本編三話
日が昇るよりも早く出たはずだったが、森を抜けると空は既に明るくなっていた。森を抜けて直ぐに見える切り立った崖、ここが目的地であると以前の鮮烈な記憶が告げる。この上にあの魔物がいると思うと自然と体が強張る。緊張と記憶が前に進むことを躊躇わせ、直視することが困難になり視線が下を向く。後ろから追っていたカラメラは何かを察したのかそっと肩に手を当てた後、目的である崖の上を一瞥し、進んで行った。彼女は私が来ることを信じて待っていることだろう。常に私の先を行く彼女には感謝と尊敬の念を感じるが、今回ばかりは一度来ている私が先導するべきだろう。目前まで来て逃げ出すことはできない。そう自分を鼓舞し、上に行くための洞窟に歩みを進める。そうして顔を上げると、彼女は崖を登っていた。ほぼ垂直な壁を、いくらかの突起を手掛かりに、相も変わらず運動に不向きなドレスのまま、彼女は崖を登っていた。現状を丁寧に理解したところで事実は変わらず、彼女は崖を登っていた。なるほど。可能な限りポジティブに解釈すれば最短経路を進んでいると考えるべきだろうか。記憶の通りでは洞窟の中にも魔物は少なからず存在していることは覚えている。崖を登ることと、複数の魔物を相手にすることを比較したときに消耗の少なさで比較すればどちらに軍配が上がるだろうか。そんな思考をしている内にも彼女は次々と崖を登っている。
突然焦りが出てきた。崖を登ることに自信がないわけではない。勿論慣れている訳ではないが登ること自体は可能なはずだ。しかし、自分は彼女に追いつくことが叶うだろうか。まずもって自分よりも身体能力の長けている彼女に追いつくことは困難極まるだろう。呼吸が荒れてくる。自分が何よりも恐れていることは再びあの光景を見る可能性についてだ。以前は自らが選んだことであった。だからこそ、二度と見殺しにするような真似はしたくない。冷静に崖に近づいていく。まず崖の突起に足を乗せる。手を掛ける。体を持ち上げ、次の突起に足を乗せる。単純な動作の繰り返しに焦りが囃し立て判断を鈍らせる。落ちることを恐れて慎重になる。矛盾した感情の均衡が崩れる前に気持ちと体を分離させる。
頂上付近で聞こえてきた複数の金属音から彼女の生存を期待し、壁を登りきる。視界に入ってきたのはフランベルジュを構えながら魔物に走るカラメラと、昨日見たダークトロールの姿であった。あの魔物の周辺には、昨日のトロールと思われる二つの体が転がっていた。首から胴にかけて致命的な傷跡が見られ既に死んでいるのだろう。出血は地面に貯まっていたと思われるが、乾き赤黒くなっている。一体いつからこのダークトロールは戦っているのだろうか。既に太陽は完全に出ており、夜型であるトロールにはかなり厳しい環境のはずだ。実際、体にも無理が来ているようで、新しい傷がいくつも見られる。果敢にも魔物に向かっていくダークトロールだが、一瞬の判断が遅れ、魔物の前足を引っかけられた。まるで子猫がおもちゃをすくうような動作からは想像ができない勢いでこちら側まで吹き飛ばされてきた。
新たな侵入者に気が付いたのか魔物はこちらに顔を向けてくる。村の時よりも近い距離、その眼光を一身に受ける圧力によって自然と体が震え出す。獅子のような全貌にはいくつかの傷が見られる。どれも浅く動きに支障はないようだが、四肢の健全さに比べ、背中に生える皮膜の翼はいくつも破れ残すところ4枚となっている。こちらに近づきながら魔物が口を開く、胸部を膨らませ、何かをしようとしている。そのように漠然と魔物の様子を伺っていると、視界を遮るようにダークトロールが自分の前に立った。完全に油断していた。この状況で自分がダークトロールに狙われているはずがないだろうと考えていた。咄嗟に身構える。しかし実際に受けた衝撃は想定とは異なっていた。正面より吹きかけられた高温の熱に思わず目を閉じる。鼻孔に何かが焼け焦げた匂いが届きむせ返る。熱の勢いが過ぎ去ったころに状況を理解しようと目を開くと、目の前にいたダークトロールが倒れ、焼け焦げている。地面に残された熱の痕跡が、魔物から発せられた炎によるものだと語る。なぜ庇ったのか。これが偶然だと考えられるほど楽観してはいない。この行動の意味を理解しなければいけないと、そう思った。この状況でそんなことを考える必要があるのか、その判断をするほどの理性は残っていなかった。そうこうしているうちにも魔物は再び自分に構えなおしていた。次に起こることを想像するのは容易い。次は自分なのであろう。混乱、動揺、異常な思考は、あろうことか命の間際で、達観をしていた。さながら離別の運命を背負う物語のヒロインの様に、無責任に、終わりを見つけたと言わんばかりに、受け入れようとしていた。一瞬が永遠の様に感ぜられる。苦しみから解放される。あろうことか自分は最期まで自分のことしか考えていなかったのだと、あきれながら運命を待つ。魔物を映す視界に一つ、見慣れた人影が飛び込んできた。カラメラが横から飛び込み、魔物に切りかかったのだ。彼女の一撃は翼によって往なされてしまったが、私に向かって一言叫ぶ「ダークトロール、任せますわ。」。そのまま彼女は魔物の注意を惹きながら私から離れるように戦い始めた。頬を殴りつける。何を腑抜けているのだ。そんな場合ではないだろう。一言により急速に冷え始めた頭が自分のすべきことを告げる。理由、理解は不要。少なくとも自分のことを救ってくれたのだ。それこそこのままで良い理由がない。即座にダークトロールの現状を把握しに行く。唯一の懸念は心臓が停止していることであったが、表皮の大部分が炭化し内部まで届いている箇所があるとはいえ、肺は動き、心臓の拍動を確認できた。であるならばと、深く、深く呼吸をし、神に対して詠唱を始める。この世界に対して、極小の事象に目を向けてもらえるように、一瞥を貰うために、懸命に詠唱を紡ぎ続ける。体が熱を持ち始め、急速に酸素が消費される、多くのエネルギーが生み出されマナと合わさり消費される。これは奇跡、信仰の賜物、理屈の通らない事象、一切の理解を拒み結果のみが示される。ダークトロールが僅かに発光してきたかと思えば、肉体の傷は時間が巻き戻るように消え、僅かに残った痕のみが過去の事象を証明した。即座に意識を取り戻したダークトロールは、傷が癒えているのを確認し、こちらを見たかと思えば、即座に魔物の向かっていった。
次はカラメラの治癒を、そう思って彼女の姿を追った。




