に気合入れてたのに普通の女の子が笑顔で来たら、そりゃキョドるよな)
肩透かしを食らったのもあるだろうし、もしかしたら『こいつ何企んでやがる』と言い知れぬ恐怖を抱いたかもしれない。
結衣にそんなつもりはなかったが、校長たちが胃薬でも飲んでいたら謝ろうと思った。
「ま、俺としてはお前の性格がどんなでも在学中に問題起こさなきゃそれで良い」
「すっごい投げやりですね。教師としてそれで良いんですか?」
胡乱気な目で宇喜多を見やると、彼は肩を竦めながら背もたれに体重をかけた。
「生徒の自主性に期待してんだ。あと、お前は俺が何言ったところでそう簡単に意見を変えてくれそうにないしな」
よく見てるな、と少し驚いた。
確かに結衣は、あの事件で奮った暴力が世間的に間違いであったとしても、それに一ミリの後悔もしていない。
「それに、うちには須田がいるから大丈夫だと思ってる」
宇喜多の口から出てきた名前に結衣はドキリとした。
「え……な、なんで?」
「なんでって、お前、ああいう人の良さそうな奴ほっとけないタイプだろ」
「あ……あ~、ああ。そういうことか……」
「…………他に何かあるのか?」
「い、いや! 別に何もないですよ!」
「ほ~お……」
もしや結衣と晃臣の協力関係を知っているのでは、と一瞬思った。しかし、それを知っているということは晃臣の素も宇喜多は知っているということだ。
(バレてるわけないか、学校の須田さんは完璧だもんな。王子オーラ全開だし……)
先程とは逆で訝しむ目で見てくる宇喜多に苦笑いを返しつつ、結衣は晃臣を思い浮かべた。接しているのが多いのは学校にいる時の〈須田君〉だが、すでに彼を思い出す時に出てくるのはオネェ口調の〈須田さん〉だ。
『雨宮さん、雨宮さん!』と嬉しそうに自分で作った作品を見せてくる姿はさながら忠犬のようで、最近では可愛いと思ってしまう時も多い。そして結衣はそんな自分にあとで愕然とするのだけれど。
「確かに、須田さ……須田君は良い人ですから、迷惑かけ無いようにとは思ってます」
「だろ? ま、だからあいつをお目付け役にしとけばあまり無茶はしないと踏んでるんでな。仲良くやってくれ」
言いながら宇喜多は新しい煙草を取り出そうとする。結衣は素早く彼の手から取り上げた。右手にライターを持ったまま、空になった左手を見つめる宇喜多。
「…………雨宮」
「校内禁煙です」
「…………」
「…………」
しばしの睨み合い。結衣は奪い取ったタバコ片手ににっこり美少女転校生の笑顔をしてやった。さらに持っていた飴玉を差し出す。
諦めたのか面倒臭くなったのか、彼はライターを手放して飴を受け取った。
「分かった分かった。吸わんから返せ、お前がそれ持って行って見つかる方がマズイ」
「たまに確かめに来ますからね。健康にも悪いし、臭い」
「最後のが本音だろ。ここでは吸わん、と約束しとく」
「……まあ、良いでしょう。では失礼します」
結衣は煙草をレポートの上に置き、軽くお辞儀してドアへと向かう。
「雨宮」
「はい?」
呼びかけに振り向くと、彼は飴を口に放り込みながらやはり眠そうな目でこちらを見ていた。
「ここはほとんど俺しか使わんが、資料は面白いものが多いと自負してる」
「はあ……」
「日本史に興味あるなら使って良い。使う時は鍵取りに来いよ」
プラプラと鍵を示されしばらく首を傾げていた結衣は、ニッと笑った宇喜多の顔にようやく察した。
やはり彼はやる気はなさそうに見えるが良い先生のようだ。
「了解です。疲れた時にでも利用します」
「おお、猫は被り続けると暑いからな。頑張れよ~」
ひらひら手を振って見送ってくれる宇喜多に、今度はしっかりお辞儀して部屋を出る。明日からテストという重い行事はあるが、結衣の足取りは少し軽くなっていた。
隠している真実を知っている人間がいた。けれど彼は敵ではなく、演じることに疲れた時の避難場所として資料室を提供してくれると言った。
「ま、本当に面倒臭いだけかもしれないけどな……」
鬱憤が溜まって爆発する前に休んで問題を起こすなということだろうが、それでも気にしてくれる人がいるというのは嬉しいものだ。
「あ、雨宮さん!」
にやける口元をこすりつつ歩いていると、ちょうど階段を上がってきた晃臣とはち会った。彼は人目がないからか、やっぱり忠犬を思わせる様子で近寄ってくる。
「ごめんなさいねプリント任せちゃって。ほんともう行ってみたらどうでも良い用事で呼ばれちゃったの……」
「わぁぁぁぁぁ!!」
「むぐ! もがもがっ!」
いつも通りオネェ口調で話しかけてきた晃臣の口を塞ぎ、慌てて階段の方へと押し戻す。しかし武道をやっているせいか押さえた手も簡単に外された。
「ちょ、何!?」
「静かに! 資料室まだ近いんだ、バレたらどうする!」
指を立てて小声で言えば、彼はひょこりと資料室の方を覗き見た。
「ドア閉まってるわよ。それに宇喜多先生でしょ? いつも面倒臭そうにしてるし、これぐらいでは気づかれないと思うけど……」
「いや、あれは私らと同じだと思うぞ。たぶん察しも良いし、生徒もよく見てる。あと担任だから私の事情も知ってたしな……。傍にいたら須田さんも目につくだろうから気をつけた方が良い」
「……? 雨宮さんの事情?」
「っ! ああ、ほら……え~っと……」
晃臣の疑問に目が泳いだ。
彼は結衣の本性を知っていても、結衣がどういった理由で転校してきたのかは知らない。話しても晃臣なら変わらないと思うのだが、やはりそう簡単に口に出せる内容でもなかった。
言い淀んでいる結衣の葛藤に気づいたのか、晃臣はポンポンと頭を軽く叩いた。顔を上げれば、『気にするな』とでも言いたげに優しく笑っている。
「帰りましょうか。明日からのテスト勉強もしないといけないし」
「うん……」
歩き出した晃臣の背を見ながら、結衣は気づかれないように小さく息を吐き出した。
彼のことは信用している。お互いに素を知っていて、結衣がどういう人間か知っても彼は離れたり嫌悪したりはしなかった。学校でのフォローだって、いつもきっちりしてくれている。
だから話しても大丈夫なのだと思う。思うけれど――
(怖い、なんて似合わねぇよな……)
話したあと晃臣の態度が変わることが、今までのように話せなくなるかもしれないことが怖い。
あの事件で自分のとった行動に後悔はしていないし、周りから白い目で見られようが構わないと思っていたけれど、晃臣に対しては少し違う自分の感情に結衣は戸惑っていた。
「あのさ……」
「ん?」
立ち止まった結衣に合わせ、晃臣も振り返った。
怖いけれど。
「いつかは、ちゃんと話す……」
晃臣が結衣に向けてくれる信頼にも気づいているから。今はまだ無理でも、いつかはそれに応えたいと思った。
「もう、ほんと良い子ね。雨宮さんは」
「おい、撫でんな」
「可愛いものは愛でるのが基本だもの」
「可愛くない! 目が腐ってるぞ須田さん!」
「腐ってないわよ! 両目とも2.0よ!」
他愛ないやり取り。けれどそれが演じるものでなく素で出来る気安さと安心感に、結衣は晃臣に見えないように笑った。