第一話 暑くてつらいよ⑧
夜――満月が異様に大きく、鋭く空を裂いていた。
王都カルナードは、今宵“何か”を迎える用意をしているようだった。街灯は消され、王都一の広場にはいつの間にか人々が集められている。誰が指示したのか、誰もが無言で立っていた。
ステージにはリーネがいた。白い布の裾が月光を受けて揺れる。だが、その表情は昼の儚さとは打って変わって、研ぎ澄まされた刃のようだった。
「――もう終わりにしよう」
彼女の声は静かで、しかし強く、広場の空気をすり抜けて人々の心を掴んだ。
数日前まで笑いを振りまいていた客たちが、ゆっくりと互いを見やる。次の瞬間、ある者が叫んだ。叫びは火花のように広がり、理性の糸が次々と切れていく。
「ここまでか……人間どもめ!」
「やめろ! 何をするんだ!」
だがその“やめろ”はもはや誰にも届かない。リーネは首飾りを胸で押し上げ、満月の光をその身に浴びながら、踊った。踊るたびに彼女の足元から薄い波紋が走り、集まった群衆の怒りが大きく膨らんでいった。宝飾が瞬くたび、人々の瞳が光を失い、表情が歪んでいく。
その光景を見て、寅二郎は叫んだ。
「リーネ! やめろ、お願いだから!」いつの間に現れたのか、群衆を掻き分けながらこちらに向かって駆けてきている。なぜか装備は血だらけだ。
リーネの瞳が一瞬、寅二郎を捉えた。そこに、かつて見せた弱さはない。代わりに――鋭い憎悪が燃えていた。
「あなたには分からない。私がどれほど踏みにじられてきたか。笑われ、売られ、笑顔を強要され……私はもう、人間の“幸せ”なんて見たくない。全部、消えてしまえばいいの」
言葉は刃となり、群衆の胸に突き刺さる。怒号が割れ、もはや秩序は崩壊した。人々は互いに襲いかかり、屋台が炎を上げ、石が砕けた。王都は瞬く間にカオスと化した。
「くそっ……」シドが剣に手をかける。
「行くぞ、相棒!」寅二郎はなお走り続ける。だが二人が群衆をかき分けて進む最中、空気が音もなく変わった――黒い影が、月光の中に舞い降りる。
「ふふ……神殿に残してきた部下では足止めにもならんか」
ベルゼが、広場の縁に姿を現した。翼をたたみ、赤い瞳で場を眺め、静かにステージの上に降り立った。彼の口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「くそっ!一足遅かったか」
シドが歯を食いしばる。二人は今朝からベルゼ達の隠れ家である“神殿の地下”に突撃していた。しかしそこにいた悪魔たちを掃討しても、リーネの姿は見つけられなかった。
「ベルゼ! やめろ、手出しするな!」
「手出し? いや、これは芸術だ。彼女が自分の意思で選んだ“破壊”だろう?」
ベルゼは一歩、下がるようにして周囲の炎を楽しむ。
「だが――その意志を見せてくれるなら、我も参加しよう。
強者の反応をもっと精密に測りたいのだ」
寅二郎が剣を掲げ、真っ直ぐにベルゼを見据える。
「リーネは守る。今度は逃がさん」
ベルゼの笑いが、低く響いた。
「まずは貴様らの“守る力”を存分に楽しませてもらう。
さあ、来い――遊ぼうではないか」
その声を合図にして、ベルゼが舞い上がる。黒い羽根が鋭い音を立て、空気が裂ける。彼の周囲からは、刺のような影刃が無数に飛び出し、人々の間を裂いていく。群衆の暴走と相まって、戦場のような地獄絵図が広がった。
シドが素早く状況を判断する。
「トラジロウ、まずはリーネを取り戻す。群衆は一時的に放置。
俺が、――ベルゼを止める」
「了解だ、行くぞ!」
二人は分かれて動いた。寅二郎は舞台に向かい、シドはベルゼの動きを封じようとした。だが、ベルゼは容易に相手の動きを読んでおり、刃を交わせば交わすほど、より鋭く、より冷静に反撃してきた。その戦いぶりは、かつての獣の咆哮ではない。洗練された“遊戯”それ自体だ。
舞台では、リーネがなおも踊り続けている。満月の力は彼女を昇華させる。尋常ならぬ咆哮を上げる者、泣き崩れる者、拳を振るう者。
――人間たちは誰一人して“普通”ではなくなっていった。リーネの瞳が狂気に輝き、彼女自身の口から嗤いが漏れる。
「もう遅いのよ……みんな、さようなら」
その声は、月に吸われるように甘く、美しかった。
寅二郎はステージに飛び移り、リーネの前に立ち塞がる。群衆の間を駆け抜けながら、彼の足跡には光が残る。シドはベルゼと対峙する。二つの戦場が、同時に燃え上がった。
「お前を守りたいんだ、リーネ!」
寅二郎の叫びに、リーネは笑った。
「守るだなんて、おめでたい。じゃあ見せてちょうだい――どれだけ守れるか」
その瞬間、リーネの身体が一段と光を帯び、首飾りが赤く脈打った。
禍々しいオーラが立ち上り天をも貫かんと噴出した!
「まずい、この魅了の力。私じゃ耐え切れな…」ベルゼを切り裂かんと繰り出したシドの剣先が明らかに鈍る。苦も無く避け飛び上がったベルゼは寅二郎とリーネの方を見ていた。
「つまらん、この程度か。トラジロウ、お前はどうだ?」
もはやリーネを取り囲む竜巻のようになっていた魔力の奔流の前で、
寅二郎は呟いた。
「苦しそうじゃねぇかリーネ。俺が守ってやる」
「え?」
「俺が守ってやるって言ってんだ!」
と寅二郎は叫び、竜巻ごとリーネを抱きしめた!
その瞬間、赤黒い竜巻をブチ破り白い光の柱が立ち上った!
「俺がお前を守ってやる!」
「どうしてそこまで。私なんかの、ために」
寅二郎に抱きしめられ呆然と立ち尽くしていたリーネの瞳から涙がこぼれた。それに呼応するように首飾りは砕け、その欠片が白い光を発しながら空へと舞い上がっていった。
光の柱と化した寅二郎とリーネを見つめるベルゼは、その背後に態勢を立て直しベルゼの隙を伺っているシドに気付きながらも言った。
「トラジロウ、お前はやはり面白い。お楽しみはもう少し後に取っておくか」
そう言うと、黒い翼を広げそのまま何処かへと飛んで行った。




