第7段「再開と最期」
空を染める夕日は、まるで血のように赤く燃え上がっていた。
街の影が長く伸び、すべてが赤と黒の対比に染まる。
風も止み、ただ静寂だけが支配していた。
手にしたナイフの冷たさだけが、ひどく気に障る。
目的のラーメン屋の前にて、僕は奴を待ち伏せていた。
奴は必ず来ている。
根拠はなくとも、僕はそう確信していた。
さあ、早く来いよ、ジャコブロー。
早く来ないと、お前の大事な人が危ないぞ。
さあ、来い。
来い、来い、来い、来い────来た。
長身、ツーブロックヘア、イケメン。
少々華やかだが、誠実さが伝わってくる、そんな男だった。
間違いない。
「死ね……!!」
好機と判断し、僕は脇目も振らず奴に突進した。
握ったナイフは狂いなく、まっすぐ奴の心臓に向かって吸い込まれていく。
しかし────
接近する僕に気づいた奴の言葉で、手元に狂いが生じた。
「!! 詩織、逃げろ!!」
「!」
しおり。
それは、ふらんの本名か?
一瞬の上の空。
遅れて、鈍い音が響いた。
「ぐ、あッ……」
ナイフは目標を外し、ジャコブローの左肩あたりに突き刺さった。
僕は勢いよくナイフを引き抜くと、彼の白いシャツに真っ赤な華が浮かび上がる。
惜しい。
「こんばんは」
のんきにあいさつをしながら、まずい、と内心僕は焦っていた。
体格の差があるからだろうか。
こう奴に睨まれていると、どこからどう攻撃しても受け止められるように感じる。
不意打ちで仕留めそこねたのは大失敗だ。
「えっ……もけちゃん、なんで……!?」
ふらんは僕を見て、面白いように顔を青ざめさせた。
「下がってろ……」
ジャコブローが、僕から彼女を引き離し前に出る。
危険人物から伴侶を守ろうとする動作そのものだ、と状況を客観的に把握する。
それが嫌に目について苛立たしかった。
「……なんのつもりだ? もけけ丸」
奴が僕をにらみつけた。
窮地にも関わらず冷静な様子を見て、さらに苛立ちが募る。
「いや、死んでもらおうと思って」
「なぜだ?」
「脳が壊れたから……かな」
「意味ががわからないな。なんにせよ、やめておけ、お前の未来に差し障る」
にしても、この状況を理解してもなお、奴は僕を罵倒してこない。
警戒心こそ剥き出しだが、僕を慮る言葉をかけているのを見ると、やはり人としての格の違いを思い知らされる。
やはりお前は、僕が永遠かつ絶対に届かない存在だ。
「僕に未来などは無い」
「現実から逃げるな! 現実に向き合ってに努力をしなければ、なにも始まらないぞ」
前向きに努力すれば、何かが始まる?
「それは、にんげんの場合の話だ」
僕は人間ではない。
ゴキブリ以下だ。
醜悪で、救いようがない。
それが現実だ。
だから僕は愛されなかった。
女性からも
母親からさえも。
「極論に逃げるな! まともに取り合いたくないからって──」
「──僕の言葉は真実だ。僕のような弱者はこの世の誰からも必要とされず、淘汰される。それが自然の法則、いわば生態系の決定なのだ」
「……言っても無駄なようだな」
否定してくれないのか、と僕はガッカリした。
そんなのは真実じゃない、と言ってくれないのか。
お前の考えはまるっきりデタラメでしかない、と、言ってほしかった。
「じゃあ、死ね……!」
出血のせいだろう、先程に比べて、奴の佇まいは精彩を欠いていた。
これで最期だ。
やつを殺して僕も死ぬ。
僕はナイフを握りしめ、一気に踏み込んだ。
一息に肉薄し、ふらついた奴に向かって、ナイフを突きつける。
その刹那。
そう、殺った────確信が神経を走る、その刹那だ。
「正二郎っ……!」
横合いからの衝撃が、僕の体は殴り飛ばした。
「っ……ぐ……ぁ……!?」
何が起きた!?
驚愕に身をひきつらせながら体を起こす。
「詩織、助かった……」
「正二郎、大丈夫!? 怪我は!?」
見れば、ふらんが震えた声で、涙しながらジャコブローに駆け寄っている。
どちらも知らない名前だ。
奴らの本名なのだろう。
僕の知らないところで、奴らはどれだけ親密になっているのか、想像もつかない。
糞。
娘もろとも滅多刺しにしてやる。
もはや、お前は僕の憎悪と絶望を増幅させる装置でしかない。
────だが、その時だった。
背後から、けたたましいサイレンの音が近づいてきた。
振り返ると、純白の光の圧力に照らされ、なにも見えなくなる。
両腕で顔を覆っていると、大音量の声が響いた。
『そこのパーカー男、武器を捨てて、大人しく両手を上げなさい!!』
「っ糞、最悪だ!?」
僕は一目散に路地裏へと飛び込んだ。
◆
「はーっ……! はーっ……!」
走る。
走る。
走る……
からだを引きずり、息を切らしながら走る。
道路沿いの鉄格子からちらちらとのぞく夕日がひどく目障りだ。
やってしまった。
何てことだ。
失敗だ。
それも大失敗だ。
直に家に警察が来るだろう。
もう終わりだ。
もう何もかもがどうでもいい。
もう何もかもおしまいだ。
もう死ぬしか無い。
死ぬ前に一度でいいから女性に触れてみたかった。
さわってみたかった。
大きなおしり。
おおきなおっぱい。
ぷにぷになおてて。
白くてふっくらしたふくらはぎ。
さわりたい。
撫で回したい。
むしゃぶりつきたい。
フリーハグ、こんなド田舎じゃやってないか。
ちくしょう。
もう冷静な思考ができなくなっているらしい。
知能は低いというのに、性欲だけは人一倍強い。
我ながら社会的にひどく恐ろしい存在だ。
糞、死ぬしかないのか。
ひとりで、糞が。
◆
スーパーのチラシを裏返し、僕はサインペンで次のように記述した。
『僕を理解するのは実にカンタンである。
女性に愛されたい。
努力はできません。
だから自殺をする。
要するに、薄っぺらいゴミクズである』
「こうだな」
警察が来るかもしれないのに、ずいぶんと悠長なものだ、と思う。
思えば、僕は自分がいまからすることを止めてほしかったのかもしれない。
いつだって僕は本気で逃げる意志力がない。
まあ、結局最期まで誰も来なかったのだが。
「お元気で、ふらんさん」
そうして、僕は息を引き取ったわけである。
◆
警察が現場を確認しに来たとき、遺書に目を留めた刑事は、それを静かに手に取って一瞥した。
無言で立ち上がり、淡々とした手続きが進められていく。
写真が撮られ、指紋が確認され、そして遺書は証拠品として袋にしまわれた。
その後も遺書について誰かが深く掘り下げることはなかった。
「若い男性、マンションで練炭による自殺か」
そんな短いニュースが流れた。
それ以上のことは報道されなかった。
ふらんたちはそのニュースを見ていたが、すぐに画面を消した。
「どうしてかな……」
ふらんがつぶやいたが、答えはない。
その夜の会話は映画の話題に変わった。
その後、誰も彼のことを語ることはなかった。
駅前の交差点では、相変わらず人々が忙しく行き交う。
彼が何を抱えていたのかも、なぜこんな結末に至ったのかも、誰一人として知ろうとはしなかった。
彼の死はただの小さな出来事として、瞬く間に消え去り、世界は何事もなかったかのように動き続けた。
処女作、なんとか完結させられました。
ちょっとあっさりしすぎかもしれないですががんばりました。
読んでくださってありがとうございました。