洋の東西
駅のプラットフォームに行くと様々な服装の人が見える。
社会人が来ているスーツ、学生が来ている学ランなど様々だ。
しかし、これが100年前だとまた違った装いだっただろう。大雑把に言えば和服が多いはずだ。
このように、昔から服装が変化している。これは日本から西洋の(少なくとも西洋の服をベースとした)服へ変化したといえる。
このように文化・文明は伝播している。この伝播は小さく見れば古くからおこなわれていたであろう。言語で日本語が漢字を用いるのは漢字が伝播したからだ。
つまり、古今東西、伝播という物自体は発生しているのだ。
だが、伝播の過程や結果が異なるように思う。
はるか昔、遣唐使の人々は命がけで唐(中国)まで何日もかけて船で行った。また、アラビアの人々は砂漠をラクダなどを用いてゆっくりと歩き、命がけで商売をしていただろう。
しかし、今はどうだろうか。距離が離れていようともインターネットを用いれば何千キロはなれた地域の人と商売ができる。命などかける必要もない。
さて、これを伝播に当てはめると、昔の方が伝播をしにくいと言えるだろう。はるかに人同士の交流が難しく命がけだった昔と比べ、今は格段に通信ができ、TVをつければ地球の反対側の情報や文化に触れることができる。
さて、世界は小さくなった。特に、産業革命以来、蒸気船や蒸気機関車の発明によって、伝播の頻度、速度が上がった。世界では、日本のように近代化、西洋化が叫ばれ、世界は西洋となり、西洋は世界のベースとなった。
こうした意味で、ギリシャなどを源流にもつ西洋という文化というより文明は中華の文明や古代アメリカの文明など他のすべての文明にはなれなかった、世界の文明となった。
しかし、これを考えるとこうしたことも言える。
地域ごとに差があるとは言え、世界は西洋となった。皆が西洋的な視点で物事を考え、西洋的な文化・文明をしている。西洋は世界中にばらまかれた結果、世界は西洋的価値観や視点に固定されている。
地球環境問題は世界で協力して対処しなければいけない問題だ。と叫ばれる現在では、そのような環境問題に世界中の皆が関心を持つことは結構だが、世界中がある問題一つに特に注目しすぎるのはどうなのだろうか?(筆者は地球環境問題を軽視しているわけでもなく、地球規模で対策が必要だとは思っています。)
今までの様々な研究や発明を見ると大きく見れば地球規模の分業といえるだろう。
中国で紙が発明され、西洋では活版印刷が盛んになった。
中国で火薬が発見され、西洋ではこれをもとに鉄砲や大砲がたいりょットフォームに行くと様々な服装の人が見える。
社会人が来ているスーツ、学生が来ている学ランなど様々だ。
しかし、これが100年前だとまた違った装いだっただろう。大雑把に言えば和服が多いはずだ。
このように、昔から服装が変化している。これは日本から西洋の(少なくとも西洋の服をベースとした)服へ変化したといえる。
このように文化・文明は伝播している。この伝播は小さく見れば古くからおこなわれていたであろう。言語で日本語が漢字を用いるのは漢字が伝播したからだ。
つまり、古今東西、伝播という物自体は発生しているのだ。
だが、伝播の過程や結果が異なるように思う。
はるか昔、遣唐使の人々は命がけで唐(中国)まで何日もかけて船で行った。また、アラビアの人々は砂漠をラクダなどを用いてゆっくりと歩き、命がけで商売をしていただろう。
しかし、今はどうだろうか。距離が離れていようともインターネットを用いれば何千キロはなれた地域の人と商売ができる。命などかける必要もない。
さて、これを伝播に当てはめると、昔の方が伝播をしにくいと言えるだろう。はるかに人同士の交流が難しく命がけだった昔と比べ、今は格段に通信ができ、TVをつければ地球の反対側の情報や文化に触れることができる。
さて、世界は小さくなった。特に、産業革命以来、蒸気船や蒸気機関車の発明によって、伝播の頻度、速度が上がった。世界では、日本のように近代化、西洋化が叫ばれ、世界は西洋となり、西洋は世界のベースとなった。
こうした意味で、ギリシャなどを源流にもつ西洋という文化というより文明は中華の文明や古代アメリカの文明など他のすべての文明にはなれなかった、世界の文明となった。
しかし、これを考えるとこうしたことも言える。
地域ごとに差があるとは言え、世界は西洋となった。皆が西洋的な視点で物事を考え、西洋的な文化・文明をしている。西洋は世界中にばらまかれた結果、世界は西洋的価値観や視点に固定されている。
地球環境問題は世界で協力して対処しなければいけない問題だ。と叫ばれる現在では、そのような環境問題に世界中の皆が関心を持つことは結構だが、世界中がある問題一つに特に注目しすぎるのはどうなのだろうか?(筆者は地球環境問題を軽視しているわけでもなく、地球規模で対策が必要だとは思っています。)
今までの様々な研究や発明を見ると大きく見れば地球規模の分業といえるだろう。
中国で紙が発明され、西洋では活版印刷が盛んになった。
中国で火薬が発見され、西洋ではこれをもとに鉄砲や大砲を発展させた。
このように、世界規模で発明を分業している。別にその文化・文明内で発展しているものもあるかもしれないが、それはいったん除いている。
さて、昔は伝播が少なく、わずかに伝播してきたものは貴重なものだった。伝播するに値したものだった。これを文化・文明間で共有し、地球規模の分業を行った。この時、文化・文明ごとに視点の異なる研究者などが、分業を担っていたといえるだろう。この研究者らも結局は文化・文明という彼らの人生の背景が異なることが視点の違いにもかかわってくるだろう。
さて、現状に話を戻すと、果たして視点の異なる研究者らが研究をしているのだろうか?たしかに、研究者の数は昔よりもしかしたら多いのかもしれない。差別撤廃などによってさまざまな性別や立場の人々の視点から研究がなされているのかもしれない。
しかし、そのような人々も結局は西洋という文明を背景に持った地球で育ち、大きく見れば同じような生活をした人々なのだ。
結局、西洋という地球の背景ができたことによって、人々は画一化された。世界規模の分業は研究者の数を増やすだけであって、大きく異なる視点を増やすことにつながるかと言われれれば、そんなことはないだろう。
その研究する視点が正しかった時には良い結果を招くが、視点が誤っていたり、ずれていた時に修正することはすべてが画一化しているこの社会では難しいのかもしれない。
と僕は満員電車に乗りながら思っていたのかもしれない。