第三の死?
徒然なるままに書いている駄文です。
特に何気なしに筆者があるところへ行っているときにこんなものを目にし、聞くことがある。
「神は、、、なさったのである。また、罪を、、、」
みたいな宗教系の講演?演説?勧誘?どれともとれる宗教系の何かをやっている。
大体の宗教系の演説には死というものが関連付けられていることが多いように見受けられる。
そんな死について少し考えていた時のことだ。
皆さんは第二の死というのはご存じだろうか?
これは宗教的な意味ではなく亡くなった人を誰もが忘れた状態。亡くなった人は完全に忘れられ、影響が消えてしまった状態を指していることが多い。
例えば、徳川家康は第一の死という普段皆さんが想像している身体的な死を経験している。しかし、皆さんは徳川家康のことをご存じだ。日本の国営放送のドラマでも放送されているほどに有名で、知られている。この状態では徳川家康に第二の死は訪れないだろう。
さて、人々の記憶から完全に忘れ去られ第二の死をある人が迎えたが、その人が生きていた痕跡があった場合どうなるのだろうか。
また、そのある人が誰かはわからないが、ある人が現在に影響を残している場合も第二の死に当てはまる。
例えば、日本の和歌によくこのような作者がいる。「詠み人知らず」。
簡単に言えば「これは和歌を詠んだ人がわかりません。」という意味だ。
このような和歌はそれなりにあり、日本の国歌にある和歌は詠み人知らずとなっていて、作者は不明だ。
確かに人々の記憶としてはこの和歌を詠んだ人は特定できず、忘れ去られているだろう。しかしながら、ある時、ある場所で、ある人が確実にこの和歌を作っていることは確かなのだ。そして、今に確実に影響していることも確かなのだ。
ただ、この時考えてほしいことがある。一度存在を忘れられ、影響もなくなった亡くなった人が再び名前や影響力を持つ場合もある。
例えば、ある場所で発掘調査があり、存在自体を知られていなかった古墳が見つかり、そこに古墳の主の名が刻まれてあった時、その時第二の死からその主は復活することになるだろう。
また、急に新しい和歌が発見され、作者はわからずとも、世の中に大きな影響を与える作品も存在するだろう。
こんな「第二の死」について様々なバリエーションを考えてみることも面白いかもしれないと思いながら宗教勧誘の放送が流れる交差点を歩く筆者だった。
徒然なるままに書いている駄文です。
また、投稿は完全不定期かつ連載すること自体不明です。