第一話 暑くてつらいよ⑪
砂嵐の夜が過ぎた。
カルナードの街を遠く離れた赤い渓谷の上――
漆黒の翼が、静かに降り立つ。
岩肌に爪を立て、男は月を見上げていた。
ベルゼ。その口元には、あの夜と同じ、不敵な笑みが浮かんでいる。
「……まさか、“あの人間”がここまでやるとはな」
風が吹く。
白砂を含んだ風が彼の頬をかすめたが、その瞳の熱は冷めることがなかった。
リーネの首飾りが砕けた瞬間――
ベルゼは確かに見たのだ。
あの光の柱の中にあった、**“人間の意志”**というものを。
それは呪具にも、魔にも届かぬ、得体の知れぬ力だった。
「守る力、か……。あれが本当に“勇者”という存在なのか」
彼は低く笑う。
笑いながら、掌に赤黒い魔石を取り出した。
リーネが破壊した首飾りの“核”――魔王直属の術式片である。
その石に刻まれた紋章が、うっすらと光を放つ。
まるで、主の声に呼応するかのように。
ベルゼは片膝をつき、頭を垂れた。
「魔王陛下――報告を。
呪具《惑乱の瞳》は喪失。だが、適性者の反応は確認済み。
人間の勇者、名を“トラジロウ”。あの男の力、ただの偶然ではありません」
沈黙。
渓谷の空気そのものが、わずかに震えた。
やがて――
声がした。
深く、重く、まるで地の底から響くような声。
「……面白い」
それは、人間の言葉ではなかった。
だが、確かに“理解できてしまう”恐怖を含んでいた。
「止められるかな? 我が野望を」
低い笑いが渓谷に反響する。
岩壁が震え、砂が滝のように崩れ落ちた。
「次の実験地を定めよ。――帝国だ。
あの地の“血”は、もっとも濃く、もっとも乱れる」
「御意……陛下」
ベルゼが立ち上がると、風が再び吹いた。
砂漠の乾いた風ではない。
鉄と硫黄の匂い――戦の気配を孕んだ風だった。
ベルゼの翼が広がる。
その眼差しは、すでに遠い東――鉄壁の軍事国家・帝国を見据えている。
「勇者トラジロウ。次は、“戦場”で会おう」
黒い羽根が散り、夜の闇に溶けた。
残された渓谷には、赤く光る魔石だけが転がっていた。
――そして、遠くカルナードでは。
リーネが小さな舞台で、静かに踊り始めていた。
それは贖いでも、呪いでもなく。
ただ“生きる”ための舞だった。




